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カテゴリ:その他『ひまわり』
『ひまわり アクアアフター』をもう何ヶ月も前にクリアしていたのに未だに感想を書いていなかった。
だから今書く。 率直に言ってこの作品はファンディスクなどではなく、『ひまわり』のアクアルートを誤読した者に対して制裁を加える為のものだった。 すなわちハッピーエンドを信じた者に、作品内の絶望的主張を再提示し、現実を見せ付けることを目的としている。 現実とは何かというと、『過去を振り切って幸せになれる』という思い込みである。 原作のアクアルート終盤、アクアが因縁の指輪を空に放り投げ、己の過去との訣別を宣言する場面がある。 あの場面を通常の思考で読み解けば、「アクアは辛い過去を克服して幸せになれたのだなぁ」となる。 しかし、本当にしっかりと『ひまわり』を読んでいるのならそんな勘違いは犯さず「アクアも大概愚かな女だな」と少なからず呆れを覚えるはずである。 原作のアクアルートにおいて、陽一とアクアの考え方には大きな擦れ違いがあった。 陽一は、葵への想いを捨て切れずに絶望しながらも、父から受け継いだ生命の哲学によりそれを克服し(開き直りとも言う)、虫の息をしながらアクアに向き直った。 一方、アクアは直前にあれだけ大吾への想いに苦しんだにも関わらず、ちょっと奇跡が起きたらそんなことはすぐに忘れてしまい、のーてんきにも辛い過去を置き去りにして陽一と新たな道を歩もうとした。 陽一とは異なり、アクアは自分の想いの強さに無自覚だった。いや無自覚になってしまった。 陽一の誠心に中てられて、「大吾を愛して深く傷付いたことを忘れてしまえると錯覚した」。 これが過ちである。 何故過ちだと言い切れるかというと、そりゃ当のアクアルートの主張が陽一の思考に沿っているからだ。 『本当に愛した人を失えば、一生その人のことを忘れられない』と、この作品は繰り返し何度も何度も訴えかけていたからだ。 アクアの最終的な思考はその主張に逆行していた。 よって失敗は必定であり、過ちは必ず繰り返される。 今のままでは、アクアは決して幸せにはなれず、既に二度繰り返した絶望を永遠に再現し続けるだけである。 俺はそう考えていた。 二人は寄り添いながらも、互いに今は亡きかつての恋人を愛し続け、いずれ崩壊する。 その考えが相当以上に正しかったことが、このアクアアフターにおいて見事に証明されたというわけだから痛快極まるね……。 しかしそれと同時に、このアクアアフターにおいて、アクアはようやく陽一の哲学に追いついた。 秋桜との対決を終えて、まずアクアが考えたことは何か。 「あたしはやっぱり、大吾が好き」だった。 これが唐突な台詞に見えるだろうか? そうではなく、この台詞はアクアルート最後に残された矛盾を解消するための必然の一言である。 アクアは御伽話のような安っぽいまやかしから抜け出して、ようやく現実と向き合う機会を得た。 事ここに到って、ようやくアクアは陽一と同じ強さを得た。 このファンディスクによって、アクアは「強くなった」のである。 そういうわけで、本編の補完としてこの『アクアアフター』は充分に納得できる内容だった。 一度ヒロインの人格を崩壊させてから再編しようとする残酷な展開も、全体的に異様に辛気臭いところも、誠実な愛情への哲学も全て俺の大好きな『ひまわり』である。 ただ、オススメはしない。 結局のところ、この作品は原作の地獄をもう一度繰り返して見せただけの話とも言える。 健全なプレイヤーが好んで二度もあんな想いをする必要はないだろう。 所詮物語だ。幸せな未来を信じたいなら、永遠に赤い向日葵畑で佇み他愛の無いハッピーエンドを妄想していた方が遥かに健康的である。 以下、気になった点。 序盤から下ネタが多くて少々鼻についた。せめてアリエスの前では控えるべきだと何度も……。 また、事件に関して陽一が取った行動についての描写が極めて不明瞭である。これはそのまま、アクア側の描写に比べて陽一と葵との描写が不足していた原作の弱点の再現である。要するに改善されていない。 最後に、今作の目玉であるはずの秋桜の出番が少ない。立ち絵が可愛いのはいいが、せめて一枚絵の一つぐらいは欲しかった。 追加されたBGMは素晴らしい。 秋桜のテーマ曲に相応しく、夏の終わりを感じさせる冷涼で爽やかな曲。 でも何度探しても秋桜のエロはなかった。 極めて自然にエロを入れられるシナリオだったのに、敢えて入れなかったのは原作者の性描写に対する意欲の低下が原因かと疑ってしまう。 出来ることなら、俺はエロゲーがやりたかった。 『ひまわり』のようなテーマを扱うなら尚更。まぁ今更言っても詮無いことではあるけど。
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Last updated
2010.12.04 00:49:35
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