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2011.03.10
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第055話 「元祖万聖節」

 ハローウイーン(Hallowmas)とか1-718”ハロウィン”というお祭り騒ぎは、10月31日に行われる国や地域が多いのですが、”万聖節(ばんせいせつ:All Saint's Day:11月1日)”の本祭りではなく、万聖節の前夜祭のことになります。

 英国やアイルランドなどでは、基督教の教会的行事のほかに、ケルト人の風習に由来するとされる焚火(たきび)、運勢占い、林檎食い競争などの民俗の伝統に根付いている行事が行われることがあるのですが、このことは、ケルトの祭りを基督教が乗っ取ったことを暗示しています。

 欧羅巴におけるケルト人の存在は、日本で例えれば縄文人のようなものといった話は、4-41”ゲルマン民族”の回などでしたことがありますが、欧羅巴のガリアと呼ばれた中部から西部にかけての森林地帯が主な居住範囲という時代が数千~数万年の単位で長く続いていたようです。

 ケルト人たちはドルイド教と呼ばれる宗教を信仰していて、その教義の内の霊魂の不滅や輪廻転生とか炎による浄化といったあたりは他の宗教でもみられ、日本人にも理解しやすいのですが、世界樹信仰といいましょうか、祭礼が樫の木の森で行われたこともあってか樫の木などへの巨木信仰があることが一つの特徴になっています。

 なお、ドルイド教は基督教によって邪教とされ大弾圧されて衰退し一部は地下に潜ってしまうのですが、表面的にもさすがに根絶することは難しかったようで、大きな祭礼などは新約聖書の記述などと無理矢理関連づけてドルイドの祭りではなく基督教の祭りであるかのように看板を掛け替えさせることで黙認し起源を有耶無耶にしていったようです。

 いずれにしても、今となっては起源など詳細が分からなくなっているのに祭りの儀式だけは継続されて大規模に祝われている事例は珍しくなくなっているのですが、逆に、12月25日のクリスマスの風習にみられるように、本来は基督の生まれた日とは無縁の古い土着宗教の新年の訪れを祝う日だったものを無理矢理に”基督の誕生日”としている事例もあるのは御存知の通り。

 簡単に基督教が全てを消し去る事ができなかったどころか、嘘を付いている内に自分たちも信じ込んでしまったとも言えるのですが、砂漠の中で産まれて発展したような宗教が、広葉樹林帯や針葉樹林帯に普遍的に対応する事には難があるというか、少なからず変質していく部分もあるということかもしれません(笑)。

 興味深い現象として、スタジオジブリの映画”となりのトトロ”が欧羅巴でも意外とすんなりと受け入れられ、なおかつ人気があることで、その理由の一つが、巨木とそこに住む妖精達と共存する人の間の交流というのは、かっての日本やガリアの地では素直に受け入れられていた価値観の一つであり、原風景に近いからかもしれません。

 その意味では、同じジブリ作品の”もののけ姫”の世界観は、どちらかといえば羅馬帝国の勃興期の感覚に近いのではないか?という気がしているのですが、比較的自然と共生していたケルトやゲルマンの民に対して、大規模な国家を形成し、森から出て都市の家に住むようになり、その快適な生活を維持するために自然から収奪するようになれば、価値観や世界観が変わっても仕方がないのではないか?ということです。

 しかしながら、自然への本能的な回帰願望と、自然環境を消費し変質させながら発達していく文明のもたらす便利で快適な生活が手放せなくなっている現実が同時に存在することの精神的な葛藤は、羅馬帝国を建国し大帝国へ育て上げていく過程で、ラテン民族も幾度と無く自問自答していたか、或いは自問自答し続けている事なのかもしれません。

 そう考えると、基督教というのは、森林地帯などより生活環境が厳しい砂漠地帯が前提に成立しているだけに、自然から奪い、自然をコントロールしないと生きていけない大前提があり、自然と共生したら砂漠に村が呑み込まれて滅んでいきかねない、ある意味で世界が腐海に呑み込まれている”風の谷のナウシカ”の世界観や価値観に近い気がしないでもありません。

 本来、どの価値観が正解かは、それぞれが生活している環境によって違ってくる可能性が高いわけですが、基督やその家族、あるいは直弟子の12使徒などの高弟達によって広められていた原初・基督教とでもいった時代と、羅馬帝国と妥協し他の宗教を政治的に追い落としていった羅馬カトリックに代表される、世俗化していった基督教団の時代は、その教義の変質を含めて分けて考える必要があるのかもしれません。

 それはともかく、ゲルマン民族の大移動にともなって、玉突きのように、ケルト人は欧羅巴の中部、西部から西や南北へと追われ、一部はドーバー海峡を渡って英吉利やアイルランドに到達しているのですが、移動してきたゲルマン人と共存したり融合した事例も少なくないようで、そもそも総人口が少ない時代ですから、相互理解というよりも、根絶する殲滅戦争をするよりも双方が生き残るための妥協がしやすかったと考えられます。

 本宮というか本番の祭りになる万聖節は、表の建前としては全聖人を記念する基督教の祝日ですが、(西羅馬帝国の)西方教会系では11月1日、(東羅馬帝国の)東方教会系では聖霊降臨祭後の最初の日曜日といった具合に、基督教の中でも日にちが分かれているくらいですから、その日でなければならない主な理由は、もっぱら、それぞれの地域の土着の古代宗教の大規模な祭事を基督教が乗っ取っていくための方便と考えた方が筋が通ります。

 そのあたり、欧羅巴の古代の祭祀は数日に渡って行われる事が珍しく無いというか普通で、そのあたりも日本の古くから伝わる祭りと共通していますが、カリスマ的指導者であった基督の教えを守ることができるかどうか?が主で、そもそもは祭事の類がほとんど無いロジックな基督教とは顕著な差の一つになっていると言えますが、日本ではあまり知られていませんが、万聖節の翌日の11月2日は”万霊祭(ばんれいさい)”という祭事日になっています。

 で、万霊祭は基督教の中でもカトリック系において死者の記念日とか諸死者の記念日とされているのですが、なぜそうなるのか?は謎で、他の宗派だと祭事日として存在しない場合もありますから、ガリア地方のケルトの風習をなんとか基督教起源のものと言いくるめるための方便という気がしないでもありません ・・・ そもそも、基督教において死者は最後の審判の日まで眠りについているのではなかったでしょうか?

 結局、元祖万聖節とは何か?というと、ケルト民族にとって、夏が終わって厳しい冬へと向かう区切りの祭りであり、厳しい冬を乗り切るためにも、その前夜祭であるハロウイーンでは、炎で今年の悪霊や死霊の類を含む汚れなどを浄化し、神様に無事に越冬できるように守護を祈っていたわけで、それ故に、冬場に暖をとれるという意味でも”炎”が神聖視され重要な役割を果たしているのではないかと。

 前述したように東方教会系では、万聖節は、聖霊降臨祭(せいれいこうりんさい)の後の最初の日曜日という奇妙な位置付けで、そもそも基督が復活した後50日目(復活後に昇天した後だと10日目)に、(基督の上ではなく)”使徒たちの上に聖霊(Holy Spirit、Holy Ghost)が火炎の舌の形で降った(使徒行伝ー2)”ことを記念する程度の日を祝祭日とし、さらにその日から数えて何日後ではなく最初の日曜日というあたりからも本来は別の祭と考えられます。

 つまり、ケルトの火を使った重要な季節の節目の祭に、無理矢理、基督教における炎に関する奇跡現象を記念日に仕立てて被せていったような気がしているのですが、そもそものケルトの火の祭りというのは、一種の口減らしを兼ねた過激な儀式を含む祭事でもあったようで、後の謝肉祭にも影響を与えていると考えると筋が通ってくるのですが、謝肉祭に関してはまた別の機会に。

 では、ケルトの民が本来行っていた万聖節の祭りはどのようなものだったのか?というと、そもそもケルト人は死者の魂はあの世へ行くまでの約12ヶ月間は動物や人間に取り憑いて過ごしていると考えていて、取り憑かれている動物や人間を探すときに、逆に自分が取り憑かれないように奇妙な格好をしたり大きな音をたてたり、相互に見張り遭いながら家の中や外を歩き回ったとされています。

 ある意味で、日本の夏の虫追い祭りの類に似ている気もしますが、村はずれで大きな篝火を焚いて、そこへ最終的に集まって僧侶によって霊を追い払うための祈祷や、夏の収穫を太陽の神に感謝する祈りなどを捧げたのですが、その際、悪霊に取り憑かれている(とされた)人や動物は篝火の中に投げ込んで霊への見せしめとしていたそうで、少なくとも紀元61年に羅馬人が法律で禁じるまでは続いていた風習のようですが、禁じられた後は人形で代用するようになったようです。

 ちなみに、子供達が練り歩きながらお菓子を求める風習は、訪れた家の(親類縁者を含めて)死者のために祈りを捧げた事への報酬として、いわゆるソールケーキ(ジャム付きのビスケットなど)の類を家人が来訪者へ渡していたのが起源とされ、欧羅巴で9世紀頃には”ソーリング”という風習になっていたようですが、もちろん、基督教に該当する故事や儀式の類はありません(笑)。

 亜米利加の万聖日でカボチャの中身をくりぬいた、お化け南瓜のランタン(jack-o’-lantern)がいたるところに飾られ徘徊する光景は、1840年代にアイルランド芋飢饉の影響でアイルランドから亜米利加へ大量のアイルランド移民が押し寄せてからの風習のようですが、村はずれで焚かれた大きな篝火のできるだけ近くに若者を横たわらせて、他の若者がその上を飛び越えるといった過激な遊びは伝わらなかったか、定着しなかったようです(笑)。

 基本的に、ケルトの火の祭りは、太陽の運行(=季節の変化)と連動していて、春を迎える祭や夏至の祭などでも、大きな焚き火で生け贄を焼く儀式というか風習があったのですが、その辺りのことは機会があればということで、今回はここまで。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第055話:(2011/03/04)





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Last updated  2011.03.10 00:47:27
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