テーマ:皇室 二(50)
カテゴリ:歴史 傳統 文化
今日は旧暦一月三十日、天明京都大火。睦月、霞はじめてたなびく。 本日は「日本の息吹」平成十八年二月号、寛仁親王殿下の「皇室典範問題は歴史の一大事である」から三回目。 田原総一朗とか言う芸能人が、天皇陛下は「働かないで国民の税金で食ってる」と発言したらしい。 「皇室典範問題は歴史の一大事である」 女系天皇導入を憂慮する私の真意 寛仁親王殿下 聞き手 小堀桂一郎 (続き) 皇室の藩屏とは 小堀 竹田さんの著書の中の一章で注意を引かれたところですが、昭和二十年の八月十五日に終戦のご詔勅が玉音を以て放送されます。 その翌日、陛下が、朝香宮鳩彦王、竹田宮恒徳王、開院宮春仁王をお召しになり、東アジアの各地にまだ前線部隊として健在だった日本軍に、終戦の手続きを順調に果させる必要から、終戦の聖旨を伝達するための特使として、このお三方の宮様をそれぞれの現地部隊に派遣されたわけです。その御差遣御下命の現場を竹田さんが、なかなか見事に書いておられました。 これはやはり皇室に一朝非常の事態が生じた場合に、皇室の藩屏としての皇族のご存在が如何に重要な意味を帯びてくるかを証言している貴重な記録であると思います。殿下の弟君なる高円宮憲仁親王の突然の薨去の際にも、皇室の藩屏にまた一つの大きな欠落が生じてしまつたという悲運を痛感いたしました。今皇室の藩屏が数の劣勢という意味で明らかに弱体化しておりますけれども、この現状について殿下のご感想はいかがでございましょうか。 殿下 弟が亡くなった時に、今皇族の数が少ないから公務が多すぎて過労死ではなかったかということが言われたりしました。このことについて、ここではっきり言っておきますが、今の日本の皇族と国民との関係は、皇族にとっては全て受動態なんですね。決して能動態になることがないわけです。それは太古の昔からずっと我々は受動態で来たのだと思いますが、特に私が律しているのは自分からこれをしたいということを言わない、国民がこれをして欲しいと言った時に初めて出ていくということです。それでも私はある程度選別するようにしています。ところが、あとで弟の親しい友人たちから聞くところによると、弟は自分が出来ることは全部受けてしまおうという方針だったらしいですね。ですから直接の原因は、やはりスクウォッシュという激しいスポーツをする前にやるべきウォーミングアップ不足だったと思いますが、確かにその背景には日頃の過労の蓄積があったのかもしれません。 おっしゃることも良く分かるのは、例えば日本赤十字社の大会は・毎年四十七都道府県で開催され、その全国の会場を妃殿下方がローテーションでお回りになる。十年以上前は、家のかみさんも含め秋篠宮、常陸宮、秩父宮、高松宮、三笠宮、高円宮の各妃殿下方が分担されていた。ところが、秩父の伯母様は薨去遊ばされて、高松の伯母様も五年間の闘病生活ののち薨去されて、私のお袋も高齢になって、結局、いま秋篠宮妃殿下、常陸宮妃殿下、家のかみさん、高円宮妃殿下の四人で全部回っておられる。確かに皇族の数は少なくなってきているのに比して、国民の要望はどんどん大きくなっている。陛下や皇太子さまの場合には、それはそう簡単にお動きになれない。ですから私たち皇族はそれをお支えする役目を担っているのです。政治家ならば、よく〇〇大臣代理とか言って代読者を立てますが、我々皇族の代理というのは、あり得ません(笑)。まさか宮務官を出すわけにもいきませんし。 そういう意味で確かに仕事が多くなってしまうことは事実ですね。 小堀 私もかねてから皇室の藩屏の充実をという脈絡での元皇族方の皇籍復帰を訴えてきております。それと関連いたしますが、昨年お亡くなりになりました元請國神社宮司、松平永芳さんが、生前、繰り返し口にしておられたのが、皇室に何か非常事態が生じた時、最も頼りになるのは寛仁親王だよ、ということでした。この度の事態に接して松平さんの予言は実現したのだとの思いが強うございます。松平さんについて殿下のご追憶が何かございましたらおうかがいしたいと存じます。 殿下 彼もそう思ってくれていたのかも知れないけれども、松平さんは私にとってもとても大切なブレーンでした。本当によく彼とは話し合ったものです。ちょうど靖國神社の宮司として元気はつらつとしていた頃に、彼は一昔前の皇室というものをよく知っておられた。 特にお父様の松平慶民さんが宮内府長官をお務めになって、そのお父様の思い出話として伺ったことの一つにこういうのがあります。 多分、式武官の頃の慶民さんは、当時、皇太子殿下でいらした先帝様の御外遊を積極的に推進した一人でした。しかし日嗣の御子の御外遊を大層心配された貞明皇后は、随員名簿に慶民さんの名前を発見されると線を引かれたそうです。しかしながら、御外遊が大成功に終り先帝様もご満足だったことを知られて貞明様は、潔く慶民さんにお謝りになったという事です。この事が大正末年の秩父宮殿下のご留学が実現するのに役立ったはずです。 当時の主従というのは言うべきことは言うけれども、失敗したら謝る。実に素敵な関係だったんだなと。そういう秘話を松平さんから聞いたことがありました。 大正天皇の崩御で、秩父宮様は留学を途中で引き上げられましたが、一連の儀式が終わられたら復学のつもりで全部イギリスに残してこられた。慶民さんはイギリスに残って、秩父宮さまと何度も手紙を取り交わしていて、こんな束になっているのを松平さんから見せてもらいました。こっちは準備万端整っていますからいつでもどうぞという慶民さんからの手紙に対し、秩父宮様はこちらの世論は大正天皇が崩御あそばされたのにまだ遊学をするのかと世論が反対しているんだというような手紙ですね。結局、復学はおできにならなくなってしまうのですが、この慶民さんのように、あの当時は宮内省の役人の中に、昔の歴代の殿様など錚々たる人物がたくさんいてお諫めするものはお諫めし、麗しい君臣の関係がありました。 もう少し古い話では山岡鉄舟が明治天皇がお若い時に相撲で投げ飛ばして胡麻をすらなかったという有名な話もありますが、古き良き時代の宮様方と臣下の家来たちの協力の仕方というものについて、松平さんから私は盛んに吸収するのに務めていました。 彼とは本当に何でもよく話しました。靖國神社がどうあるべきかとかいうようなことも含めて色々なことにっいて、丁々発止の議論もしました。直接、堂々と政治家にも物申す人でもありましたし、同僚、あるいは一般国民に対してもこうでなければいけないということをきちっと言える数少ない人でした。今そういうことを言う人がいなくなってしまいましたね。本当にいい人材を失ってしまって残念です。 小堀 私も、靖國神社の宮司様であられると同時に、やはりこれは越前のお殿様でなければあり得ない風格だなと心から敬愛しておりました。 殿下 春嶽公の孫だけのことはありましたね。 小堀 まさに今日のような事態に立ち至りましたときに、松平さんがご存命であったならばどんなにか適切なお教えをいただけたのではないかとお偲びすること切なるものがあります。 (続く) 愛子内親王殿下は男系なので、民間男子との間に設けられた御子様は「女系」ではなく「雑系」という事になる。 男 ┌─女…雑系女子 ├─┤ ┌─女 └─男…雑系男子 │ (神武天皇) 女 │ 女 ┌─女…男系女子 ├─┤ ├─┤ 神倭伊波礼毘古命 ┌男 └─男 └─男…男系男子 │ │ │ │ │ │ ┌─男…双系男子 ├─────┤ ├─┤ │ │ │ └─女…双系女子 │ │ │ 多多良伊須気余理 └女 ┌─女 ┌─女…女系女子 ├─┤ ├─┤ 男 │ 男 └─男…女系男子 │ └─男 ┌─女…雑系女子 ├─┤ 女 └─男…雑系男子 このたびの「女系天皇問題」に関して政府に言いたい事のある方は左記より。 平成十八年 二月二十七日 セックス・ピストルズ「女王陛下万歳」を聴きながら コメント・トラックバックは予告無しに削除する場合があります。あらかじめご了承下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年01月28日 12時11分13秒
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