テーマ:中島らも(44)
カテゴリ:藝能 娯樂 競技
晩年の中島らもは幾つかのイデオロギー団体とつき合いがあったように思える。 最初に気が付いたのは「中島らもの辞書占い」という中島らも事務所発行のメールマガジン、平成十四年十月十六日発行の第五十一号で浜岡原発の話を読んだ時だ。違和感を感じたのを覚えている。このエッセイは 休みの国 に「平安遷都の日」として収録されている。 中島らもの著作は全部読んでいたのだが、こういった圧力団体の主張を鵜呑みにするような発言はそれまで無かったと思う。 当日行われたライブ「伝説とピック」では共演の山口冨士夫が原発反対の歌を歌い、その山口冨士夫のギターに乗せて詩人が「サーフ・イン・浜岡」なる詩を朗読していたので、恐らく山口冨士夫経由で吹き込まれた物だろうと思う。 ちなみに、ライブ会場の渋谷クアトロへ向かう途中、奧さんの美代子さんが道を尋ねている場面に遭遇したので、僕がクアトロまでお連れしました。 それから三箇月ほど経ち、躁病がだいぶ進んだ平成十五年一月十二日、新宿ロフトプラスワンで行われた第八回「らもはだ」では「俺は原発反対だから電気を全部消せ」と言い出して大顰蹙をかった。 なにしろ新宿ロフトプラスワンは地下二階にあるのに照明だけでなく自動販売機や非常灯まで消せと言うのだから。 【加地伸行・八木秀次「散骨ブームの薄っぺら」】 八木 何年か前から、遺骨・遺灰を海や山に撒く自然葬と呼ばれるものがちょっとしたブームになってるようです。 しかし、気になったのは、この会が「葬送の自由」を唱えながら,結局は墓こそが諸悪の元凶であるとし、散骨することが一番素晴らしいという主張をしていることでした。散骨はほんとに自然に帰ることなのか、墓を無くすることはいいことなのか、私は根本的な違和感を感じるのですが。 加地 私はシンポジュームに反対者として参加しました。お墓についての歴史的認識に誤りがたくさんあるのです。人の死に直面したとき一番大切なのは、葬法ではなく「亡くなった人をどうするか」という死生観です。葬法は死生観の表現方法に過ぎません。この会は肝心の死生観について何も云わず、形態的なことばかり云っているので、本質を見誤っていると指摘して来ました。 八木 「自然葬」に好意的な意見の宗教学者の山折哲雄さんは、若手評論家の宮崎哲弥氏との対談で、遺体について「私も、自分の死体は生ゴミだと公言しています」と云いながらも、しかし、実際に死体に直面したら必ずしもそうでほないという矛盾した感覚も持っています」と発言しています。頭ではインド流の仏教徒であっても、感覚的にはそれに徹しきれない感覚こそ,日本人の伝統的な死生観かと思います。 加地 葬法を「自然」に結びつけることの本質的な意味が私にはよくわからないのです。「散骨することで自然に帰る」と云うのならば、別に散骨しなくても自然に帰ることは出来ると思うのです。廃棄物は焼却して自然に戻すのですから、ゴミ箱に捨てても同じことです。なぜ山や海でなければいけないのか。そもそも肉体を焼くことにどんな意味があるかということを理解していないことから来る考え方ではないかと思うわけです。 八木 希望する人の理由に、「死んでまで窮屈なところにいたくないから」とか「夫と同じ墓に入りたくないから」という人もいます。つまり死後の魂の存在を認めているのですね。それなのに一方では遺骨・遺灰は単なるリン酸カルシウムに過ぎない、そんなものをわざわざ骨壷に入れて墓に祀っているなんてと非難する。果たして魂・魄の存在を認めるのか否か、ここに自然葬の矛盾があります。 加地 なぜ「ゴミ箱葬」でなく「自然葬」なのかという論理的な説明が出来ないのは、そもそも日本では歴史的に「自然葬」が根付かなかったからです。日本では古来土葬でした。今日のように荼毘に付して、お骨を集めて墓に納める方法は火葬と思われていますが、それは違います。焼却した遺骨の納骨式土葬ですから、あくまでも土葬の延長なのです。 火葬と呼ぱれるものは、現代インドにおいても見られるように、焼却して残骨や遺灰を捨ててしまうことなのです。これが本来のインド仏教的な葬法です。輪廻転生という死生観からすれば死後の肉体に意味を認めていないからそうするわけです。 ところが中国を通じて仏教が日本に来たときには、すでに儒教の死生観が取り入れられています。儒教が加味されると死後の肉体に意味が生じてきます。それに基づいて、日本人はお盆などの祭祀のときに、普段は空中に漂っている祖先の霊魂を家族の元に呼び戻す招魂儀礼を行なってきました。これが日本人の伝統的な死生観を形成しているのです。 鎌倉時代になって「本来の仏教では肉体は意味を持たなかったばずだ」と思った仏数者の一人が親鸞です。彼はインド仏教までは辿りつきませんでしたが「浄土往生」という思想に到着し、自身も葬式・墓・先祖供養を否定しました。 しかし弟子達は彼の教えに反して自分の墓を作り、それ以後の弟子や信者も殆どが墓を持っています。結局、真宗や浄土真宗の信徒も,火葬にして遺灰を捨ててしまうことが出来なかったのです。インド式の火葬は日本に根付かなかったのです。 八木 自然葬推進派は、お墓をなくす理由として、墓地造成が自然破壊になるからだと云いますね。 加地 墓地造成はゴルフ場造成に比べたら問題になりません。そこに家族が集まって亡き人の思い出にひたる。そういう真摯な場を奪うことの方が私は問題だと思います。 八木 個人墓ではなくて家族の墓にすれぱコンパクトになる。造成に反対だから散骨というのは飛躍のし過ぎですね。「お墓憎し」といった感情が先立っている。またこの会は,今日のような火葬が普及することによって家族墓が一般化したと云い、その背景に明治政府の神道を軸にした『天皇制家族国家』をめざす基本戦略があり,家族制度強化の狙いから墓を祀る祖先崇拝を重視したと云っています。
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最終更新日
2005年10月22日 14時23分57秒
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