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2010.09.16
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第905話 「聖なる山上」

 仏蘭西のモン・サンミッシェルと英吉利の3-903”聖マイケル山”は、”大天使ミカエルの山”という同じ意味であり、同じような景観になっていて、同じように古代ケルト人以前から信仰の対象であったらしい ・・・ というのを偶然と考えるかどうか?

 実のところ、仮に両方のミカエルの周りから海がまったく無くなったとしたら?と想像するとき、南仏蘭西のル・ピュイ=アン=ヴレという第3の類似した聖地を私的には連想してしまうのですが、こちらは街の中央にコルネイユ岩(Rocher Corneille)とディク岩(Rocher Dyke)が並んで聳えていて信仰の対象になっています。

 もっとも、、オート=ロワール県の県庁所在地であるル・ピュイ=アン=ヴレは(仏蘭西最大の)大天使ミカエルのフレスコ画(約5m)もさることながら、黒いマリア信仰などで知られているのですが、複数の土着の信仰をカトリックが布教する段階で類似した話の中に取り込んだり習合しながら現在に至っている気もしますし、マリア信仰といいながらも黒いマリア信仰は基督以前の話になるようです。

 ちなみにコルネイユ岩の山腹にはノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame)が、ディック岩の頂上(82m)にはサン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂(Chapelle St-Michel d'Aiguilhe)があるのですが、ノートルダム大聖堂は溶岩を加工した”黒い聖母子像”と”熱病の石”があることで有名で、サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂には羅馬時代にメルクリウス神に捧げた石碑が現存しているそうです。

 聖なる山があるのになぜここは例によって大天使ミカエルの名が絡んでいながら、聖母マリア信仰の地としての方がメジャーなのか?と考えるとき、カトリックが広まっていくときの手口と大天使ミカエルの役割のようなものがぼんやりと見えてくる気がするのですが、ま、とりあえずは山があれば大天使ミカエルが祀られているという程度でいいのかもしれません(笑)。

 基督教が占有する以前のディック岩は癒しの場として知られていたようで、日本で例えれば長野県の分杭峠のような場所だったと考えると分かりやすいのかもしれませんが、石を積み上げたピラミッドを含む巨石などには周囲と電位差が明確に生じている事があり、動植物を細胞レベルで活性化させるのか発芽率が向上したり傷の修復が早くなる(細胞の活性化)事があるのは確認されています。

 元来、ディック岩もコルネイユ岩も火山活動によって生じたというか、火山の一部ですから、怪しげな磁場や気場の類が生じていても不思議ではないのですが、そういった場所をケルト人が聖地とし、やがてローマ人がやってきて彼らの風習を持ち込み、最後に基督教が伝来し”無かったこと”にしたり”取り込んでいった”という流れにここもなっているようです。

 ちなみに、コルネイユ岩には自由の女神にも似た全長18mの鉄製の聖母子像も建っていて、これを有名な(黒い)マリア像と勘違いする人もいるそうですが、これはクルミア戦争に勝利したことを記念して19世紀中頃に大砲213門などを材料に造ったとされている代物で、中の螺旋階段を上っていくと展望台になって町が一望できるそうです ・・・ 微妙~な存在のような気がするのは気のせいか?

 黒い聖母信仰に関しては、仏蘭西や西班牙のカタルーニャ地方で意外と史跡が多いというか現在でも信仰する人が珍しく無いのですが、ケルト人の地母神信仰に由来するとも、オリエントの地母神信仰に由来するとも言われているものの、”これ!”という定説は無いようです。

 怪しい話としては、マグダラのマリアは黒人だったのではないか?という仮説を以前に取り上げたことがあるのですが、これは(珍しく)根拠が無い話ではなく、外典などを含めても新約聖書の中にはどこそこの誰それの子孫とかいった記述や職業などへの言及はあっても、肌の色や身長、体重、年齢などの個人の外見情報にする記載が、基督を含めてほとんどの登場人物に無かったりします。

 また、旧約聖書に登場するシバの女王が紀元前10世紀頃のシバ王国の女王であり、新約聖書では”地の果てから来た南の女王”が該当するというのが定説ですが、シバの女王とソロモン王が夫婦になったかどうかはともかく、シバ王国は現在のエチオピアかイエメンに実在した国だったと考えられています。

 ちなみに、エチオピア説の場合、シバの女王の名はマケダで、マケダ女王とソロモン王の間に産まれた子供がエチオピア帝国(アクスム王国)の始祖であるメネリク1世であると話が続くことになり、イエメン説の場合の女王の名はビルキスになるのですが、この場合も、その子孫がエチオピアに移動して建国した事になっているようです。

 いずれにしても、印度と羅馬を相手に交易国家として栄えたアクスムの都市にはユダヤ教徒、基督教徒、仏教徒や、ヌビア人までいた国際交易の拠点だったようで、逆に言えば、主要な交易相手の国や、その交易経路の主要な都市にアクスムの民がいても不思議では無いのではなかろうか?

 なお、シバの女王の伝説などから派生しているのが、いわゆる”失われたアーク”はエチオピアに運び込まれたのではないか?という説などですが、基督教関係では、一番古い記録として、325(または328)年にコプト派基督教がアクスムに伝来しているのですが、それ以前に伝来していたという説もあり、基督の正統な教えはエチオピアに伝わったものであって、基督の死後に成立したカトリックの教義ではないという説もあります。

 まあ、確かにカトリックは直系の弟子の一部や(実際に基督を見たことが無い)孫弟子以降が中心になって広めた教義ですし、何らかの理由で弟子達と基督の家族が決裂したのか、”ダビンチコード(ダン・ブラウン)”で有名になった、”基督の母マリアやマグダラのマリア達が欧羅巴(というか仏蘭西)に逃げて生きながらえた”という伝承が物証や痕跡を伴う事があり、一定の説得力を持っているのは御存知の通り。

 で、南仏蘭西はカマルグ地方のサント・マリー・ド・メールという地中海に面した町は、”海からやってきた聖マリア”という意味になるそうで、ロマの巡礼地としても知られていますが、基督の処刑に立ち会ったとされている、マグダラのマリア、マリア・ヤコベ、マリア・サロメの3人のマリアと、マグダラのマリアの召使いで黒人であったサラが船で辿り着いたことが町の名前の由来になっているそうです。

 ちなみに、マグダラのマリアは、さらにプロバンスにあるサント・ボーム(の洞窟)に向かい、サント・マリー・ド・メールには残りの2人のマリアと召使いのサラが残って布教を行い、それが後のサント・マリー教会へ継承されていった ・・・ とされています。

 ただ、ここで、ケルトの昔から信仰されていた黒い大地母神の信仰と3人のマリアに付き従ったサラが融合したというと奇妙ですが、少なくとも黒いマリア信仰の一つの出発点となったようですし、漂泊の民であるロマたちにとっては3人のマリア達の旅を支えたサラが(自分たちにとっても)旅の守護聖人に相当することになったようです。

 そのあたりがごっちゃになったためか、毎年5月と10月には、サント・マリー教会の地下に安置されている黒いサラの像を海へ運ぶという、いささか奇妙な祭りが行われているのですが、ここで、興味深いのは、ケルトなどの大地母神に由来するという説の他に、印度のカーリー神に由来するという説があることで、当時の文化の伝播から考えると、アクスムとの関わりを考慮していいのではないかと。

 カーリー神はシヴァの妻の一人で、全身黒色、4本の腕を持ち、血と酒と殺戮を好む戦いの女神でありながら、カーリー・マー(黒い母)とも呼ばれ、女神ドゥルガーの娘でもあるのですが、この女神様について話すと長くなりますので、また別の機会に。

 なお、サント・ボームに向かったマグダラのマリアはサント・ボームの山麓の洞窟で亡くなるまでの30年程を過ごしたとされ、母マリアに次ぐ聖女に位置付ける基督教の宗派が多いのですが、サント・ボームの洞窟の中には礼拝堂が造られていて、マグダラのマリアのものとされる遺髪と遺骨の一部が祀られていることで知られています。

 が、マグダラのマリアの遺骨は少し離れたサン・マクシマンの町で発見されたそうですから、食糧や衣類などの日用品の補給などから考えても、マグダラのマリアがず~っと洞窟で過ごしていたかどうかは定かではなく、他の伝承などと結びついた可能性もあります。

 その後、遺骨(頭蓋骨)はブルゴーニュ地方ヴェズレーにある聖マドレーヌ大聖堂に移送されたとも言われているのですが、サン・マクシマンの町では、サン・マクシマン聖堂に現存するとしており、何時の時期か洞窟に祀られている遺骨を含めて分骨が行われた(一部はパリのマドレーヌ寺院にも分骨)と考えると筋が通るような気もします。

 なお、マグダラのマリア終焉の地には他にも、ダビンチコードの元ネタの一つになった”レンヌ=ル=シャトーの謎(ヘンリー・リンカーン他。)”の舞台である、南仏のレングドック地方にあるレンヌ=ル=シャトーなどもあるのですが、マグダラのマリアがレンヌ=ル=シャトー界隈の出身だったかどうかは定かではないものの、南仏蘭西で基督直系のマグダラのマリア派とでもいった宗派が成立していた可能性はあるのではないかと。

 というか、マグダラのマリアが基督の妻で、2人の間に子供がいることが当時は一般常識のレベルで知られていたからこそ、彼女たちの逃避行や隠遁生活、あるいは布教活動にスポンサーやサポーターの類が着いたと考えられますし、彼女たちが亡くなった後も、地元の人達がそうし経緯を熟知していたがために、他の宗派も完全に彼女達の痕跡を消す事ができず、融和することでいろいろと闇に埋もれていったのではなかろうか?

 長くなって参りましたので、その辺りの考察を含めて、遺跡解説の続きはまた別の機会に(笑)。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第905話:(2010/09/10)





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Last updated  2010.09.16 00:48:14
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