80年代、北京のタクシー
今はもうこんなことは危なくて絶対できないだろうな、と思う。まだ中国がいけいけどんどんになる前の、のんびりしていた時代の話。地方都市から、旅行に行こうと北京にやって来た。翌日のトルファン行き列車の寝台切符をやっとのことで手に入れ、とりあえず北京駅からそう遠くないホテルに向かう。そこには日本のパン屋が技術提供しているイートインのベーカリーがあり、当時の中国としてはかなりまともな菓子パンや食パンを売っていたのだ。パンをいくつかと、まだ牛乳やコーヒーが普通に手に入らない時代だったからオレンジジュースのパックを買い、空いている席に着いた。少し経つと昼時になり、込み合ってきた。若い男性2人組が相席で同じテーブルに着いた。こういうときは中国人の常として必ず世間話が始まる。「なあ、あんた、日本人だろう?」おお、こんな汚い格好していてるのによく分かるなあ。「俺たち、タクシーの運転手だから分かるんだよ」へえ。外国人をよく乗せてるってことか。「ところで、あんた今日泊まるところ決まってるのかい?」いや、まだこれから探そうと思って。どこか安くて便利なとこ知ってる?「もちろん。永定門駅近くの僑園飯店ってのが安いよ。外国人も多い。」そうかあ。どうやって行くの?「俺たちが送って行ってやるよ。どうせ暇だしな」それは助かるなあ。という訳で、私は彼らの商売道具であるところのタクシーに乗った。確か車は中国の国産車だったと思う。メータは付いてない。1人が運転席、もう1人は助手席。私は後部座席。「日本の車の方がずっといいんだけどね。」中国の流行の歌のカセットをがんがん鳴らしながら、まだ渋滞が全く存在しなかった北京の街を走る。「ところでさ、あんた西条秀樹のカセット持ってないかい?」え?何で西条秀樹?悪いけど持ってないなあ。「日本の他の歌手のでもいいけど。」残念だけど、ウォークマンも持ってないからね。カセットもないよ。「そうかあ。じゃ、外貨兌換券(※注)持ってないか?」え?ああ、持ってないよ。今はトラベラーズチェックと人民元だけ。「そうか、そりゃ残念。」(※注)1993年まで中国で日本円や米ドルなどの外貨を両替すると出された 紙幣。普通中国人が使う人民元と同値とされていたが、実際は 外貨兌換券:人民元=1:1,2~1,6ぐらいのレートで 闇取引されていた。これがあると、外国製品が買える、外貨と 交換できるなどメリットがあったため。あとはこの後どこへ行くんだとか、どこで何を勉強してるんだとか、日本では車は1台いくらぐらいかとか、そんな世間話をずっと。とか何とか言ってるうちに、車は僑園飯店に到着した。「ありがとう」と車から降りると、「部屋があるかどうか聞いてきな。もしなかったら別のホテルに連れてってやるから、ここで待ってるよ」と言う。フロントの恐ろしく無愛想な(当時の中国ではデフォルトだが)服務員に尋ねると、ドミトリーが空いているという返事。宿の入り口で待っていた彼らの車に戻り、「部屋が取れたよ。ありがとう。で、タクシー代はいくら?」と言うと、彼らはこう言った。「俺たちは友達じゃないか。友達から金はもらえないよ。楽しい旅行をな。」2人は手を振って、車は去っていった。ほとんど警戒心もなくほいほい乗った日本人の私と、ちょっと何か取引ができればラッキーと思っていた彼ら。それでも、結局何の見返りもなしに親切にしてくれた。なんていうか、そういうところがいかにも中国人だな、と思う。日本人にはちょっとできない芸当だけど憎めないっていうか。やっぱり中国人、特に一般庶民は一筋縄ではいかない。