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前回に引き続き カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)から紹介します。 7月にウイーンに旅行した時にマリア・テレジアの墓所を訪ねたいとおもい出かけたのですが、豪華なバロック時代の柩はどれも凝りに凝ってすばらしく、カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)どこかで紹介したいな・・と思っていました。 Gruft とは棺を置く墓所。つまり 納骨堂のような所。 ウイーンのホーフブルグに近いカプツィーナ教会(Kapuzinerkirche)の地下にオーストリア・ハプスブルグ家の墓所カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)があります。 そこには12人のハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝と8人の皇后。それに皇子や皇女100人以上の棺が安置されています。 また棺だけでなく、心臓の入った壺(カノポス)や遺灰も収められているとの事。 メインはマリア・テレジアの予定でしたが、ここには歴史に登場する有名人(の棺)が一堂に会しているのでいろいろ紹介しようと思います カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂 カプツィーナー納骨堂 (カプツィーナ・グルフトKapuzinergruft) マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(Margarita Theresa von Spanien) レオポルド1世(Kaiser Leopold I) カプツィーナー納骨堂 (カプツィーナ・グルフトKapuzinergruft) オーストリア・ハプスブルク家は、カール5世の弟フェルディナント1世(1558年~1564年)に始まると言われるが、この納骨堂はその孫であり神聖ローマ皇帝になったマティアス(Matthias)とその妃アンナ(Anna)から始まっている。(2人とも孫であり従妹同士) 奥の格子の扉の向こうにあるのが創設者納骨堂で、マティアス(Matthias)とその妃アンナ(Anna)の棺が納められている。 神聖ローマ皇帝マティアス(Kaisers Matthias)(1557年~1619年)(在位:1612年~1619年) 皇妃アンナ・フォン・ティロル(Kaiserin Anna)(1585年~1618年) 皇妃アンナは二人の墓所とカプチン会修道会の為に1617年に教会の建立を計画し資金を出したと言う。そして翌年にはアンナは亡くなり、皇帝もその翌年に亡くなった為にそのあとに皇帝となった従兄のフェルディナント2世が1622年に教会の礎石を置いたそうだ。 しかしフェルディナント2世が始めた30年戦争で大幅に工事が遅れ教会の献堂は1632年。 カプチン・フランシスコ修道会(ラテン語:Ordo Fratrum Minorum Capuccinorum)が現在も納骨堂の管理保全をしているらしい。 因みに礎石したフェルディナント2世は熱烈なイエズス会の信奉者だったそうだ。 さて、このあたりは皇后の柩がならぶ場所 写真下の矢印がベラスケスの絵画でも有名なスペインから嫁いだマルガリータ王女の柩です。 マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(Margarita Theresa von Spanien) (1651年~1673年) スペイン王家出身で、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の最初の妻となった彼女はスペイン王フェリペ4世が最も愛した娘でした。 フェリペ4世はたくさん彼女の肖像画を描かせました。おかげで彼女の肖像画はスペイン宮廷だけでなく嫁いだウイーンの他ルーブルにも所蔵されています。 そう言う意味では最も世界的に有名になった王女かもしれません。 ウイーン美術史美術館に所蔵されているディエゴ・ベラスケスの手による彼女の肖像です。 マルガリータ・テレサ8歳の時と思われます。 フェリペ4世が最も愛した娘でも彼女は政略結婚によりたった15歳でウイーンの宮廷に嫁ぐ事になりました。 相手は11歳年上の母方の叔父で神聖ローマ皇帝レオポルト1世。 しかしこの結婚は彼女が生まれた頃から決まっていた? 3歳、5歳、8歳スペイン宮廷からウイーン宮廷に贈られた彼女の肖像画は彼女の成長過程を知らせる見合い写真的なものだったようです。 結婚生活は順風で6人の子供を授かったそうですが、6年で6人の出産です。第6子を出産して直後に21歳の若さで亡くなったそうです。 因みに彼女が病に伏せるとすぐに次の后候補を探すなど意地悪されていたようで、政略結婚後はもう用済み? 彼女の柩が割と質素なのもそう言う理由かも・・。 マルガリータ・テレサの柩の右隣はフェルディナント3世の3番目の皇后の柩 エレオノーラ・マグダレーナ・ゴンザーガ(Eleonora Magdalena di Gonzaga-Nevers)(1630年~1686年) イタリア、マントヴァを支配していたマントヴァ公爵家ゴンザーガ家の出身。 1651年にフェルディナント3世と結婚。3番目の皇后となる。 彼女の生まれた年にマントヴァはオーストリア・ハプスブルク家に侵攻され本来彼女の父が継ぐべきマントヴァ公は分家に奪われてしまった。 理由はエレオノーラ父が親仏派だったからのようだ。 最も彼女が生まれてすぐに父は早世している。 この結婚は領土拡大の為の政治取引による政略結婚だったのは間違いない。 1708年イタリアの領土全てを没収されマントヴァ公領は独立国の立場を失いハプスブルク家領のミラノ公国に併合されゴンザーガ家は消滅している。 柩もさらに質素な気がします。
少し豪華になった柩 右・・レオポルド1世の3番目の妃エレオノーレ・マグダレーネ(Eleonore Magdalene )(1655年~1720年)の柩。(一番目の妃マルガリータ・テレサより豪華である ) 中・・不明 左・・早世した赤ちゃんの柩。両親はカール6世と前回紹介したエリザベス・クリスティーヌの息子。 レオポルド・ヨハン(Leopold Johan)(1716年~1716年) さて、ここでやはり紹介しておかなければならないのが度々出てきたレオポルド1世です。 下が神聖ローマ皇帝レオポルド1世の柩 レオポルド1世(Kaiser Leopold I)(1640年~1705年) 神聖ローマ皇帝(在位:1658年~1705年)オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王 1番目の妃マルガリータ・テレサ(1651年~1673年) 1666年に結婚 2番目の妃クラウディア・フェリーツィタス(1653年 ~1676年) 1673年に結婚 3番目の妃エレオノーレ・マグダレーネ(1655年~1720年) 1676年に結婚 ※ 妃が亡くなった年にすぐに再婚している 兄フェルディナント4世が亡くなった為に王位を継承。 本来は聖職者になるべく教養を身に付けていたそうで学問と音楽をこよなく愛する文人皇帝だったそうだ。 だからマルガリータ・テレサとの関係は良かったのかもしれない。1667年の結婚の祀りではマルガリータと共にオペラで主演しているそうだ。 また彼自身が作曲家として教会音楽やバレエ曲まで作曲。音楽家のパトロンとしても活躍しウイーンが音楽の都として発展する素養を造った人物のようだ。 レオポルド1世の治世は半分が戦いだったそうだが、何にしてもカール5世以降衰退していた帝国を立て直した事でバロック大帝と呼ばれるようです。 敬虔なカトリック教徒で自らの生活は割と質素だったと言う。 柩も前回紹介したヨーゼフ1世やカール6世よりもはるかに質素ですね。 通路の一番奥に女帝マリア・テレジアと夫君ロートリンゲン公フランツのサルコファガス(sarcophagus)が置かれた部屋がある。 次回紹介 リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩 リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降 リンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)
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