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2011.05.16
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第106話 「コプト教」

 基督教に関して、その歴史を見ていくと、まずはカリスマ教祖であるイエス・キリストが生きていた時代から話が始まるわけですが、あちこちの既存の宗教団体に喧嘩を売って回っていますから、美しく言えば新進気鋭の新興宗教団体で、悪く言えばカルト教団ということになります。

 しかも、イスラム教に見られるような女性差別を肯定していないのも画期的で、明らかに女性信徒の集団が形成されていて基督の身近で行動を伴にしていたのは確かな話になりますし、マグダラのマリアが基督の妻だったという説を持ち出すまでもなく、基督の周辺にはまず家族集団がいて、12使徒などは布教活動に参加している教団員に過ぎなかったようです。

 それは、3-906”マリアの福音”の回でも触れたように、(昇天したかどうかはともかく)基督亡き後、(いわゆる嫁)マリアだけが基督から特別な秘技を直接伝授された可能性を使徒達が捨てきれずにいて、主にペトロがマリアを責め立てて秘技の公開を強要し、最終的に交渉が決裂したといった逸話とも繋がるのですが、基督の12使徒に対する信用度は、刑死する直前の使徒達の行動に関する預言で明かではなかろうか?

 また、基督周辺の複数のマリア達は、13使徒よりも長く基督の身近に接していて教化されていた家族同然の直系信徒集団だった可能性が高く、実際、基督の処刑や復活にも、使徒達ではなく彼女達が立ち会っていて、処刑に同道し、立ち会い、遺体を処理し、復活に遭遇したのは家族や女性信徒達だったことを考えるとき、基督の奇跡現象のクライマックスに12使徒に象徴される男性信徒は関わっていないことになります。

 もっとも、ユダヤの社会は父兄社会ですから、(小)ヤコブやヨセフが基督の義兄や異父弟とすれば使徒でもあり血族でもあったとすれば、彼らが関係者を統率して家族会的な教団を形成しようとすれば、母親のマリアもそちらに参加するのは自然な流れではないかと思いますし、現在でも新興宗教で初代の教祖が亡くなった後などにはしばしば見られる光景でもあります。

 興味深いのは、母マリアと嫁マリアの確執で、”昔も、嫁姑問題があったのか?”と思ったのですが、家族会と嫁マリアの一団は袂を分かち、嫁マリアの一団は地中海を渡って南仏に辿り着いて余生を過ごし、黒いマリア信仰がそのあたりから派生している形跡があるといった話は以前に何度かしたことがありますので今回は略とします。

 母マリアの最後が良く分かっていないことは、最終的に家族会が衰退し自然消滅していった可能性が高いことを示唆しているのですが、当初は家族会と他の使徒達との軋轢が激化し、使徒達の殉教に至るような過激な布教活動の背景に”自分こそが正統の後継者”という意地とプライドがあったのかもしれません。

 ちなみに、基督の言行録という側面の強い新約聖書に関しては、数名の関係者が著述した”福音”書が正伝とされ、宗派によっては外典とか偽典として特定の福音書を除外することがありますが、恐らく、マルコの福音書の成立と普及が一番早かったようで、それに対抗する意味で他の福音書も書かれていったようです。

 12使徒の中に含まれていないのに、福音書の定番に名を残すマルコとは何者か?といえば、マルコの母親が基督の熱心な信者で、その家が集会場などに利用されることが珍しくなかったようですから、有力な後援者の息子であり、(少なくとも晩年の)基督の身近にいた、熱烈なファンクラブの会長とでもいったことになるのですが、福音書の記述に関して、当時の関係者が読んでも否定できない内容だったのは確かなことになります。

 したがって、マルコの福音書は12使徒の言動に関して、いささか手厳しいのですが、ファンクラブの構成員からすれば、崇拝するのは直接教えを受けたこともある基督本人だけで、家族会のメンバーも高弟も、崇拝の対象にはならないのは当然で、逆に、誰かが適当なことを言い出して汚される前に、生前の師匠の言動などを記録しておく必要を感じるのが、今も昔もファンという生き物の特性なのかもしれません(笑)。

 実際に基督と身近に接したことのある人達の間での確執というのは、モノの捉え方や見方の違いという解釈もできるのですが、ここに、基督の死後にファンになったと主張する奇妙な連中が勃興して、(信者の組織化に関しては素人の)家族会などよりよほど効率的な組織を構築することに成功することになります。

 前述したように、新約聖書でさえ関係者が基督の没後に世に出した書物ですし、基督が書き残したものは一行も存在が確認されていないわけですから、映画もビデオも無い時代に、身近に接するどころか見たこともない他人の死後にファンなって新教団(初代教会)まで組織して何がやりたかったのか?は私には良く分かりません。

 なにしろ、基督を新約聖書や基督の弟子や関係者からの伝聞でしか知らない人達が中心になって造った組織ですから、巨大化して利権が生じれば分派しないのが不思議なくらいで、エフェッソス公会議(431)で東方教会の中の東方諸教会としてアッシリア東方教会が分派します。

 次ぎの節目は、カルケドン公会議(451)で東方教会の中で東方諸教会に区分される非カルケドン派が分派してしまうのですが、ギリシャ正教に代表される正教会というか東方教会は、自分たちの方が正統派という意識が強かったのかもしれません。

 カルケドン公会議は小アジアのカルケドンで開かれた第4回公会議ですが、単性論およびネストリウスが批判され、基督が神性と人性の両性を完全(混ざらず・変わらず・分かれず・離れず)な形でそなえるという正統教義(=カルケドン信条)が採択されていますが、背景には羅馬教皇レオ1世の意向が働いたとされ、少なくとも以後の基督教世界はカルケドン派(羅馬カトリック教会と東方正教会)と非カルケドン派に二分されることになります。

 しかしながら、11世紀頃には東西教会が完全に分裂してしまい、カトリック教会(羅馬カトリック)を唯一の西方教会の宗派としてスタートするのですが、16世紀頃から宗教改革が始まると、プロテスタント、聖公会、アナバプテスト、復興主義などなどに西方教会が分派していくことになります。

 中には、宗教改革の少し前に、カトリック教会から分派して東方教会へ移籍した東方典礼カトリック教会といったややこしい立ち位置の宗派もあるのですが、復興主義の中にカトリック教会からの分派ではなく初代教会の直系を主張する勢力があるように、”我こそは ・・・”という自負があるあたりが、宗教分派のややこしいところかもしれません。

 念のために書いておくと、「カトリック」と「ローマ・カトリック」という言葉の意味するところは別物で、そもそもの”カトリック”はギリシャ語の形容詞”カトリコス”に由来し、基督の教えの普遍的性質を最大公約数的に言い表そうとした際に用いられた概念で、羅馬カトリックという言葉がもっぱら羅馬教皇を首長とする教派組織そのものを意味するようになって以降は、両者の乖離が次第に大きくなったと言えます。

 で、やっとコプト教に辿り着くのですが、コプト教(Coptic Christianity、Coptic Orthodox Church)は、キリスト教の中で東方教会の非カルケドン派(東方諸教会)の一つで、エジプトで発展した単性論派キリスト教会ということになり、羅馬カトリックよりも古い時期に分派しているのですが、似たような名称の”カトリック・コプト教会”は前述したように、宗教改革が始まる少し前に西方教会から東方教会へ移籍した東方典礼カトリック教会で別の組織になります。

 伝承では42年頃にマルコがエジプトのアレクサンドリアに建てたアレクサンドリア教会が母胎とされ、451年のカルケドン公会議の後、カルケドン派(現在のキリスト教多数派)と袂を分かっているのですが、母マリアを神の母として崇敬するのが一つの特徴で、”マタイによる福音書”の聖家族のエジプト逃避の記事が有るためか、エジプト、エチオピア、エリトリア、アメリカ、オーストラリアを中心に、世界で総計5千万人のコプト系キリスト教徒がいる事になっています。

 20世紀に入ってエチオピア正教会が分離したものの教理上の違いはないようで、”ヘロデ王の赤子殺しの指令を避けて、産まれたばかりの基督を連れてエジプトに避難した聖家族が、ヘロデ王が亡くなる紀元前4年まで、三年間エジプトに住んでいた”とされ、幼きイエスの奇跡譚などの伝承が現地に残されていたりします。

 では、分派しながらも、一応は、相手も基督教の教会であると認める基準はどこにあるのか?というと、父と子と聖霊の三位一体(Trinity)説の容認、救世主である基督を信じることが最低限の共通認識のようで、逆にこの大枠の2点さえもその教義において否定する場合は、どのような名称を自称していても基督教の教会とは認められないようです。

 分派後のコプト教は、642年以降はイスラムの支配下で圧迫され衰退していくのですが、現在の主教座はカイロに置かれていて、エジプトの信徒はエジプトの人口の約1割程度ですが、コプト教徒の妻がイスラム教徒の夫に離婚を切り出したことを切っ掛けに多数派のイスラム教徒に襲撃されてコプト教の教会が焼き討ちにされる事件が発生(2011)したことに象徴されるように、何かと迫害を受けています。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第106話:(2011/05/10)





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Last updated  2011.05.16 00:27:00
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