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2011.11.25
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カテゴリ:植物
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第272話 「宵待草」

 竹久夢二(たけひさゆめじ:本名・茂次郎:もじろう:1884~1934)が、何を本業としていたのか?は微妙~な気がしますが、岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)で代々酒造業を営む家の次男として産まれています。

 長男が夢二の産まれる前年に亡くなった関係で、実質的に長男として育てられ、地理的に近いこともあってか兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現・兵庫県立神戸高等学校)に進学していますから、比較的裕福な家の跡取り息子だったと書いてよろしいかと思います。

 もっとも、夢二の経歴を調べていてしみじみ思ったのは、せめて夢二が中学を卒業できていれば良かったのにということで、中学に進学したものの12月には家の都合で中退を余儀なくされ、翌年には実家は造り酒屋を畳んで福岡県八幡村の八幡製鉄所に移り住んで夢二の父(菊蔵)と夢二は八幡製鉄所で働いていますから、転落人生と書いて良いと思います。

 田舎の金持ちの坊ちゃんが、ある日を境にその辺の貧乏人の小せがれと同じ境遇になってしまったということですが、夢二にしてみれば、自分の努力や精進とは関係の無いことが原因で自分の将来が激変してしまった上に、16歳で八幡製鉄所で働き初めてしばらくすれば、高等教育を受けないままでいた場合の”先”がある程度わかったのではないかと。

 実際にどうだったのかは定かではないのですが、1901年に家出をして上京していますから、その時点で”自分の将来は親の都合ではなく自分で決める”という腹を括ったからではないか?と考えられますが、1902年に早稲田実業学校専攻科に入学していますが、早稲田実業学校専攻科時代にスケッチを新聞社などに投降しているのは、とりあえず学生が新聞社にコネを作ったり、金を稼ぐ方法として”絵”に目を付けた可能性がかなり高いのではなかろうか?

 夢二の経歴を知れば知るほど不思議なのは、絵に関して正式に専門教育を受けていないことで、後に”夢二式美人画”と呼ばれることになる若い女性をモデルにした特有の絵にしたところで、”これって、素人がプロの絵を見よう見まねで模倣したんじゃないの?”という印象が(私には)拭えません ・・・ あっさり書けば2Dの絵で構図も下手です。

 逆に言えば、夢二より才能に恵まれて、絵に関する専門教育をきちんと受けて研鑽していながら、夢二ほど商業的な成功に恵まれていなかった人達にしてみれば、”なんでこの程度の絵で、あんな奴が!”という反発を産むのに十分な状況になっていったということで、皮肉なことに、夢二自身が、自分の絵が素人絵に過ぎないことを自覚していたのではなかろうか?

 プロの画家として飯を食うということでは、夢二にとって親の世代に相当する横山大観(1868~1958)が東京美術学校の1回生だったことは比較的知られた話ですから、既に美術学校へ進学する道や、従来の日本画で一派を形成している集団の門下として末席から学ぶ道などもあっただけに、特定の師匠を持たず、専門教育を受けたわけでもなく、時代にマッチしていたことで素人に人気が出ただけというのが夢二の置かれた立ち位置ということです。

 厳しい書き方をすれば、在野にあって一人で新たな芸術を模索し続けた一生というよりも、日本画や洋画といった既存の業界のプロ達に相手にされなかったため在野にいるしかなかっただけのことで、技術的に稚拙で”一過性の人気”で”一代限り”に過ぎないと考える人が多かったからこそ、夢二が画塾を開いて門弟を養成して多数派形成をして一流一派を起こすことができなかったのではないのか?ということで、その意味で”商業デザイナーの草分け”的な存在という評が一番適切なのかもしれません。

 もう少し後に産まれていれば、太宰治(1909~1948)のような私小説家としての人生を歩んだのかもしれませんが、同世代の小説家の阿部次郎(1883~1959)や鈴木三重吉(1882~1936)少し後の芥川竜之介(1892~1927)の頃でさえ東大や早稲田などの”大学”を卒業したり中退したインテリ系作家が主流で、当時は(東大に限らず)帝国大学卒であれば知的エリートとして認められるに十分な時代だっただけに、高学歴とは言い難い夢二にとって文壇の敷居が高かったとしても不思議ではありません。

 その辺りの明暗と言うことでは、児童文学というジャンルを確立した鈴木三重吉は広島県広島市の生まれで産まれた場所や時代が夢二とかなり近いのですが、彼の場合は東大の英文科を卒業し、1916年に童話集”湖水の恩亜”を出版し、1918年に児童雑誌”赤い鳥”を創刊し、童話や童謡などを児童文学の域に引き上げ芸術の一つの分野として社会に認めさせ、”赤い鳥”の執筆陣として森鴎外(1862~1922)、島崎藤村(1872~1943)、・・・、芥川竜之介といった有名どころが参加しているあたりに”学歴”と大卒人脈を感じます。

 また、同時期の、小川未明(1882~1961)、秋田雨雀(1883~1962)、北原白秋(1885~1942)といった有名どころも大卒が多く、絵にしても小説の類にしても既に高学歴者によって派閥が形成されていただけに、移り気な乙女や卒業していく青年たちを中心とした若い世代を中心とした大衆人気にだけに支えられた夢二が不安感に悩まされていたのではないか?と私は邪推しているのですが、さほど的はずれとも思えません。

 もっとも、夢二の美人画の特徴である、目が大きく、伏せ眼がちで哀愁に満ちた表情の女性描写というのは、後の少女漫画などに影響を強く与えていますから、時代がまだ彼に追いついていなかったというか、現在でも日本画を”本画”と称し、商業用のイラストを含めて”漫画”や”アニメ”を格下としたがる風潮があることを考えれば、夢二の直面し感じていたであろう差別待遇や疎外感というのは想像を絶したものだったのかもしれません。

 夢二の絵に関しては、”フランダースの犬”のネロ少年が描いた絵というのが実在すれば似たような印象を受けるんだろうなあ~と思ったことがあるのですが、絵にしても作詞にしても、確実に才能はあるものの、潜在的な才能を伸ばす専門教育を受けたことが無く、かといって既存の業界から正統な評価を受けられるだけの学歴も功績も無いところから社会人としてスタートするしか無かったハンデを覆すほどの才能では無かったということになります。

 実際、夢二の人気は次第に低迷というか”厭きられ”ていったようで、当時のプロの画家達も良くやっていた”欧羅巴などへ洋行することで箔付けをする”テコ入れも行っているのですが、昭和9(1934)年に満49歳と11ヶ月で結核が主因で亡くなった際には金銭的にもかなり困窮していたようで、終焉の地となった長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所(現・JA長野厚生連富士見高原病院)への入院や支払いにしても、親しい文芸仲間でもあった正木不如丘院長や友人たちの支援が無ければ難しかったようです。

 亡くなった後は、無縁仏扱いではなく、有島生馬らによって東京の雑司ヶ谷霊園に埋葬されていて、「竹久亭夢生楽園居士」という戒名も貰っています。

 さて、今回のお題である”宵待草”ですが、夢二の代表的な叙情詩のタイトルとして知られ、”待てど暮らせど来ぬ人を、・・・”で始まる詩に、大正6(1917)年に宮内省雅楽部のバイオリニストだった多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会で発表したのがお披露目として良いようですが、全国的なヒット曲となったのは大正7年にセノオ楽譜から”宵待草”が発刊されてからのことになりますが、大ヒット曲の作詞家として正当に評価されたとは言い難いところがあります。

 もっとも、私に言わせればですが、それも無理のないところがあり、そもそも”宵待草”という植物が存在しませんから評価しろといわれても”架空の植物をネタにした詩”としか書きようが無いのですが、実在する植物で語感が近いのは待宵草(まつよいぐさ)で、日本には19世紀の中頃というか、幕末の頃に観賞用として輸入が始まった夢二の時代でもまだ歴史の浅い帰化植物だったのですが、原産地は南米のチリで、欧米で園芸種として改良された後、日本を含む世界中に広がっています。

 逆に言えば、当時は目新しい品種であったが故に、少し植物に詳しい人達からすれば、”宵待草じゃなくて待宵草だろうが!”と馬鹿にされたであろうことも予想の範囲内となり、大ヒットして知名度が上がれば上がるほど恥が広がっていったとも言えますが、夢二を弁護しておけば、待宵草を他の植物の名で呼んだということでは後の太宰治の方が酷く、太宰の中期の傑作とされる”富岳百景”に収録されている”富士には月見草がよく似合う”という有名なフレーズが該当します。

 待宵草には日暮れに花を開き、日中は花を閉じている性質がありますから、その意味で月見草とするのは無理の無い話かもしれませんが、学術的に月見草(Oenothera tetraptera、つきみぐさ)といえば、アカバナ科マツヨイグサ属に属するメキシコ原産の多年草のことになり、日本には江戸時代に渡来しているのですが、6~9月頃の夕方の花の咲き始めは白色で、翌朝のしぼむ頃には縁が薄いピンク色になることで知られています ・・・ 

・・・ なにより、少なくとも太宰の頃に富士山周辺に野生化した月見草の群生地の類があった記録が無く、”よく似合う”と言われても、”どこで見たの?”という素朴な疑問を抱くなという方が無理な話になっています。

 意外というと失礼かもしれませんが、故事来歴や実際の名称などの使い分けが正確なのが”ノムさん”として知られる野村克也で、南海ホークス兼任監督時代の1975/05/13に、”王、長嶋が太陽の下で咲くヒマワリなら、俺はひっそりと日本海に咲く月見草”と言った有名な台詞は、ちゃんと月見草を月見草として認識していたことを示しています。

 しかしながら、太宰の場合は、待宵草の一種である大待宵草の別称として月見草の名前を定着させてしまうという偉業を成し遂げたというか、植物学的には迷惑な本末転倒な状態を招来させてしまい、現在でも待宵草でありながら月見草と称する人や企業、商品の事例には不自由しません(溜息)。

 もちろん、夢二も宵待草と待宵草の勘違いには早い段階で気が付いていたようで、大正9年の自筆記録では”待宵草”となっていますし、セノオ楽譜の表紙も、4版以降に”待宵草バージョン”もあることが知られていますから、修正しようと思ったときには大ヒットしていて不可能だったのかもしれませんし、”語感もいいから、まっ、いいか?”となったのかもしれません ・・・ 夢二は植物学者じゃありませんしねえ?

 幸か不幸か、当時の日本の植物学会や研究期間などが、竹久夢二にも太宰治にも訂正を求めなかったことで、待宵草は宵待草と月見草という2つの別称を手に入れることになったと言えます。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第272話:(2011/11/19)





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Last updated  2011.11.25 01:00:03
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