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2016.09.27
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ケアメディアを確立する前の「ケアジャーナリズム」再考

私が概念化を進めたいと考えている「ケアメディア」については、「ジャーナリズム」の中にケアを考えてきた経緯がある。代表的なのが東京大の林香里教授で、女性の立場からの視点という印象が強いものの、事の本質も捉えている。ここで言う「印象」は「ケア」という言葉の性質が、日本社会においては、「弱きもの」「支援が必要なもの」に対しての施しのニュアンスが強く、また言葉そのものが女性的なために、避けられない現象かもしれない。この「弱きもの」は、高齢者や子供、障がい者や女性が一般的で、そのほかに社会的なマイノリティの立場で社会サービスが受けにくい人々だったり、何らかの理由により不都合を被る日本国籍外の人であったり、対象は様々である。また考えの起点によって「弱きもの」も変化する。殺人事件を起点とすれば、「弱きもの」は被害者であり、被害者家族であるが、メディア報道の過熱により加害者やその家族が必要以上に社会的な制裁を受けている場合は、その加害者や家族が「弱きもの」となる。

 林教授は現在の「マスメディアの衰退」状況に陥った報道倫理の代案として「ポスト・リベラリズムの対抗軸」のひとつである「ケアの倫理」の導入を試み、「マスメディア・ジャーナリズムの古典的倫理を相対化」(林香里『<オンナ・コドモ>のジャーナリズム』岩波書店、2011年、28頁)している。そして、「筆者も『ケア』の概念を社会の多様な領域において敷衍すべき現代の重要な価値を含んでいるものと考える」(同)の姿勢は、私も同意見。その上で林は「マスメディア内部に『もう一つのジャーナリズム』としての『ケアのジャーナリズム』の存在を定義することによって、言論・表現空間により強い意味での多元性と複数性実現の扉を開き、そこから新たなジャーナリズムのあり方を発見できる」との立場であるが、「もう1つの」の部分において、私は「ケア」を敷衍するとともに、ジャーナリズムを敷衍する必要があり、その合致点を見つけたいという欲求にかられている。

 林教授はケアの倫理の概念を心理学者キャロル・ギリガンの発達心理学的知見を起点とし、「正義論」のジョン・ロールズによる「正義の倫理」を取り上げ、この正義の倫理がメディア倫理の基底にあるものとし、2つの倫理を比較。ここで客観的ジャーナリズムとケアのジャーナリズムで相反する議論は、米国におけるパブリック・ジャーナリズムの導入と批判のそれぞれの言い分とも重なる。上智大の故藤田博司元教授によれば、パブリック・ジャーナリズムは「ジャーナリズムがもう少し市民や地域に密接に関わりともつべきだ」と考えることが基本で、そのために傍観者的な姿勢から、問題提起し解決策を見出すために積極的な役割を果たすために様々な手法で展開される報道である。これはケアの論理に近いが、米国には反論もあり、それは「客観主義報道の原則に反する恐れ」「読者・視聴者主導型の報道に陥る危険」(藤田司『パブリック・ジャーナリズム-米報道改革の試みをめぐって-』コミュニケーション研究、1997年、55頁)である。ケア、パブリックなど言葉は違うが、問題意識とジレンマは同じようである。その問題を捉えつつ、今後、私なりの考え発展させていきたい。

林教授は、地方紙の記事や難病に関するドキュメンタリーを題材にし、この「ケアのジャーナリズム」を検証しているが、まとめとしての以下が、ケアのジャーナリズムの輪郭を示し、それは私が留保するところの「もう1つのジャーナリズム」という位置づけを確定するもののような気がする。

「ケア」の視点は、媒体資源や言論・表現能力、情報発信において圧倒的に優位に立つ職業ジャーナリストたちが、社会で助けを必要としているマイノリティたちや絶対的弱者たちに対して優先的に声を与える義務を負っていることを教える。また、そのためにはマスメディア側が時として「公正さ」や「中立」を越えて「偏向」することを求められる局面があること、そして親密圏に立ち入る必要があることを教える倫理でもある。マスメディア・ジャーナリズムは、市民社会との「ケア」の関係を結び、自らのあり方をそのつど相対的かつ文脈的に捉えていくことによって、逆説的に職業集団としての能動的かつ積極的な存在意義を再発見できるのではないだろうか。(林教授)

以上の見解を問題提起として考えながら、さらに考察を進めていきたい。

(了)
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編集後記

焼き肉屋に行くと、においがつく。
それを、「臭い」と思う。
その臭いものを、私は食らうのか、という疑問がわく。

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執筆者紹介 引地達也(ひきちたつや)仙台市出身。就労移行支援事業所シャローム所沢施設長を経てシャロームネットワーク総括、ケアメディア推進プロジェクト代表並びに季刊「ケアメディア」編集長。一般財団法人福祉教育支援協会上席研究員、コミュニケーション基礎研究会代表。

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Last updated  2016.09.28 00:47:12
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