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2012.02.01
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第330話 「法王で魔術師」

 ヨハネの黙示録が千年至福説と結びつけられて、”紀元千年に最後の審判が到来するから、洗礼を受けて基督教に改宗して地獄に堕ちるのを免れよう!”とでもいった新規顧客獲得キャンペーンが羅馬カトリックなどで実行され、信者を奪われた他の宗教との間に軋轢が生じたものの、最大の宗教勢力となることに成功しています。

 しかしながら、肝心の紀元千年になっても最後の審判が到来するという一種の預言が外れてしまうと、揺れ戻しというか他の宗教からの逆襲が始まり、その一つの流れがグノーシス主義であり、魔術、錬金術、占星術といった分野を中心に基督教との対立が先鋭化していきますし、基督教側からの異端への弾圧も激化していくのは御存知の通り。

 ちなみに、魔術師や魔女が被っている円錐形で鍔広の帽子というのは小型のピラミッドで、それを被っている魔術師達の流派というか起源を象徴しているのですが、魔術にも幾つかの流れがあり、エジプト由来、ソロモン王由来、シュメール由来、・・・、北欧由来、英吉利由来(ケルト由来)、独逸由来(ゲルマン由来)、といった具合に地域特性があります。

 その意味で、魔術は地場産業でそれぞれの地域で定着していた宗教や日常生活の智恵などの総合科学というか技術体系というのが本来の姿であり、宗教の部部分にシャーマニズムが少なからず絡み、司祭などに超能力や霊能力があることが前提となるため、そういった特殊能力を有さない人が富と名声、特権などを欲したとき、ペテンで奇跡を演出していったようです。

 ところで、魔術に幾つかの流れがあるとして、羅馬カトリックの本拠地となった、かっての羅馬帝国の首都である羅馬というか伊太利亜に魔術勢力は存在したのか?という素朴な疑問を持つのですが、羅馬帝国は基本的に拝火教(ベスパ信仰)の系列が国教としては主流でしたし、ある意味で雑多な宗教が容認され共存していましたから、基督教によって各個撃破されていったようです。

 つまり、信者を根こそぎ奪われてしまえば、いかに優れた教義や知識を持つ宗教であっても団体の維持が困難になって早晩姿を消していくことになり、その意味では、”かんなぎ”が指摘するように現世の宗教団体のせめぎ合いは芸能界のアイドルの勢力争いに酷似しているのですが、理由がなんであれ組織として弱体化すれば社会に与える影響力が低下するのは確かな話になります。

 逆に、勝ち残った団体は一人で全てを総盗りすることが可能となるだけに、その影響力は甚大となり、実際、中世欧羅巴において羅馬カトリックが国境を越えて社会のかなりの部分を支配したのは御存知の通りで、王侯貴族もその勢力を無視できなかったのですが、それは、織田信長VS一向宗の構図と類似点が多く、織田信長が本願寺勢力に敗れていた場合に日本がどうなっていたかというシミュレーションとして見ることも可能なのかもしれません。

 というか、元来、太古の昔からシャーマンに象徴される霊能力や超能力といった特殊能力を持つ人材が集団のリーダーとなったり、リーダーの補佐役となって集団の栄枯盛衰を左右してきたことを考えれば、宗教関係者が世俗の権力を欲すれば欲するほど、どこかの時点で世俗の権力を掌握している王侯貴族との激突が不可避になっていくことは否めず、”敵の敵は味方”というロジックでいけば、王侯貴族が魔術師や錬金術師の勢力と手を組んで羅馬カトリック勢力と対抗する流れが出てくるのも不思議では無いわけです。

 実際、膨大な富と権力を手にした羅馬カトリックが次第に世俗化して既得権益の塊と化していく間に、王侯貴族との勢力争いが激化していき、王侯貴族が反羅馬カトリック勢力を裏で援助したり、自らが新しい基督教の一派を創設し羅馬法王の支配下から独立した英吉利国教会のような事例が典型ですが、英吉利がケルト魔術などで知られる古くからの魔術の拠点であることを併せて考えると、羅馬カトリック勢力が果たして正統な基督の教えの後継者たりえるかどうかは微妙な気が(私は)します。

 また、そもそもはカトリック勢力の内部改革派の活動が発端であったピューリタント(清教徒)の流れが、ゲルマン系の魔術の拠点であった現在の独逸界隈で本格化して分派して血みどろの抗争を繰り広げた後に現在に至っていることを考えると、羅馬カトリックの勢力を利用したい王侯貴族もいれば、その富と権力を再奪取した王侯貴族もいたことになり、その構造は21世紀の日本の政治家と宗教団体の関係でも共通している部分が多いのではなかろうか?

 ちなみに、羅馬法王にも魔術師と呼ばれた人材がいるのですが、もともと教祖の基督が奇跡現象で知られた人ですから、その教えの正統を主張する団体のトップがそれなりの霊能や超能力の類を有していたり、神の奇跡現象を惹起していないと、さすがに普通の人がトップでは神の救済を主張する宗教団体としてマズイんじゃないかという気がしないでもありません。

 興味深いことに、魔術師と呼ばれた法王は、至福千年説で盛り上がっていた紀元千年頃の羅馬法王で、歴代の法王の中でも一人だけ異彩を放っているのですが、魔術師として知られる法王のシルヴェステル2世(945,945?~1003)というか、オーリャックの修道僧のジュエルベールがその地位を望んでいたかどうか?そもそもの出自が謎というか、かなり低い身分なだけに疑問の残るところです。

 幼い頃から仏蘭西のオーリヤックのベネディクト会系の聖ジェロー修道院にいた、ジュエルベールの最初の大きな転機は、修道院を訪れた西班牙辺境伯にしてバルセロナ伯のボレル2世にくっついて西班牙へ渡ったことで、西班牙のビックやリポイでイスラム系というかアラビア系の魔法(イスラム科学、医術、数学、魔術、占星術など)を学習したとされていて、アラビア数学を欧羅巴に普及させた功績者がシルヴェステル2世だったという説もあるのですが、後の羅馬カトリック教会なら異端審問で火炙りされかねない話になっている気がしないでもありません。

 その辺り、ジェルベールが学んだのは”自由七科(セプテム・アルテース・リーベラーレース、septem artes liberales)”の四科(クワードリウィウムquadrivium)とされていて、算術、幾何、天文、音楽を専攻したことになるのですが、ちなみに、残りの三科は三学(トリウィウム、trivium)とも呼ばれ、文法、修辞学、弁証法(論理学)を専攻する事になります。

 その後、969年にボレル伯らの羅馬行きに同行した時に、神聖羅馬皇帝オットー1世と教皇ヨハネス13世に面会して知遇を得て、オットー2世の教育係を依頼されるのですが、それは辞退して仏蘭西のランスの教会学校で論理学や修辞学を学んだ後、教師として活躍することになり、彼の教え子には後の仏蘭西国王ロベール2世やシャルトルのフルベールなどがいて、少なくともジェルベールの弟子の13人が司教・大司教となり、5人以上が主要な修道院の修道院長となっていますから、かなりハイソな学校でハイレベルな授業だったようです。

 が、981年にオットー2世が主催したラヴェンナの討論会で論敵を論破したことで皇帝に認められて、ポッビオの修道院長に任命されてしまい、このころから次第に”政治”と”パワーゲーム”に巻き込まれるようになります(笑)。

 基本的に、ジェルベールは学者肌で人を教えるのが好きだったようで、オットー2世が983年に亡くなると、とっととランスに戻って教育活動を再開しているのですが、皇帝の後継者争いで、ランス大司教アダルベロンがオットー3世の側に立ったことでアダルベロンの配下のジェルベールも活動を補佐したとされ、仏蘭西王室の継承騒動が絡んで直接は実現しませんでしたが、アダルベロンはジェルベールを大司祭の後継者に指名していますから、彼を直接知っている人の評価がそもそも高かったようです。

 それ故に、直接知らない人や敵対した人達からすれば、ジェルベールの快進撃は、”悪魔の力を借りて、悪魔と結託している”という噂を立てるネタになっている程なのですが、ポビオ修道院長、ランスの大司教と成り上がったあたりで、教皇ヨハネ15世の周辺が仏蘭西地方教会の独走と考えたようで、ジェルベールを”破門”する暴挙に出ています。

 この破門はシェル教会会議(994)で無効とされたものの、その頃からヨハネス15世の勢力との対立が激化して何かとやりにくくなっていったためか、状況打開のために法王に直接面会すべくオットー3世(980~1002:在位996~1002)の伊太利亜遠征に随行しているのですが、その頃からオットー3世の家庭教師や政治的なアドバイザーも務めるようになったとされています。

 神聖羅馬帝国のオットー3世の後ろ盾を得たこともあって、ランスの大司教、ラヴェンナの大司教を経て最終的に羅馬法王に成り上がってしまうのですが、1001/01に羅馬貴族による暴動が発生して、ジェルベールとオットー3世は羅馬から追放され、ラヴェンナに撤退して体勢を立て直している間にオットー3世は102年に病没(毒殺説もある)したものの、ジェルベールは羅馬貴族達と和解して職務に復帰し、1003年に没した後は、羅馬のラテラノの聖ヨハネス教会(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)に紀元千年の魔術師教皇として埋葬されています。

 実際には、悪魔の力ではなく、オットー3世の家庭教師になったことが大きかったわけですが、ザクセン朝第4代の王でもあるオットー3世が、祖父のオットー1世や父のオットー2世と同様に伊太利亜遠征を敢行し羅馬カトリックの人事に強い影響力を持つようになった背景には、皮肉なことに、そもそものオットー3世の最初の伊太利亜遠征の目的が羅馬貴族のクレスケンティウス2世の反乱で羅馬教皇ヨハネス15世が羅馬から追放されて救援を要請されてのことだったりします。

 遠征後の大雑把な経緯は、ヨハネス15世が熱病で急死したため、オットー1世の曾孫(オットー3世からすれば”甥”の)ブルーノをグレゴリウス5世として教皇に選出(996/05/03)して、オットー3世はグレゴリウス5世から帝冠を受けて皇帝位に就いて(996/05/21)います ・・・ 身内のデキレースのような気がするのは気のせいか?

 なお、オットー3世が羅馬を離れると、クレスケンティウス2世が東羅馬帝国皇帝バシレイオス2世の援助を受けて再度の反乱を起こし、グレゴリウス5世を追放し、対立教皇として知られるヨハネス16世が教皇となるのですが、オットー3世が反乱を鎮圧して998/02に羅馬に凱旋したことで、ヨハネス16世は逃亡し、拿捕された後に、目を潰され、鼻と耳を削がれ、舌を切り取られ、・・・、手の指を全て折られた後、職位の失効が宣告され、独逸のフルダ修道院に移送されています。

 クレスケンティウス2世の最後も過酷で、斬首されて遺体は籠城していたサンタンジェロ城の城壁に吊されたのですが、その後、999/02/18にグレゴリウス5世が謎の急死を遂げたため、ジェルベールがシルウェステル2世として教皇座に就くことになったわけです。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第330話:(2012/01/26)





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Last updated  2012.02.01 00:15:29
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