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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.06.10
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小早川墓地は、前列に8基の宝篋印塔、後列に2基の宝篋印塔と20基の五輪塔が整然とならんで配置されています(6月5日の写真も参照)。
また周囲には、宝篋印塔や五輪塔の残欠が多数存在しています。

このうち、前列中央、大きな切石でつくられた基壇のうえに立つ14世紀後半の基礎をもつ宝篋印塔(H1とします)をのぞけば、いずれも16世紀から17世紀初頭の石塔となります。

写真の宝篋印塔は、H1の右に立ち並ぶ宝篋印塔で、H1を基準に、H2・3・5・6・7・8の順に掲載しています(H3とH4は写真未掲載)。

H2は、相輪の四輪目から上部を欠損するほかは、各部を備えますが、笠に対して塔身と相輪が大きく、別の物を組みあせています。現状の総高は、74.2センチ。
基礎の上部は、中央と隅に複弁を刻出した反花式となりますが、摩滅が激しく、側面は、四面とも輪郭・格狭間を省略した素面(なにも彫られていない面)となります。
基礎の幅は、24.7センチと小さく、小さな宝篋印塔(三尺塔)となります。
基礎の年代は、16世紀末期以降、笠も、ほぼ同じ頃のものとみてよいでしょう。

H3(写真は未掲載)も、H2とほぼ同じ大きさの小型の塔となります。
各部を備えますが、塔身より笠が小さく、笠より相輪が大きいことから、やはり別物を組み合わせたものになります。
基礎幅は27.6センチで、一面にのみ、輪郭をまき格狭間を入れています。
H2と同じく、16世紀末期以降のものでしょう。

H4も、写真は掲載していませんが、基礎幅は30.6センチあり、一面のみ輪郭をまき格狭間をいれています。格狭間の型式はH3に似ており、16世紀末期以降のものとみてよいでしょう。

H5は、各部を備えますが、笠より相輪が大きく、相輪は六輪目のところで折れています。基礎幅は35.0センチで、三面に輪郭をまき格狭間を入れます。格狭間の様式は三原市米山寺の慶長3年塔に近く、16世紀末期以降のものでしょう。塔身には、種子らしき文字がありますが判読できません。

H6は、基礎幅が39.5センチあり、H1の基礎幅46.7センチにつぐ大きさをもちます。三面に輪郭をまき格狭間を入れますが、全体に摩滅が激しく、格狭間も浅く彫っています。基礎の年代は、16世紀後半のものとみてよいでしょう。相輪が二輪目で折れていますが、もとは四尺五寸塔として立てられたようで、この墓域では、H1につぐ大きさとなります。

H7とH8は、ともに基礎幅が36.7センチあり、H6につぐ大きさです。ただし基礎の高さは、H7が26.7センチ、H8が28.0センチあり、若干H8のほうが高くなります。
いずれも、三面に輪郭をまいて格狭間をいれるほか、格狭間の型式も、同じデザインでつくられています。慶長年間のものとみられる三原市宗光寺の宝篋印塔(伝福島正之墓)の格狭間に類似しますが、H8のほうが、粗雑な造りをしています。いずれも16世紀末期以降のものとみてよいでしょう。
同じ基礎幅、類似する格狭間などから、この2塔の製作者は同一人物で、おそらく同じ時期に、一組の石塔として製作されたものではないでしょうか。だとすると、この2基は、小早川一族の夫婦の墓か、供養塔とみることもできます。

このように、墓域内には、多くの宝篋印塔が立ち並びますが、H1をのぞけば、みな16世紀にはいってからのものになります。
つまりH1が立てられてから、およそ200年の間は、H1しかなかったのです。
その後、16世紀にはいって、H1より高い場所に、城下をみおろすように、2基の宝篋印塔が立てられ、ついでH1の周囲に、つぎつぎと宝篋印塔が立てられていったことになります。

その歴史が示すように、ここは、歴代の「小早川家墓地」では、ありません。





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最終更新日  2005.06.10 13:51:13
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