市場原理への誤解とレッテル
市場原理への誤解とレッテル今年も一年が始まった。一年のはじめに当たり、少々長い能書きを記しておきたい。2011年の一年は、いわゆるBRICsと言われる新興国群、中でも中国とインドを中心とした躍進の一方で、アメリカ、ヨーロッパ、日本という、これまで経済をリードしてきた先進国の経済成長が岐路に立たされる年となるであろう。言うまでもなく、アメリカもヨーロッパ(とりわけ、ギリシャ、アイルランド、スペイン等)も、リーマン・ショック以降の景気後退を引きずっており、雇用回復と財政改革が焦点となることは間違いない。そして、この課題は、そのまま日本にも当てはまる。ところで、このような景気後退に対して、世の中(特に日本)に蔓延している(であろう)最大の誤解の一つは、「自由な市場原理こそがこの景気後退の原因である」かのような言説であると言ってよい。特に日本の場合、そのような誤解を蔓延させている主因は、(1)経済学者と言われる専門家の一部が市場原理への否定や批判を展開していること、(2)マスコミがそれを広げていること、そして、(3)官僚自身がそれらの言説を支持していることなどにあると考えられる。貧富の差も景気の悪さも、行き過ぎた「市場原理主義」だの「新自由主義」だの「構造改革路線」だののせいにされているようだが、このような言説は実のところ全くの誤解であり、間違いである。例えば、アメリカのリーマン・ショックは、元々所得水準による返済能力をはるかに超えた無理な融資によるサブ・プライム・ローンを証券化し、それを他の金融商品と組み合わせるという複雑で不透明な証券取り引きによって、市場取引における信用を傷付けたことに原因があるというのが常識的な理解であり、市場原理そのものとは基本的に何の関係もない。むしろ、市場原理において公正なルールを徹底せず、不透明な商品を紛れ込ませたことにこそ問題がある。また、ヨーロッパで起きている一連の景気後退問題は、ギリシャに典型的に見られるように、財政問題が基本原因である。国の債務を政権与党が偽っていたという、かなり稚拙な誤魔化しが原因であり、それによってやはり、資本市場における信用を大いに傷つけたことが主因である。また、アイルランドは、金融機関における巨額の対外債務の資産構成が、リーマン・ショックによってリスク化し、一挙に経済危機として顕在化したのであって、基本的に市場原理とは無関係である。そして、スペイン等他の国々の問題も基本的に財政問題が本質であり、やはり市場原理とは何の関係もない。そして、いま起きている日本での景気後退も、「小泉構造改革」が原因であるかのように言われていたが、小泉政権時代は、それまで遅々として進まなかった不良債権の処理を終え、むしろ景気は回復に向かいだしていたというのが統計的事実である。ところが、そのような状況も、その後の度重なる政権後退で、構造改革自体が迷走し、混乱を与えていたところにリーマン・ショックが重なったため、景気回復が雇用増大に結実しないまま投資減退が継続してしまったことが要因であるように思われる。つまり、政治主導(だったはず)による規制緩和や官僚改革が、霞が関の強い抵抗と「100年に一度」の世界的不況に遭遇して、事実上頓挫していることが主因であり、市場原理とは関係がない。以上のように、昨今の景気後退は、自由な市場原理とは無関係なのにも拘らず、特に日本では、景気後退した原因や所得格差が広がった原因は「行き過ぎた市場原理主義」のせいだという謬見が散見される。このようなことになっている大きな原因は、上記のとおり、大きく三つの原因があるが、特に、専門家であるはずの経済学者の中に、そのような言説を吐いてマスコミに登場している人々が少なからずいるということが、極めて悪質な要因であると俺は感じている。とりわけ日本では、マルクス経済学を標榜している経済学者、政府の経済介入を正当なものであると信じているケインズ経済学者、金融政策によってインフレさえ起こせば景気が良くなると主張する経済学者等、一般人の理解に誤解と混乱を持ち込んでいる専門家達が少なからずいるというのは、由々しき事態である。(実際、そのような本は、本屋の経済欄に行けば腐るほど山積みされているはずである。)ここでハッキリさせておきたいのは、一般の人々をはじめ、社会的弱者や少数派にとって、最も有力な武器となり味方となってくれるのは、特定の政治権力でも思想でもなく、実は市場原理のほうであるということだ。経済における市場原理は、最も効率的に資本と労働を流動化させ、必要に応じてそれらを集中したり分散したりして、柔軟に経済を発展させるシステムなのだ。その証拠に、・既に資本主義システムを取り入れて発展している国は、一般に途上国経済より経済格差が小さい(国連のジニ係数を参照せよ)。・輸出入などの制限を設けずに貿易取引を積極的に行なってきた国ほど、一般に経済発展している。・政府や既存組織(独占的大企業、労働組合等)が、経済に余計な介入や規制をしないほど、市場が競争的となり、結果的に経済発展している(90年代のアメリカのIT産業、2000年代の世界的な通信産業等)。一見、政府の後押しが経済成長を促進しているように見える国でも、民間資本での成功を政府が後押しすることで上手く行くのであって、政府が経済成長をリードしているのではない。(例えば中国も、共産党政権が経済成長を引っ張っているのではなく、民間資本の自由な活動を開放し、それらを認めているから高度経済成長をしていると見るのが正しいだろう。)アダム・スミス以来、200年以上の歴史を持つ経済学も、その過程で、マルクスやケインズのような巨人によって、人為的な経済介入(党によるものであれ、政府によるものであれ)を正当化する経済理論も生まれたが、これらは20世紀において、ことごとく失敗であったことが歴史的に証明されてしまった。逆に、フリードマンが指摘したように、アダム・スミスが主張していた自由な市場原理こそが、最も望ましい経済取引の原理であると改めて示されたのだ。現行で起きている諸問題の多くは、既得権益集団が自らの権益を守るためだけのために経済介入を正当化し、市場原理を歪めることによって発生しているのであって、むしろ、公平で自由な市場原理を徹底していないがゆえに起きている問題なのである。政府による産業規制も、労働組合による正規雇用規制も、もっともらしい理由を付けて自らの既得権益を守るための経済介入を正当化しているだけでしかないように見える。(この点では、官僚もマルクス経済学者も同列だ。)それらの規制を求める行動によって、新しい産業参入や新規雇用の形態の発生など、自由な経済取引が生み出す可能性の目をことごとくつぶして、機会費用という社会的コストを支払っているということに、我々は気付く必要がある。自由な私有財産の所有と社会的分業を認める限り、市場原理こそが、最も効率的に多様な分業の形態を許容できるシステムなのであり、それこそが資本主義という経済の本質なのだ。フリードマンがいみじくも指摘したように、政治権力は一旦集中させてしまうと、その分散が容易ではない。それに対して、市場原理は資本の集中と分散は目的に応じて行うことが容易である。また、民主主義は多数に従う必要があり、しばしば少数意見が無視されるが、市場原理は必ずしも多数に従う必要はない。このことの社会思想的意味は深い。必ずしも多数に従う必要がないという原理は、少数派や異端にも生き残る道を常に保障しているという原理なのであり、次の時代には多数派になるかも知れないという可能性を常に与えている原理なのである。(例えば、戦後の長い間、日本でサブカルチャー、オタク文化などと言われていた漫画、アニメ、フィギュアなどは、今や重要な日本の輸出文化となっているが、これらは自由な市場原理による経済活動の賜物ではないだろうか。)つまり、社会的弱者やマイノリティの真の味方は、実は市場原理なのであって、他のあらゆる○○主義という政治理念ではないのである。だが、政治理念に拘る者達ほど、市場原理に罵詈雑言をぶつけ、レッテルを貼り、誤解と偏見を流布しようとしているように見える。まるで、自分達こそが弱者の味方にはなり得ないということを見破られたくないとでも言うように。そうなのだ。市場原理を最も恐れる者達というのは、競争が促進され、公開や透明な取引が進むことで、不都合が生じてしまう人々なのだ。おそらくそれは、現状での既得権益を失いたくないと考え、それにしがみついている人々なのだ。官僚(の多数)や(一部の)正規雇用者とそれを死守する労働組合、そして、政治権力によって経済介入を行いたいと願っている専門家や政治家などが、市場原理を恐れている人達ではないかと容易に推察される。彼等は、もしも市場原理が徹底して適用されることになれば、現状の社会的ポジションから真っ先に叩き出されてしまうことを直感しているはずだ。なぜなら、もし本当に今の立場が競争に生き残れるほど合理的なものであるならば、市場原理を徹底することに反対する根拠はないはずだからだ。だから、彼等は社会的弱者や貧困層を真に守ろうとしているのではなく、ただ自らの保身のためだけに市場原理を口汚く罵っていおるのではないかと思われる。こうして、特定の社会集団や階層が、庶民や弱者の味方になることはなく、おそらく裏切られるだけの結果になるのだ(現に、これまでの歴史がそれを証明している)。逆に、誰のものでもない、どの特定の集団の利益も代弁していていない市場原理こそが、弱者も含めた社会の圧倒的多数の有力な味方となる原理なのである。経済学を学習することの最大の意義は、市場原理が最もフェアで多様性を許容できる社会システムだということを理解できる点にあると言ってよい。だが、いつの時代でもそうであるように、時の多数派を批判し、その改革を唱えることは、各方面からの多くの恨みと怨嗟を買い、孤立させられ、時には葬り去られてしまうという、一種の騒乱を招くことであろう。良かれ悪しかれ、この一年は昨年以上にそういう年になるような予感がある。