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真理を求めて

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2007.05.05
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メーデーの帰りに寄った書店では、もう一冊面白い本を購入した。板倉聖宣さんの最新刊で『子どもの学力 教師の学力』(仮説社)という本だ。板倉さんの論理と主張はますます明快ではっきりしてきている。ここまですっきり言ってくれると爽快な気分になる。

子どもの学力が下がってきたと言われている昨今だが、学力というものの本質を見直すことによって、本当に下がったのかということに疑問を呈している。下がったということを主張するには、以前の学力が今よりも高かったということを言わなければならないのだが、実は以前だってたいしたことはなかったというのであれば、下がったという表現はふさわしくないだろう。

子どもの学力は下がったのではなく、そもそも学力そのものがたいした能力を測ったものではなかったのに、以前はそのことが隠蔽されていて、今はたいしたことないということが明らかになっただけなのではないだろうか。理解などしていなくても、暗記さえしていれば点数が取れる学力などは、実はまったくたいしたものではなかったのだ。暗記しようという動機さえあれば、その程度の学力はいくらでも上げることが出来る。だから、今は単に動機が失われただけのことではないのか。

学力というものを、テストの点数というふうに単純に規定すれば、これは下がっているのは明らかなようだ。共通一次の点数は、毎年1点ずつ平均点が下がっているらしい。だから、30年前の高校生に比べて、現在の高校生は30点分だけ学力が落ちている。この落ちた学力を取り戻すために取り組んでいる努力は、少なくなった学習時間を増やすということで行われているが、これはまったく成果を生んでいないように見える。

テストで点を取るためだけだったら丸暗記してしまえばいいというのは、自分の経験からも分かる。そして、そのためには学習時間を増やしさえすれば十分だともいえる。僕は、高校までは試験前の勉強をまったくしなかった英語で、大学では1週間かけて丸暗記したらほとんど満点に近い点が取れた。今の学校の学力においては、学習時間の問題だけが重要だともいえる。しかし、この学習時間というのが、実は単に時間さえかければいいという時間ではない。

このときの僕は、丸暗記すればどれくらい点数が伸びるのだろうかというのを実験しようという気持ちがあった。つまり、丸暗記することに非常に高いモチベーションを持っていたのだ。単にそれが自分のノルマだからというような消極的な動機ではなく、実験の成果がどの程度現れるかという期待を込めてせっせと丸暗記に励んだわけだ。このように高いモチベーションの下に学習した時間と、やらされていると感じながら勉強している状況では、物理的な時間は同じでも、学習成果としての時間はまったく意味が違ってくる。

昨夏の東京都葛飾区の中学校は、夏休みを削ってまでも授業の時間を確保した。学習時間を増やして学力を高めるための努力をしたのである。しかし、結果は悲惨だった。その前年には23区中の最下位ではなかったのに、そのような努力をして学習時間を増やした年は、学力テストで23区中の最下位に落ちてしまった。増やした授業時間が、単に物理的に時間を増やしただけで、学習意欲というモチベーションの点ではかえって下げてしまったのではないかと思う。いやいや勉強をしていたのではないだろうか。そのために結果的には逆の効果が出てしまい、テストの点という学力がますます下がってしまったのだろう。

学習の成果における<意欲>の問題は、この板倉さんの本でユニークな説明がされている。理科系的発想としては実に見事だと思うようなものだ。<学校教育の成果>と<学力>と<意欲>を関数として捉えて、それを抽象化して単純化するとどのように表現されるかを考えている。それは次のどちらの表現がふさわしいかを考えていた。


1 加法的表現 <学校教育の成果>=<学力>+<意欲>
2 乗法的表現 <学校教育の成果>=<学力>×<意欲>


もしこれらが、1のように加法的な関数として存在するなら、多少意欲がなくなっても、時間さえかけて学力を上げれば学校教育の成果は高まるということになる。しかし、2のように乗法的な関数として存在するなら、意欲が0(ゼロ)に近づいていくと、成果も0(ゼロ)になってしまう。いくら時間をかけて学力を高めようとしても、意欲がなくなれば成果はまったく期待できなくなる。どちらが現実を表現する関数としてふさわしいだろうか。

日本の子どもたちは、学校や塾以外で、自発的に自分で学習する時間が世界中で最も少ないということを聞いたことがある。学習に対するモチベーションという点では、世界で最低なのではないだろうか。つまり、昔学力が高いといわれていた時代でも、その学力は単にテストの点数が高いだけのことで、学習意欲はまったく低かったのではないだろうか。だいたい、大学まで行って、自分が何を勉強したいのか自覚をしていないというのは、大学生としての学力が著しく低いことを物語っているのではないだろうか。

板倉さんのこの関数的発想がすばらしいのは、さらに<学力>と<意欲>の関係も関数として結びついているのではないかと考えているところだ。<学力>が高まれば<意欲>も高まるのか、逆に<意欲>が高まれば<学力>が高まるのか。関数としては抽象化して正比例関数として考えられている。

1 <学力>=a×<意欲>
2 <意欲>=b×<学力>

これはどちらのケースも考えられる。問題は比例定数がどうなるかだろう。比例定数が0(ゼロ)に近ければそれは影響は少ない。だが、かなり大きくなれば影響も大きくなる。どちらの比例定数が大きいものになるだろうか。板倉さんの考えでは、「エリート効果」あるいは「優等生効果」と呼べるようなものが働けば、2の比例定数のbのほうが大きくなると考えられている。

その学習をしているものがごく小数に限られているときは、そこに「エリート効果」が働く。日本中で大学生の数がわずかだった時代は、大学生であるというだけで学習意欲を持つことができた。オタク的な現象でも、そのことを知っている人間が少数であれば、多分その分野での「エリート効果」が働いて、オタク的な知識を持とうとする学習意欲が高まるのではないかと思う。

「優等生効果」は、学校での評価が高まることで学習意欲が高まるというものだ。「エリート効果」は、オタク的に分野が細分化すれば、かなりの人間が「エリート意識」を持てる可能性があるが、「優等生」になれるのは限られているから、これが生じるのは影響としては少ない。誰もが同じことを学習するという平等主義的な教育では、2の効果を期待してもそれはせいぜい「優等生効果」にとどまるのではないだろうか。

1の、意欲を高めてその影響で学力を高めるというのは、普通によく見られる現象だが、意欲を高めるということが偶然に任せられているので、これを意図的に行うことが難しい。僕は数学に対する意欲が非常に高かったのだが、これはかなり偶然的なものだと思う。誰かが教育してくれたおかげでそうなったのではない。

偶然のきっかけは、子どものころによく家にきていたおじさんがくれたパズルの本だった。そのパズルが僕の興味・関心にぴったり来たのだろう。それに夢中になって、まずは論理的に考えることの楽しさを知った。それから、そろばんを習っていたこともあって、計算に関しては技術としてかなり高い段階にあり、計算に意識をあまり向けることなく論理的な処理に向かうことが出来たので、数学においても計算よりも論理性のほうに関心を向けることが出来た。

僕は数学においては誰かに教わって習得したという感覚を持っていない。教科書はだいたい読めば内容が理解できた。数学の解釈は、国語などと違って論理的にたどりさえすれば、誰が考えても同じ解釈に到達する。自分にぴったり合うレベルで説明してくれさえすれば必ず分かると思っていた。だから僕の数学勉強方は、自分にぴったり合う参考書を見つけることが自分の方法論だった。図書館などを回って50冊くらい入門書を探すと、そのうちの一つくらいは自分に合うものが見つかった。

意欲というのは偶然生まれるものだ。だから、偶然生まれた意欲を見逃さずに拾い上げて、それを学力に結び付けていくということが教育的には大事だろうと思う。その点では、時間割とチャイムで細切れにされてしまう学校教育は、意欲を殺すことに役立つのではないかと思う。子どもの意欲を殺さずにすむような学校制度の改革は、根本的な発想の違いから考えるしかないのではないだろうか。

意欲は意図的に喚起することは出来ないと僕は思っていたのだが、それを実現したのが仮説実験授業ではないかと思う。仮説実験授業は、科学史の中の大発見をした科学者と同じような思考の過程を経て、科学の基礎的な概念を学ぶというものだ。それは、常識をひっくり返すような斬新な内容を持ち、驚きとわくわくするような好奇心を喚起する。

仮説実験授業は、その内容を学ぶことは誰もが意義のある面白いものだと思えるようなものを探し、実際に授業をして楽しさを提供できたものが授業書として残っていく。学校教育の中で、学力の問題をまったく考えずに意欲を引き出すことに成功したまれな現象ではないかと思う。遠山啓先生の水道方式も大きな意欲を引き出すことの出来た学習法だが、これはどちらかというと、結果的に出来るようになるということの方に楽しさが見出せるものだった。仮説実験授業は、出来る出来ないにかかわらず、それが面白い(特に知的な意味で面白い)ということに基礎をおいた意欲の引出しが出来たものだった。

板倉さんがまとめのところで提出している関数は、学力を考えるうえでたいへん面白いものだ。次のように書かれている。


  <学力>=b×<意欲> ……………………………………………(4)
学習意欲を0にして卒業させた場合は、
  <教育効果>=<学力>×<意欲、0>……………………………(5)
成績が上がったために、エリート効果を生じた子どもの場合
  <教育効果>=<学力>×<意欲、エリート効果>………………(6)
学習の途中で、自分でその学習そのものの楽しさを発見した子どもの場合、
  <教育効果>=<学力>×<意欲、内発的興味>…………………(7)


今の学校教育は、学習意欲をほとんど0にして卒業させる。学校を普通に出た子どもたちは、学校と関係なくなるとほとんど学習意欲を持たない。これは困ったことだ。仕事の現場では、その仕事に必要な技術や技能を学ばなければならないのだが、学習意欲を失った人間は、どのように学習すればいいのか、誰かに導いてもらわなければ自分では出来なくなってしまう。

エリート効果と内発的興味を持つことが出来た幸運な子どもは、それによってその後も学習を続けることが出来る。しかしこの両者には大きな違いがある。板倉さんが指摘するのは次の点だ。


「上の(6)と(7)は、似たところがありますが、根本的に違うところがあります。それは(6)の場合の学習意欲は競争的に支えられていることです。そこでその後、競争で勝てなくなったり、競争相手が見出せなくなったりして<勝つ面白さ>がなくなると、その意欲は極端に低下するようになります。日本の学校優等生は、そのようにして研究意欲も研究能力も持たなくなって社会に出ているように思えてなりません。」


遠山先生も競争原理には反対していた。競争などしなくても学習意欲は高められると思っていたからだろう。僕は、競争にはもう一つの弊害があるように感じる。宮台氏が語っていた二流性の問題だ。二流の亜インテリは、本来の学問の競争では勝てないので、勝てる分野を探して、政治的な権力闘争に向かうのではないだろうか。競争による学習意欲の問題は、田吾作の足の引っ張り合いという問題も生み出すのではないかと思う。





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最終更新日  2007.05.05 10:37:24
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