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2012.11.15
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小沢裁判二審判決については、郷原信郎さんの

「陸山会事件の構図自体を否定した控訴審判決とマスコミ・指定弁護士・小沢氏の対応」
http://nobuogohara.wordpress.com/2012/11/14/%E9%99%B8%E5%B1%B1%E4%BC%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E6%A7%8B%E5%9B%B3%E8%87%AA%E4%BD%93%E3%82%92%E5%90%A6%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%81%9F%E6%8E%A7%E8%A8%B4%E5%AF%A9%E5%88%A4%E6%B1%BA%E3%81%A8%E3%83%9E/

と言うブログエントリーを読むと、この裁判のデタラメさがよく分かる。特に、様々な事実が明らかになった今となっては、事実がそのデタラメさを指摘すると言うことになり、検察側の主張の論理的おかしさがよく分かる。郷原さんは、

「この事件の捜査の段階で、検察は、4億円の借入れと定期預金の担保設定は、水谷建設からの裏献金を隠ぺいするための偽装工作として行われたとの構図を描き、マスコミも、その偽装・隠蔽を「水谷建設からの裏献金疑惑」に結び付け、それこそが事件の核心であるかのように報道した。」

と書いているが、この裏献金は全く事実ではなかった。この件に関しては検察の側はまったく立証できなかったのだ。だが、マスコミのデタラメ報道で多くの人がこれを事実だと受け取り、裁判そのもののデタラメさが見えなくなっていた。

今回明らかにされたのは、

「政治資金収支報告書への虚偽記入についての小沢氏の故意を否定しただけでなく、更に踏み込んだ事実認定を行い、重要な事項について、実行行為者である秘書の石川知裕氏及び池田光智氏について虚偽記入の故意がなかったと認定した。そして、それ以上に重要なことは、りそな銀行からの4億円の銀行借入れと定期預金の担保設定に関する指定弁護士や検察の主張の根幹部分を正面から否定する認定をしたことだ。」

ということだ。郷原さんの言葉では「犯意が否定された」というようにも語っていた。犯意が否定されたと言うことは、その行為の結果として何かの間違いがあっても、それは犯罪とは認定できないと言うことだ。この裁判は、元々犯罪でも何でもないものを犯罪のようにでっち上げたデタラメなものであったことが、事実によって認定されそれが判決となったと言うことなのだ。

郷原さんは、このエントリーの最後で

「今回の事件では、検察の暴走捜査、マスコミによる小沢バッシング、検察審査会の「民意」などによって、世の中に「小沢悪玉論」が蔓延する中で、一審、二審とも法と証拠に基づく冷静で客観的な判断が行われ、裁判所の司法判断の公正さが示されたことに敬意を表したい。」

と語っている。僕も全くその通りだと思う。最も厳しい論理性が要求される裁判所で真っ当な論理が語られたと言うことに、日本がまだ終わっていないという希望を見ることが出来る。この裁判において、裁判所がデタラメな論理を追認するようなことがあれば、本当に日本は終わるところだった。

郷原さんは裁判所の謀略については否定している。これは今回の判決でその通りだと思ったが、政治的な謀略は働いており、それによって小沢裁判が仕組まれたというのは確かなことのようにも見える。それはジャーナリズムに解明してほしいと思う。

我々一般市民は、事実が明らかになった後にこの全貌を知って理解することが出来るが、事実が隠蔽されていたときに、そこに疑いを持つ健全な目を持つにはどうすればよいかも考えたい。事実がどちらか分からないときも、一方の事実があまりにも不合理であれば、そこに隠蔽があることを予想して疑ってかかるという姿勢が必要だ。

検察の論理は、陸山会事件においてなぜデタラメに見えるのか。それが分かれば、今後同じような無理筋の動きが見えたときに健全な懐疑を持つことが出来るだろう。それは検察が最初に提出した論理が、スタートでは健全さを持っていたにもかかわらず、ある時点から全く合理性を欠いてしまったことに気づくところから見えてくる。

スタートのきっかけは「水谷建設からの裏献金を隠ぺいするための偽装工作」という疑いだ。この疑いが立証され、本当に裏献金があったなら、その犯罪性は明らかなのであるから、これさえ立証できれば検察の論理に間違いはない。だがこれが立証できなかったことから検察の論理が泥沼にはまり込むことになる。

まともな論理で考えれば、犯罪につながる事実が立証できなかったのだから、それは犯罪ではないと結論づけるべきなのだが、陸山会事件を「政治と金」の問題に絡めてしまい、犯罪を隠しているのだという前提から動いたことが躓きの一歩だったように感じる。

犯罪を隠しているという前提を持つところから、単なるミスにしか過ぎないものを「虚偽」だという偏見で見るようになると言う倒錯した論理が生まれてくる。「虚偽」の前提は、何か隠すべきものとしての犯罪性がなければならない。つまり裏献金が前提となって「虚偽」が成立するはずなのだが、裏献金はどこかへ消えているのに「虚偽」だけが重箱の隅をつつくように追求されたのだ。

「虚偽記載」は単なる入り口に過ぎない。そこから本丸である裏献金へ入るための入り口なのだ。だから裏献金が立証されれば、虚偽記載は末梢的なものになる。裏献金でこそ犯罪の告発をしなければならないはずだ。だが裏献金では告発が出来なかった。裏献金があったなら、それが告発できなければならないはずなのに、それが出来ないのに、末梢的な「虚偽記載」で告発してしまった。

この論理の間違いは、紙切れを1万円札に変える手品の論理と似ている。この手品がインチキではなくて本当なら、わざわざ手品を見せて金を稼ぐ必要はない。紙切れを1万円札に変えて生活すればいいのだ。それを見せて金を取るという行為の中に、本当は紙切れは1万円にならないという事実が隠れている。

だが、このインチキが事実だという前提で論理を組み立てると、実際に紙切れが1万円にならなかったときに、本当のやり方を教えてくれなかったから1万円にならなかったという倒錯した論理が生まれる。だから本当のやり方を教えてもらおうという論理だ。

裏献金が立証できなかったのだから、それはなかったと結論づけるべきだったのに、うまく隠されたのでその隠れたものがどこかに現れてくるはずだから、「虚偽記載」というものを見つけて追求しようという論理が生まれる。ないものをあったと思い込めば、単なるミスであったものを、意図的な虚偽だと証明するための証拠を集めようと思うだろう。

しかし、意図的な虚偽をするには、「何のために」という目的が必要だ。目的である裏献金の隠蔽が無くなってしまったのに、どうして虚偽性を証明するのだろうか。この倒錯した論理が間違いを肥大させ小沢さんに対するえん罪を生み出したと見るのが論理的に納得できる。倒錯した論理を見つけることが出来れば、事実が明らかにされていないときにもそれに疑いの目を向けることが出来るのではないか。





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最終更新日  2012.11.15 10:14:43
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