カテゴリ:6年3組
いささか旧聞。3月のはじめ、同級生の甲斐さんからご招待があり、朗読会へ行った。
このところ、面白いこと、興味を持つことが、少なくなってきたように感じること多く、好奇心の減退に不安を感じている。そういう中、甲斐さんの朗読会は、作品の選択になかなか奥深いものが多く、読み手の力量がそれに見合った相当のレベルにあって、毎回愉しみにしている。 ところが、今回は、残念なことに、これまであったような、聞き終わったあとの余韻を感じるところが少なく、どうしたことかといぶかしく思えた。 半月ばかりして、多少思うところがあり、記録しておく。 同級生では、まっちゃん、留さん、須藤君にも声掛けしたとのことだが、それぞれ都合が合わず、当日お伺いしたのは、眞里ちゃんと僕の二人。 演目は、菊池寛新今昔物語の「馬上の美人」から始まった。 d?j?-vu。 「菊池寛など読んだことはない」と思っていたのが 聞き入るうち、この話しどこかで読んだことがあると思いだした。 細かくは違う部分があり、記憶にあった結末では、馬をめぐる当事者の男女3人の過去に、菊池寛「馬上の美人」にあるより多少複雑な関わりがあった。 もっとも、それは、「馬上の美人」と、何か別に読んだものを混同しているのかもしれぬ。 しかして、「馬上の美人」をなぜ演目に選び、さらに朗読会の冒頭に配したものか。 二番目の演目は、宮沢賢治「猫の事務所」 宮沢賢治はとんとダメ。この作品は知らなかった。 作品選定の背景は、ますますわからない。 休憩のあと ピアノの演奏はグリーク「春に寄せて」 おぼろげながら、この会のテーマに「春」の流れがあるところに気付く。 眞里ちゃんが「この曲、実はすごく難しいんだよ」と教えてくれる。 甲斐さんの演目は三番目。川上弘美の「神様」 1993年発表のデビュー作。 3.11を契機に、時代設定を2011年3月11日以降にしてオリジナルを描きなおした「神様2011」という作品もあるが、甲斐さんが選んだのはオリジナル。 しかして、なぜにこの作品を選んだか は、こちらについても分からない。 四番目は、輪唱ならぬ輪読の試みで、巖谷小波「三角と四角」 最後は、僕ら聴衆も一緒に、春の詩を中心に。 はる(谷川俊太郎)、花(武島羽衣)、私の水平線(高橋順子) コロッケの唄(益田太郎冠者)、うれしいひなまつり(サトーハチロー) *** 春とは相性が悪い。 春は花粉症の季節である。 T.S.Eliot The Waste Landの季節。 春 人々は楽しげにふるまう 楽しげにふるまうことを当然とする風潮が世間を覆い 心、身体のどこかに、釈然とせぬものをかかえる人々に疎外感をおぼえさせる季節でもある。 そんな疑念を抱いては、せっかくのご招待に申し訳ないところだが、 あの甲斐さんが、果たして天真爛漫に春を謳いあげるかは、甚だ疑問なのであって、むしろ、この釈然とせぬ思いが彼女の狙わんとしたところでは... 演目にある作品には戦前のものが多い。 しかも、時代性なのか、どこかに屈折したところが隠れている。 「馬上の美人」など「新今昔物語」とうたったは、古の説話を題材に、変わりゆく時代への不安、怖れを託した芥川龍之介へのオマージュがあろう。書きえぬ何ものかがどこかに隠された煮え切らぬものがどこかにあって、それが聴く我々に、読むのとは違う違和感をもたらした? 天真爛漫、溌剌と春を謳うやに聞こえる「花」 滝廉太郎は青春のただなかとも言える、24にして結核に屈した。 どう聴いても「うれしさ」が感じられない「うれしいひなまつり」 同じく、嫁入りが決まったに、結核に倒れた亡き姉へのサトーハチローの記憶が漂う。 賢治にも病死した妹トシ。 開けてみた春の裏側には荒涼とした世界が広がっていた。 それは自分の心象風景そのものなのか? 「神様」 自分の初めての作品を、3.11を経て、もう一度書き直す。 「くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持っていくのは初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。」 ー「神様」 「春先に、鴫を観るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌を出し、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。」 ー「神様2011」 「いい散歩でした」 くまは305号室の前で、袋から鍵を取り出しながら言った。 ー「神様」 「いい散歩でした」 くまは305号室の前で、袋からガイガーカウンターを取り出しながら言った。まずわたしの全身を、次に自分の全身を、計測する。ジ、ジ、という聞き慣れた音がする。 ー「神様2011」 「くま」が作者にとって、何を意味するものかは知らない。 「当たり前の日常にして特別な日」に、「あのこと」は、「異常なもの」を加わえてしまった。 キリスト教?自分には無い何ものかに、同じく、自分には無い文学的感性が反応していることに、僕は気がつかないである。 眞里ちゃんは、主人公の「わたし」は「妖精のような少年ではないか」と言った。 女性である作者が「わたし」というは女性に違いないという先入観が崩れた。 味わいは、どこか自分たちの中に、豊かに溜まっていくところがある。過ぎゆく時間に流れるばかりではない。 記憶の中に、新しい出会いに、愉しみを見いだす贅沢。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 16, 2012 06:17:22 PM
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