テーマ:中島らも(44)
カテゴリ:藝能 娯樂 競技
今日は旧暦二月二日、二日灸。如月、草木萌えいづる。 かつて横浜に「メリーさん」と呼ばれる《伝説》の娼婦がいた。真っ白に顔を塗り、白いドレスで約三十五年間、繁華街にたたずんでいた。そのメリーさんが姿を消して十年余となる今年四月、ドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」が公開される。横浜出身の中村高寛監督(三十)は「メリーさんとかかわった人たちにひかれ、その話をまとめたいと思った」と制作のきっかけを語る。作品が描き出す「メリーさん」、そして「ヨコハマ」とは─。 メリーさんは中国地方の町に生まれ、戦後、恋仲になった進駐軍のGI(米兵)と上京。恋人が帰国した後、基地のある横須賀へ移ったとされる。横浜にたどり着いたのは一九六一年ごろで、当時四十歳。それから九五年十二月に故郷へ帰るまでの約三十五年間、横浜の街角に立ち続ける。宿は持たず、街中のベンチやビルの廊下で眠った。プライドが高く、施しは嫌った。 メリーさんが行きつけだった中区伊勢佐木町のクリーニング店や化粧品店、美容室の経営者、写真家、舞踏家、お座敷芸者…。映画では、さまざまな人が思い出を語る。 化粧品店の女性はデパートで見かけたメリーさんが寂しそうに映り、お茶に誘うが知らん顔をされる。店では「ママ、サンキュー」と言葉を交わすメリーさんの反応の違いに戸惑うがはたから同業と誤解され、迷惑がかからないように、との「心遣いだったのでは」と慮る。 メリーさんが一階ベンチで昼寝をしていた馬車道にあるビルの社長には、お中元、お歳暮が届いた。「他のビルでは追い出されたこともあった。ありがとう、という気持ちだったんでしょう」 特に親身になっていたのが、シャンソン歌手永登元次郎さんだ。金銭面で支援したり、生活保護が受けられるよう役所に掛け合ったりもした。週に一度は伊勢佐木町のハンバーガーショップで言葉を交わしたという。 終戦後、七歳で台湾から引き揚げた元次郎さんは、二十歳のときに歌手を夢みて上京。辛苦の末、横浜でシャンソンの店を経営していた。女手一つで兄妹を育てた母親を思い返し、つぶやく。「メリーさんがお母さんだったらどうだろう」 二人の知人で野毛大道芸などに携わる大久保文香さん(六十五)は「元次郎さんは、苦労した自分の過去と重ねてメリーさんをみていた。 シャンソンには娼婦の歌も多く『メリーさんは私の歌の良き理解者』と言ってた」と振り返る。 映画では、元次郎さんの九一年のリサイタルのビデオも使われている。舞台の元次郎さんに花束を手渡す人たちにメリーさんが交じっているのに聴衆が気付き、自然と拍手がわき起こる映像だ。 メリーさんが物語の縦軸なら、横軸として戦後の横浜が語られる。市の中心部が進駐軍に接収された当時を知る人は「横浜はアメリカの国という感じだった」。米兵が集まる酒場には、米兵相手に身を売る女性たちがいた。こうした時代を生き抜いた象徴がメリーさんであり、それを受け止めたのがヨコハマだった。 中村監督は「メリーさんは街の風景の一つだった。街が変わり、世代が代わる中で、いなくなってしまったのは必然なのかもしれない」と話す。 九九年からスタートした撮影中、末期がんと闘っていた元次郎さんは、故郷で暮らす素顔のメリーさんと再会を果たし、二〇〇四年三月に亡くなった。そしてメリーさんも、昨年一月にこの世を去った。 × × 「ヨコハマメリー」(一時間三十二分)は、四月に横浜ニューテアトルとテアトル新宿で公開される。 文・北爪三記 平成十八年 三月一日 「カルミナ・ブラーナ」を聴きながら コメント・トラックバックは予告無しに削除する場合があります。あらかじめご了承下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年03月01日 21時47分35秒
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