テーマ:政治について(19792)
カテゴリ:カテゴリ未分類
情報戦争の真っ只中にある日本のネット界!! 思惑こめていろんな情報が飛び交う。 この説も何年か前から伝わっているので知っている人も多いと思うが。... ●http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4.html Column of the History 20.「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史-其の肆- (1998.1.4) ●http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_meigitennoco.htm 「大室寅之祐→明治天皇考」 「れんだいこ」明治天皇考 (最新見直し2007年1月31日) 、 「明治天皇として即位したのは、それまでの北朝系ではなく、熊沢天皇同様の南朝系の末裔にして長州藩が秘匿擁立してきた大室家の寅之祐(おおむろとらのすけ)である」 「長州に住んでいた南朝の末裔と称されていた大室寅之祐を擁立し、北朝系に代えて南朝系の大室寅之祐を睦仁親王の名で以て身代わり即位させ、幕末政変で勝利するや東京遷都し、終生本物の明治天皇として振舞わせた」 れんだいこは以上の説を紹介している。 1999年、故鹿島昇氏が「裏切られた三人の天皇 ─ 明治維新の謎」で精緻に論証したこと に始まる、とある。 天皇制存続肯定派と否定派... 皇位継承問題が起きて以来いろいろと飛び交っている。 以下も根拠とする所は鹿島説である。 ttp://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/781.html ●今の天皇は現王朝が出来てから四代目(孝明天皇で前王朝は終了し、明治天皇から新王朝が始まっている) 投稿者 リーマン 日時 2004 年 2 月 06 日 http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/807.html ●大正天皇関連・とりあえずのまとめ 投稿者 リーマン 日時 2004 年 2 月 10 日 http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html ●資料 2 ここには、当時の真相を物語る?一枚の写真も添えられている。 孝明天皇が崩御されると、睦仁親王は16歳で即位した。しかし即位した人物は、身長180センチ体重、90キロの巨漢で、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしていたと言われており、女官と遊んでいた人物とはかなり違っていたといわれている。 また、田中光顕伯爵は「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は 暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言している。 (一部 転載) ●http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1392415 ヒロさんの日記 「北朝」の明治天皇が「南朝」を復権させたのはなぜか より「明治天皇」は暗殺されていた!! の項 薩長土肥の志士達が、時代の流れに合わせて「開国維新」を目指したのに対し、孝明天皇は時代の流れをつかめず、相変わらず、「鎖国攘夷」に固執した。 将軍家茂は、慶応2年(1866年)の6月25日に急死。20才。 孝明天皇は、慶応2年(1866年)の12月25日に急死。36才。 この2つの急死はあまりにも怪しい。「明治天皇=大室寅之祐」説では、さらに半年後に孝明天皇の皇太子(睦仁親王)も暗殺され、明治維新では、南朝の大室寅之祐が(替え玉として)即位した、というシナリオである。 すり替え説の根拠として、明治天皇の「南朝が正統である」との御説がある。 北朝を継いでおられる筈の明治天皇が何故「南朝正統説」を唱えられたのか。 ●明治44年に明治天皇の命令で、南朝2代を正統な天皇と認め、従来の96~100代の天皇を北朝として正統から外した。 *義良親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後村上」天皇とした。 *熙成親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後亀山」天皇とした。 ●大正15年に大正天皇(実質は摂政の裕仁皇太子=昭和天皇)の命令で、南朝を正統とした後も即位の是非で意見が別れていた寛成親王を、即位が確認されたとして「長慶」天皇とした。 「南朝正統」による歴史の書き換えを画策したとはいえ、北朝派の勢力はたくさんおり、歴史を一気に抹消するのは不可能だ。 と、Wikipedia 「天皇の一覧」にある。 ●http://michiota.exblog.jp/3256734/ 実現不可能な、たわ言「攘夷」を唱える 将軍家茂と孝明天皇を消して南朝系(?) の玉を 握った薩長政府は一気に開国、富国強兵路線を突っ走って、今日の日本を築き上げた。 と、ある。 今日拝見した http://plaza.rakuten.co.jp/kennkoukamukamu/ ”健康かむかむさん”の 3月14日の記事「強くなった」のは誰?の項から「天皇のロザリオ」という書物の 存在を知り、ちょっとGoogleで検索して見たらそれに関するブログが多数見付かった。 去年発刊され、かなりの反響があったらしい。 これとて全面的に信頼出来るものではなく、根拠となる実証のない事が伝聞として書かれてある部分もあるらしいが。... 昭和天皇は自らの総指揮者としての責任を逃れ、東条英機にその罪を被せた、とある。 東条氏は最初「天皇は絶対的権威者であり、我々が反論する事は出来ない」とその主導性を述べていたらしいが、その後周囲に説得され、全ての責は我にあり、と弁を変えたという。 その点は私も、「天皇は何故その責をとって、退位され、剃髪の上生涯自分を信じて死んでいった兵士たちの霊を弔うという事をなさらなかったんだろう」と素朴な疑問を感じた事がある。 http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828 『日本人が知らない 恐るべき真実』2006ー8-28 号 「天皇のロザリオ」より引用となっている。 「1944年1月、昭和天皇は参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。 指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解し、木戸は主要銀行の経営者たちを 招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。 その額たるや並のものではなかった、とある。 こういった諸々の疑問点は解明されないまま、いつの時代も時の権力により都合良く結論を付けられて後世に伝わるのが世の常なのであろう。 だが検索ひとつでいろんな違った資料や考えを比較参照出来るという事はネットのなかった昔と 違って便利なことだと思う。 勿論タメにする贋の情報も飛び交う中で真実を突き止めるという事はなかなか難しい事ではある。 でも直接関わったものでなければ判らぬ真実を、その当事者が正確にネットを通じて伝えてくれたなら、より正確な歴史が後世に伝わることになるのだろうが。 事実よりデマのほうがより多く、更にひん曲げられて伝えられるのかも知れないが。 だけど、昔高校の頃英語の時間に、ある英国での元歴史学者の経験談が書かれた文章が 教材にあったけど、その歴史学者がある日のこと何気なしに二階から外眺めていたら、 ちょうど真下の街路で交通事故があり、その有様を告げる翌日の新聞報道がまちまちで、自分の眼でみた現実とはかなり違った報道であった、という経験から、ついに歴史学の限界を感じて研究の道を絶った、、、のだそうである。 後世に残る歴史は真実を伝えているるとは限らない。 時の権力によって如何様にも変えられる。 このすり替え説、頷ける節もある。 人気blogランキングへ [森田実の時代を斬る] [阿修羅] 投稿板 上記の欄をご照覧あれ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Mar 17, 2007 09:19:32 AM
|
|