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真理を求めて

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2012.10.21
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「みんな仲良し教育」が全体主義になるのは、それが強制されるからだ。結果的にみんなが仲良しになるなら、これは教育としてはほめられる成果になる。だが、実際には仲良しでもないのに、形だけ仲良しでいることを強制すれば、それは「仲良し」という目的を外れて、全体主義を生み出すという結果につながる。

馬が合う・合わないという事は人間関係の中では常にあり得る平凡なものだ。これは努力によって克服できるものではなく、軋轢を生まないようにするには、馬の合わない人間とは距離をとってつきあうという選択が正しい。これが「市民社会モード」だ。馬が合わない人間とも強制的につきあわされるのは、何らかの利害関係が仕事の上で生じたというやむを得ない場合だけであり、市民社会の中ではそのような無理をする必要はない。

市民社会モードの中では、人間は、この人とは馬が合うかどうかを自分で判断して、馬が合わなければ距離をとり、その判断が変わればまた距離を近くするというような修正をして人とつきあう。その判断を自分で行うことによって経験を積み、判断が進歩して正しいものへともなっていく。普通に思考をし、自分の判断に従っていれば人間は賢くなる。

だが、自分の感覚に反した判断を受け入れなければならないときは、人間は賢くなるのではなくだんだんと馬鹿になる。思考停止になっていく。この人間とは馬が合わないと感じても、その感じ方のほうが間違っていると教えてくるのが「みんな仲良し教育」だ。このメカニズムは、安冨歩さんが指摘していた「ハラスメント」の作用に似ている。

安冨さんが指摘した「ハラスメント」は、自分の判断に自信をなくさせて、相手の判断をすべて受け入れてそれにゆだねてしまう状態を作るものだった。それは判断を混乱させることで作り出される。普通、人間は同じ出来事に対しては同じ判断をしてその中に法則性を認識していく。だが、同じ出来事に対して恣意的に肯定と否定を繰り返されると、人間は思考が混乱して判断能力をなくしていく。

あることをしてしまったために叱責された子供が、次にはそれをやらないように注意していたら、今度はやらないことを叱責されたら、そのことをやっていいのかやらない方がいいのか、子供には分からなくなる。このような判断の混乱の経験を続けていくと、子供は自分の判断をせずに、判断を指示してくれる人間の言うことに従う。一種のマインドコントロールが完成する。このような子供は、何か悪い結果が起きたとき、それは自分が悪かったから起こったのだと反応するようになる。合理的に理解して何が悪いかを考えられなくなる。この状態が「ハラスメント」というものだ。

「みんな仲良し教育」では、仲良しに水を差すような浮いた存在の子供が、その原則を乱した悪いやつとして糾弾される。実は、「みんな仲良し」という状況の方が間違っているのかもしれないのに、和を乱したと言うことで自分を責めるような人間ができあがる。これが全体主義的雰囲気を生む要因となる。自分の判断を信用せず、仮説実験によって、客観的真理を判断するのではなく、単に仲良しという雰囲気を壊したと言うことが大変な落ち度として評価される。

板倉聖宣さんが、「民主主義と禁酒法」「生類憐れみの令」という授業所を作ったとき、社会の法則として提出したのは、「道徳を法律化すると、その目的とは反対の結果を導く」というものだった。禁酒というのは、飲酒の害を取り除くための道徳だ。生き物を大事にすると言うのも道徳としては尊いものだ。だが、道徳として正しいものを、法律によって罰則を与えるようなものとして強制すると、人々は違反を恐れてそのようなものから目を背けるようになる。酒や生き物との関わりを出来るだけ持たないようにする。禁酒の意識や動物愛護の道徳心は消えていき、それを社会に打ち立てようとした目的は失われる。

禁酒法の弊害は、ギャングによる密造酒の増加に現れ、生類憐れみの令では誰もが動物を避けるようになると言うことで現れた。本来は、道徳というのは自主的にそれを守るから価値があるのであって、強制される道徳はむしろ心を荒廃させる。「仲良し」という道徳も、努力の結果として仲良しになるなら価値があるが、仲良しでなければならないという強制をすれば、その目的と反対の結果が現れる。子供達の間にひどい憎しみの感情を生み出す。本当の仲良しの相手がいなくなる。

いじめられる子供は、何らかの意味でこの「学校モード」の秩序を乱すので、他の子供達から憎まれ、いじめられても同情を呼ばなくなる。また、そこに生まれた全体主義は、頂点に立つ子供に全能感を与える。もしその子供がその全能感を阻害されるような感情を抱くと、秩序維持のためにますます激しいいじめ(攻撃)をする可能性も出てくる。内藤さんは、全能感を確認するためにいじめがエスカレートしていくとも指摘していた。

全体主義の中心にいる人間の判断は恣意的なものであり、合理性はない。だから外から見ればとんでもないことだと思われることが学校では平気で行われる。その全体主義を育てるのは、構造的に見ればやはり「みんな仲良し教育」であり、学級制度という枠に入れて強制的にベタベタした関係を強いるものだという指摘は頷ける。

宗教がしばしばカルトと呼ばれる異常な状態になりかねないのは、それが道徳性を語るものであるにもかかわらず、人格や全生活を支配するものとして作用してしまい、自主性を失って全体主義に陥るからではないか。自主性・主体性を失わずに共同生活をするという難しい課題を克服しない限り、全体主義の危険から逃れられないのではないかとも感じる。まずは学校から全体主義を取り除ければ、人間は大きな進歩をするのではないかと思う。





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最終更新日  2012.10.21 14:27:16
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