テーマ:政治について(20230)
カテゴリ:Politics
11月7日はロシア革命記念日ですが、ソ連崩壊後、人口に膾炙されることもありません。
資本主義から共産主義に必然的に変わると言うマルクス・エンゲルスの解く唯物歴史観を信じて、レーニンは未だ封建主義体制であったロシアに共産主義体制を齎したのです。 被抑圧階級であった農民をソフォーズ(国営農場)や集団農場(コルフォーズ)に集約して、労働者を抑圧から解放したのですが、結局は封建領主が共産党官僚に替わっただけなのかも知れないとの揶揄もあったのかも知れませんが、世界各国にも共産主義を浸透させようとする拠点となりました。 しかし、レーニンは後継者選択に過ちを犯し、独裁者スターリンに国の運営を任せ、粛清相次ぐ暗黒体制に変質させてしまったのです。 資本主義の先進各国は、労働者を抑圧するだけでは、労働再生産に支障を来たす懸念から、共産主義に対抗すべく、少しの利益を労働者に配分をする修正資本主義に変更することで、共産主義浸透を防ぐことが出来ました。 その後共産主義体制が確立したのは、それから32年経過した1949年中華民国を打破した中国共産党でしたが、スターリンに倣う習近平の粛清相次ぐ暗黒体制が進みつつあります。 ユリウス暦の1917年10月25日(現在のグレゴリオ暦の11月7日)、ロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で起きた労働者・兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命、十月革命はグレゴリオ暦によると十一月革命となるが、この記事ではユリウス暦を用いる。 十月革命は、社会主義左派勢力ボリシェヴィキにより引き起こされた。一連のロシア革命のなかでは、帝政を崩壊させ、メンシェヴィキ主導の二月革命に次ぐ第二段階にあたる。 ボリシェヴィキは、1917年10月12日、ペトログラード・ソビエトに軍事革命委員会を作って武装蜂起を進め、10月24日にペトログラードの政府施設を占拠し、10月25日に軍事革命委員会が「臨時政府は打倒され軍事革命委員会に権力が移った」と宣言した。 こうしてボリシェヴィキ主導のソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)へと権力が集中された。これに引き続いてロシア内戦が起こり、最終的には1922年に史上初の社会主義国家であるソビエト連邦(ソ連)が誕生した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.11.08 11:06:54
コメント(0) | コメントを書く
[Politics] カテゴリの最新記事
|
|