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次郎の気持ちは決まった。セール フレーザー商会の仕事が一段落していたこともあり、田村社長の申し出をありがたく受けることにしたのである。
昭和12年(1939年)3月、まず買収先の日本食糧工業に入社して合併準備を行い 同年12月 共同漁業と合併後名前が変わった新生 日本水産の取締役外地部長に就任した。35歳という若さであった。 缶詰、鯨油の輸出先拡大が主な仕事 鯨油はマッコウ油とナガス油に大別されるが 前者は蝋燭や洗剤、口紅などの原料になり、後者はマーガリンなどに加工される。鯨油マーガリンは この当時 オランダ ドイツ イギリス デンマークなどで大規模生産が行われており 次郎の仕事の中心はこれらの国への日本産鯨油の売り込みにあった。 白洲次郎 占領を背負った男 北康利著 講談社 http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm 吉田茂との係わりに関して、白洲次郎は、 「吉田さんの奥さんは牧野伸顕の娘さんで、 牧野伸顕は鹿児島出身で、大久保利通の二男なのです。 (参照:大久保・牧野家系図) 僕の女房は、やはり鹿児島出身で樺山愛輔の娘です。 そんな関係で牧野伸顕を知っておったから吉田さんも知っていたということです。 吉田さんが英国の大使をしている時分(昭和11~13年)によくロンドンに行ったんです。 そのころ、私は日産コンツェルンの外国関係の責任者だったんです。 まだ若くて、三十歳ちょっとくらいです。 その時分にロンドンに行ってよく話したりしまして、 はじめて大人の付合いがはじまったということでしょうね。」 北サンの本では、日本水産の取締役で 白洲次郎自身の回想(ここの出典はよくわかりませんが)では 日産のとなってますが ほんとうはどっちなんでしょうか? 兼任という可能性もありますし 日水も日産グループの中の一つであり 田村家も 鮎川義介と親戚ですから 関連があってもおかしくはないのですが。 このへんは 無知か 意図的に 北サンの本 または最近の白洲次郎ブームから 外されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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