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真理を求めて

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2012.11.23
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「小沢一郎さん控訴審判決要旨  東京高裁・小川正持裁判長 2012年11月12日」

を参照しながら、二審判決が控訴趣意書の主張をどのように否定していくかという論理の筋道を考えてみようと思う。一審判決では、


「「被告人の故意及び実行犯との共謀について証明が十分ではなく、本件公訴事実について犯罪の証明がない」として、被告人を無罪とした。」


と言う結論を出した。石川・池田という元秘書に対しては「故意」を認めたものの、小沢さんに対しては

「本件4億円の簿外処理や本件土地公表の先送りが違法とされる根拠となる具体的事情については、石川らにおいて、被告人に報告してその了承を受けることをせず、被告人が、これらの事情を認識していなかった可能性があり」

「本件4億円を借入金として収入計上する必要性や、本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきであり、平成17年分の収支報告書に同年中のものとして計上すべきでないことを認識していなかった可能性を否定できない」

と言う理由から、上記の結論を出している。キーワードは「可能性」である。共謀という告発を受けていた小沢さんは、その犯罪性を直接証明できる証拠がなかったので、「共謀でない」という「可能性」をすべて否定されて初めて「共謀」だという証明になる。従って「可能性」(これは「共謀でないという可能性」)が少しでも見られるなら、それは犯罪の証明にならないのであり、有罪には出来ない、つまり無罪だという判断になるのである。

これは疑いがあるのに証明できないから無罪になったというのではない。疑いが真実であるという証明が出来なかったのであるから、それは単に疑いに過ぎなかったと言うことなのである。疑いに過ぎないことで人が裁けるはずがない。疑いに過ぎないと言うことは、それが不当な告発であり、えん罪である可能性が高いと言うことなのである。

さて、控訴趣意書では無罪判決に対して二つの反論を試みている。それは

1 「被告人は、本件4億円を借入金として収入計上する必要性や、本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきであり平成17年分の収支報告書に計上すべきでないことを認識していた」と「事実誤認」を指摘している。(この「認識していた」という判断を二審判決は退けている。つまり「事実誤認」はないという判断だ。)

2 「原審の審理過程において、被告人及び弁護人は一切主張しておらず、争点になっていなかった」ことがら、すなわち上記の「可能性」において論じられていた「被告人が本件売買契約の決済全体が平成17年に先送りされたと認識していた可能性があること、及び、被告人が、本件定期預金は本件4億円を原資として設定され被告人のために確保されるものなので、本件4億円を借入金として収入計上する必要がないと認識していた可能性があること」が議論されているのは、争点化が図られておらず「審理不尽」だと指摘している。(これに対しても二審判決は一蹴するような判断をして否定している。)

この二つの反論に対する否定がいかに合理性を持っているかを考えていきたいと思う。まずは2の方は簡単に片付けているのでそれを見ていきたい。二審判決は「原審に審理不尽があったとする所論に理由がないことは明らかといえる」と書いている。これを見ると、数学を勉強し始めた頃、参考書の証明の欄を見ると「明らか」と書いてあったのを思い出す。

論理関係が分かっている人間にとっては、説明するまでもなく「明らか」だと分かるのでそう書くのだが、論理関係が分かっていない人間にはどこが「明らか」なのかさっぱり分からない。だから「明らか」だと思えるように、その論理関係に注目してこの言葉の意味を考えてみよう。控訴趣意書の「審理不尽」という指摘に対しては

「所論指摘の点は、原判決が、指定弁護士が証明責任を負うべき、被告人の本件土地の取得、及び取得費等支出時期の認識、並びに本件4億円の収入計上の必要性の認識につき、これを認めることができないとする理由の中で、そのような可能性があると述べるものにすぎない。そして、公判前整理手続の結果、「被告人の本件に関する認識の有無及び秘書との共謀の有無」が争点の一つとして明確になっていたことをに鑑みると」

と言うことを理由に、その指摘は間違っていると言うことが明らかに分かると述べている。なぜ明らかなのか。それは一審判決が問題にしたのが、「可能性」の問題であって、事実の証明ではないからだ。

一審判決が、もしも次のような事実

・「被告人が本件売買契約の決済全体が平成17年に先送りされたと認識していた」
・「本件定期預金は本件4億円を原資として設定され被告人のために確保されるものなので、本件4億円を借入金として収入計上する必要がないと認識していた」

を前提にしていたとすると、これは事実の認定を巡って争う、つまり争点にしなければならないという判断が働く。しかしこれは「可能性」を語るところで出てきたものなのだ。「可能性」であれば論理の問題であり、事実として争点にする必要はない。事実として争わなければならないのは

・「被告人は、本件4億円を借入金として収入計上する必要性」を認識していた。
・「本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきである」と認識していた
・「平成17年分の収支報告書に計上すべきでないこと」を認識していた

と言う3点の認識だ。そしてこの認識の存在を証明するのは指定弁護士がやるべき事なのである。「可能性」の証明は、小沢弁護団がすべきことではないし、ましてや裁判官がやることでもない。「可能性」はそれがあると論理的に考えられると指摘するだけでいいのだ。そしてその「可能性」を指摘されたなら、指定弁護士はそれを否定するべく証明しなければならないという論理関係にある。

上記の違法の根拠となる認識はそれぞれ直接証明することが出来ない。そもそも人間の頭の中にある認識の存在を直接証明することは出来ない。だからこそその認識がなかった「可能性」はすべて否定されなければならないのだ。その「可能性」が一点でもあれば、それによって有罪の判断は崩れる。有罪とは言えなくなるので無罪なのだ。

「可能性」を争点にして論じるのは、無罪のための必要条件ではないのだ。「可能性」を指摘するだけで無罪を言い渡すには十分なのである。このような理由から、論理関係が分かっていれば、「審理不尽」だという指摘が正しくないのは「明らか」だろうというのが二審判決の説明なのである。実に明快で合理的な論理だ。

「事実誤認」の否定の方はもう少し複雑で難しい論理になる。これは改めて考えてみようと思う。





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最終更新日  2012.11.23 11:35:19
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