テーマ:皇室 二(50)
カテゴリ:歴史 傳統 文化
本日は旧暦十二月十三日、煤払い、事始め。師走、水温をふくむ。 神武天皇の血を引く男系男子ならば誰でもいいのかという議論がある。 少なくとも立花隆のように千何百年だか前に臣籍降下した皇族の末裔だと自分で言っている人よりは家系が明らかで六十年前まで皇族であった旧宮家の方々の方が優先順位が高いのは誰の目にも明らかであろう。 本日は文藝春秋に掲載された工藤美代子さんの「『女性天皇』愛子様の苦難」三回目。 このたびの「女系天皇問題」に関して政府に言いたい事のある方は左記のフォームより。 「女性天皇」愛子様の苦難 史上初「天皇陛下のお婿さん」になり手はいるのか 旧宮家は一般市民ではない 皇室典範の問題をあらたに考え直すとした場合、私はこのように考えている。 その理由の一つはすでに述べたように、将来、愛子様が結婚するときに、必ず配偶者の問題が持ち上がるのと同時に、雅子妃のご病状も心配のひとつである。愛子様の将来について、今ここで結論を出すことは、母子ともに負担を増すだけではないだろうか。 雅子妃のご病気と、愛子様の将来を切り離して考えられないのは、一般の家庭と同じことである。まずは母親の養生や今後の見通し、子供への影響などをじゅうぷんに考慮しながら、愛子様の将来を考えるのが、家族としては本当の愛情だろう。私たち国民も、すべての重荷が皇太子ご一家にかかるような決断は絶対にすべきではないと思う。 では後継者が早晩いなくなるという現在の状況を打開するにはどうしたら良いのか。それはやはり、候補となり得る男性皇族を旧皇族の中から選んでおいてはどうだろうかと思う。 考えてみれば、戦後になって、マッカーサーの支配のもとに直宮以外の皇族はすべて.臣籍降下された。これは強制的ではなかった。天皇をお守りするため、宮内省の加藤進次官の発案により、いわば他の十一宮家、五十一人は切り捨てられた形となったのである。 昭和二十一年十一月二十九日、昭和天皇は、宮城に参内した皇族たちを前にして、これからも身を慎み、貴賓ある生活をして欲しい、できるだけの援助はするつもりだし、尋ねたい件があったら遠慮なく申し出るようにというお言葉をかけた。さぞや無念のお気持ちだったろう。陛下は心情的には、このときの皇族方に、強い同族意識を持っていた。そして皇族方も、それぞれ格式ある家門の長い歳月を背負って、特別な生活を送ってきたのである。 それだけに、敗戦という事態で心ならずも皇籍を離れた十一宮家の方々に、もう一度復帰してもらうのは、それほど不自然なことではないと私は思うのである。 有識者会議は、「六十年も前に一市民になられた方々が皇籍に復帰されるのは国民に違和感がある」とするが、旧皇族の方々の多くは現在でも皇室とは親戚関係にあり、交流は続いている。その意味でも、まったく伝統が途絶えてしまったわけではない。 現存する旧皇族としては、伏見宮家、梨本宮家、久邇宮家、北白川宮家、賀陽宮家、朝香宮家、東久邇宮家、竹田宮家が挙げられる。その中には竹田恒和氏のように日本オリンピック委員会の会長を務める方もいれば、北白川道久氏や久邇邦昭氏のように伊勢神宮の大宮司だった方もいる。 とくに大宮司については、旧宮家の方々につとめていただくほうが国民も納得がいくからこそそうなってきたわけで、そのことひとつをとっても、国民は旧皇族に対して一市民とは異なった思いを六十年問抱きつづけてきたといえる。 いずれにせよ、こうして現在も皇室と親戚関係にある旧皇族方にもう一度宮家を創設して、そこに入っていただき、皇族全体の人数の増加を図ってはいかがだろうか。 いっぺんに八つも宮家を増やすことに関して、予算の問題を挙げて難色を示す人もいる。その場合、戦後、廃絶してしまった宮家を再興するというのはどうであろうか。高松宮、秩父宮はともに今はない。また、お子様に恵まれず、いずれ廃絶される宮家もある。だから、そうした宮家の跡を継いでいただくというのも一案である。そして皇室本来の仕事である祭祀を継承していただきたい。 皇族に養子を認めよ その前提として提案したいのは、皇室典範を改正し、養子に入る方が旧皇族出身である場合に限って皇族が養子を迎えられるようにしてはどうかということだ。明治の旧典範の段階で、皇族は養子を取ることを禁じられていた。そのため、由緒ある有栖川宮家や小松宮家も、継承者がいないという理由で戦前に断絶している。当時は宮家が数多くあったため、養子を認めて血統が乱れるおそれのほうが重視されたのだろう。また、養子縁組に政治的な思惑が介入するのを避けるといった意味もあったと思う。 それが消滅した現在、養子を取ることで、男系を確保する以外に方法はないのではないだろうか。 いずれにせよ、男系でない天皇家の誕生は「万世一系の天皇家」の断絶を意味している。それを、わずか一年にも満たない論議で決めてしまってよいものかを、もう一度、冷静に原点に立ち返って考えてみたい。 昭和六十四年一月七日、昭和天皇が崩御されたとき、日本中が働突し、その死を悼んだ。なぜ、あれほどまでに、昭和天皇は国民に敬愛されたのだろうか。この前年の九月に陛下御不例のニュースが伝わると一週間の間に快癒を祈るため二百三十四万八千人の人が日本各地の記帳所に足を運んだという。まさに驚異的な数字だ。あのときほど、日本人のこころが一つとなり、ひたすらに陛下の病状を見守ったことは、かつてなかったのではないか。 なぜ、昭和天皇が国民に愛され信頼されたかといえば、その理由はたった一つであると私は考える。 昭和天皇は六十三年の在位の間、常に国民と苦楽を共にした。先の大戦で日本が惨めな敗北を喫したときに、自らアメリカ大使館に赴き、マッカーサーと面会した。その詳細はいまだ明らかではなく、マッカーサーの証言と日本側に残された資料とは食い違う部分もある。しかし、それでも、はっきりと記録に残っているのは、天皇が連合軍の最高司令官に対して、どうか私の国民を飢えさせないでくれと頼んだことである。命乞いに来ると予想していたマッカーサーは天皇のこの態度に深く感銘を受け、天皇を通して、日本を統治する方法を思いついた。 それほど昭和天皇とは、私心がなく、戦前も戦中も戦後も国民と苦楽を共にした方だったのである。それは在位五十年のときに詠んだ次の歌からも伝わってくる。 「喜びも悲しみも皆国民とともに過しきぬこの五十年を」 香淳皇后もまた、天皇が皇室の財産はすべてGHQに差出し日本の復興に役立てたいといったところ、「ご安心あそばしまし」と答えて、快諾したという。 偉大なる昭和天皇の足跡に思いをいたすとき、私は皇室の将来を国民全体が、もっと慎重に考えて欲しいと願う。皇室は私たち日本人にとっては、そのアイデンティティの根幹に位置するものである。 あまりに拙速な結論は天皇制そのものを脅かすことになろう。 平成十八年 一月十二日 パーラメント「君の魅力は全て失せ行く」を聴きながら コメント・トラックバックは予告無しに削除する場合があります。あらかじめご了承下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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貴ブログの貴重なご意見参考にさせていただきます。 (2006年01月15日 19時47分33秒) |
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