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2013.01.31
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ

第613話 電子情報戦
第614話 電子情報戦2
第615話 電子情報戦3
第616話 世界蛇な話

ときて、

第617話 「三大宗教の外」

 今回の三大宗教というのは、中東に起源を持つ、ユダヤ教、基督教、イスラム教のことで、南方の阿弗利加、東方の印度、西の海の向こうの新大陸の宗教は対象外とお考え下さい(笑)。

 東西南北の内、なぜ北方起源の宗教は対象外としなかったのか?といえば、まさに三大宗教が侵食していった先が北方だからで、逆に言えば、三大宗教が北上したが故に、三大宗教の外へ弾き出されていった宗教が産まれていったとも言えます。

 新興宗教が勢力を拡大していく場合、既存の宗教の信者を奪うことになるが故に、既存の宗教で飯を食べている人と新興宗教で飯を食べようとしている人の間で諍いが生じることが珍しく無く、平和的に既存の宗教が新興勢力の軍門に下ることは希なことになるようです。

 もちろん、既存の宗教と宗教の間でも信者の争奪戦は繰り広げられていることが珍しく無いのですが、競合する歴史が長くなればんるほど均衡状態になった後は、短期で信者の数のバランスが極端に変わることは何かのエポックが生じなければ珍しいのは、携帯電話会社を選ぶとき、選んだ後に他の携帯電話会社に乗り換えるときなどの心の動きや選択の変化と大差が無いといえば無い話になります。

 それはそれとして、人はなぜ”宗教”を発明したのか?といえば、”叶うかどうかわらかない願いを叶えるため”に集約され、中でも”災厄から逃れる”ことはホモサピエンスが20万年くらい前に阿弗利加で登場した頃から次第に新しい発明が追加されていったようです。

 クロマニヨン人が描いたと考えられているラスコーの洞窟壁画なども、呪術的な儀式として描かれたという説がありますから、宗教が現在の人類だけの発明とは言い難いところはあるのですが、少なくと地球で生きている知的生命体の中で宗教関連の行動をとっている動物が人間くらいしか見あたらないことは御存知の通り。

 さて、災厄から逃れようとする場合、例えば、”餓死に繋がるような飢え”から逃れるためには、特に農耕や牧畜が発明される前だと、食べ物が(豊富に)ある場所へ移動できるかどうかが生死の分かれ目になるため、群れのリーダーには餌や水が(大量に)ある場所がわかる能力が求められることになります。

 が、ここで智恵のあるリーダーの中に、餌がどこにあるのか分かる奴を腕力で脅して配下にすればいいのではないか?と考える人が出てくると、餌の調達に失敗したとしても、その責任がリーダーには向きにくくなり、そこに餌があると主張した人を排斥して首をすげ替えれば良いことになるわけです。

 そういった構図は、王様の下に宗教家がいて、法律では解決できないどうにもならないような事に関する裁定や苦情の処理を行っているあたりくらいまで引き継がれるわけですが、下っ端の方から見れば王様が(ジャンルは違うものの)2人いるようにも見えるが故に、宗教家が野心を持つと王を追放して自らが権力を奪取することが珍しく無くなっていきます。

 もっとも、食糧の確保や雨乞い、あるいは豊漁といった”現世利益の誘導”こそが宗教の始まりであるが故に、現世利益をほとんど与えられない宗教家には存在価値が無く、与えられる宗教家は一般人とは別枠の特権を持つことを認められやすくなります。

 つまり、一般人にはできないことができて、群れの命運を左右しているのだから、一般人より贅沢させろ!とか、擦れ違うときは一般人の方から挨拶しろ!とかいった特権を要求するようになっても、命運を握られている群れの構成員からすれば与えるしか無いということです。

 が、超能力や霊能力の類は一代限りというか、個人芸のようなところがありますし、群れの中に必ずそういった特集能力を持つ存在がいるとは限らないのが現実で、多くの場合、少しでも素質がある者を選び出すために、子供をまとめて育てて素質がありそうな個体を選抜していく工夫もされるようになっていきます ・・・ 宗教集団の形成です。

 実際、初歩的な部族社会でシャーマンと呼ばれるような司祭が神様関係を総て引き受けている場合、狩りの不調が続いたり、農作物が壊滅したり、干魃が生じて雨乞いをしても雨が降らないことが続いたりで、シャーマンに神と交渉する”力”が無いと群れの総意で判断されると、シャーマンを追放したり殺してしまうことさえありますから、宗教家というのはハイリスクハイリターンな職業だと言えます ・・・ 本来はですが。

 しかし、下手をすると殺されてしまうわけですから、宗教家達も必死で”いいわけ”を考えるようになり、典型的なのは特定の個人とか群れ全体の行いが悪いから願いが叶わないという理論展開で、これによって特権は個人で享受しても、責任は個人で負わないで済むようになるわけです ・・・ 冷静に考えれば、その程度の能力しか無い宗教家を特別扱いする必要がそもそも無いのですが(笑)。

 また、奇跡現象を演出するために、いわゆる手品が開発され発達していったという話は以前に何度かしたことがありますし、イエス基督の誕生を予知して東方から訪れた3人の賢者(マギ)が宗教指導者の呼称であると同時に、マジックの語源になっていることは比較的知られた話になります ・・・ 怪しい話を延々と読んでいれば特に。

 早い話、時代が下がるほど、能力がないのに宗教家に与えられる特別待遇は欲しいという人が増えていき、その中でも頭の良い連中が言葉巧に宗教を発明していったということですが、そうやって”力”らしい”力”を持たない連中が宗教業界でトップに君臨するようになったとしても、困ったことに、産まれながらに圧倒的な”力”を持って産まれる個体が一定の割合で誕生するのも現実だったわけです。

 そんな特殊能力を持つ人材を受け入れてしまえば、組織内の自分の序列が下がりかねず、下手をすると組織のトップを奪われてしまいかねないとなると、修行と称して下の方の階級で飼い殺し状態にするか、異端と称して追放したり殺したりすることで組織の安定というか自分達の生活の安定を維持するようにもなっていきます。

 かくして、既存の宗教に対して批判的な新興宗教が誕生する下地が作られていくわけですが、新興宗教ほど現世利益を主張し、既存の宗教の多くが現世利益より大切なことやものがあると主張する傾向があるのは必然と言えなくも無いのかもしれません(黒い笑)。

 そういった新興宗教と既存の宗教の対立とは別に、人類の生活圏が広がってくると、それまで接触したことの無かった群れと群れが接触する機会が増加し、宗教家と宗教家の間の勢力争いが発生するようになり、平和的な解決法としては宗教組織同士が合併して組織内の序列を組み直し、タブーなどを整理統合することで変化と混乱を最小限に押さえる方法で、過激な方法は、一方を完全に根絶して無かったことにしてしまう方法などが思い当たりますが、多神教の場合は融合しやすく、一神教の場合は根絶されやすくなる傾向があります。

 御存知のように、ユダヤ教、基督教、イスラム教が信仰する神は共通していて、唯一絶対神をどのように解釈するかで分派していったところがあるのですが、その辺りの分派の話は、エデンの園からエリコの壁あたりまで延々と解説したときに触れたことがあるので今回は省略します。

 ある意味で、”私(達)が神のことを一番良く理解している!”と大きく3派に分かれて主張しあっているわけですが、時代が経過するほど、それぞれの派の中でも”私(達)こそが神の御心に一番近い!”と主張する人達が分派していくことになりがちですが、そこまで神を理解したことで得る見返りは何なのか?というあたりが実は次第に曖昧になっていくわけです。

 あっさり書けば、宗教団体が肥大化していくと、信者からのお布施の総額なども肥大する傾向がありますし、異性を囲ったり同性とHしたりの御乱行が恒常化していく傾向もあり、いわゆる金と色に階級が上になればなるほどまみれやすくなっていくことが珍しくありません。

 ましてや、神を信仰して得られるのが死後に天国に行けるとか来世の幸せといった今生では検証のしようがないものになってしまうと、以前のように雨乞いをして雨が降るかどうかでシビアに能力の有無を判定され処罰もされていた時代と比べれば楽なものだけに、宗教家達は面白いくらいにそちらへと信者というか宗教の教義を改変していくことに熱心だったりします。

 我々に従わなければ死んだ後に地獄に堕ちるぞ!と脅すが故に、どの宗教でも天国の描写よりも地獄の描写に熱心で、天国はこれこれこんなにいいところだから我々の教えに従いなさいではなく、地獄はこんなに酷いところだから我々の教えに従って(宗教によっては最後の審判の判決で)地獄送りになることを免れなさいと教導しているとも言えます。

 いつの間にか、現世利益を与えるが故に群れとして特別扱いすることを容認していた宗教集団が、現世利益を与える能力を持たなくなればなるほど、宗教集団の利益を守るために信者(というか支持者)を時には神の名まで使って恫喝して自分たちにとって都合の良い規則を強要するようになり、現世利益というか物質的な欲望を満たすことは神の意志に反すると主張して、自分たちが現世利益を与えられない無能力者にすぎないことを誤魔化すようにもなっていったわけです。

 それでも、多くの王達が宗教団体を容認していた理由としては、戦争などで併合した地域の住人を既存の社会に組み込むときに便利だったことが大きく、次第に、王は違っていても信仰している神は同じなのだからといったロジックで宗教を使って国がまとめられることも珍しく無くなっていきます。

 それこそ、君たちのAという神は私たちのBという神と同じだとか、君たちのCという宗教行事は僕たちのDという宗教行事と同じだといったロジックで、出自がまったく異なる宗教が融合というか乗っ取ったり乗っ取られたりしながら巨大化していったわけです。

 かくして、幾つかの宗教の思惑と平和に融合していくための妥協の産物としてクリスマスやバレンタインの風習が誕生というか創られていくことになったことは比較的知られた話になります。

(2013/01/10)





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Last updated  2013.01.31 09:31:08
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