写真追加しました。
Break Time(一休み)
英国のEU離脱の失敗 ・ ウェストミンスター宮殿
ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)
エドワード懺悔王とウエストミンスター寺院とウェストミンスター宮殿
英国の国民投票でまさかのEU離脱が決定した。
世界は震撼。
直後英国ポンドは160円から130円に下落。当然ユーロもドルも降下し1ドル100円を割れた。
週明け月曜は少し反発したものの、英国離脱後のEUの事、英国の事を思うと先行きは確実に悪い方に進むだろう。
金曜にドルとユーロを少し購入したが、これから半年先にはもっと落ちているのではないかと予想される。
(個人的にはユーロは100円割れて発足最安値の88.87円を切るのでは? と思う。)
EUの窓口として英国に会社を開いている邦人は約1000社。他の諸国の会社も含めれば数千社ではきかない会社が進出していると予測。
それが英国EU離脱となれば彼らは英国にいる意味が無くなる。他に窓口となる国を探して英国を去る会社は続々出て来る事だろう。
実際、一部銀行ではすでに英国から他のEU諸国への移動の可能性が示唆されている。
(逆にEUで働いていたイギリス人はみんなクビになり本国に戻って来る事になる。)
移民に自分達の職を奪われる・・どころかもそも働ける会社そのものが消える・・と言う結果だ。
それ故本当の経済危機はこれからじわじわ始まって行く事になる。
また、この泥船から降りるべく、スコットランドや北アイルランドが独立する可能性が再浮上。
彼らは独立してから独自にEUに入りなおしたいと言っている。
そうなれば「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」ば完全な崩壊となる。
つまり英国のアイデンティティ(Identity)も失う結果となるのだ。
今回EU離脱派の票はたった1700万。
実際、高齢者に離脱派が多く若者は残留派が多かった。
意味も判らなく投票した高齢者に対して、将来を真剣に考えた若者は当然残留である。
なぜなら今までのようにEUに加盟していればEU内から職場を選ぶ事が可能だったのに離脱すれば若者は英国内だけにしばられる事になるからだ。(グローバル化の時代に働き口はドメスティックに退行)
一票は一票であるが、高齢者の票はこれからの未来ある若者の職を奪った事になる。
(これから若者のイギリス離脱も進むかもしれない。)
政治は30年先を見据えて動くものだ。だから30年先に生きている人達の票がもう少し重視されなければ・・と思う。
「私には私の将来を決める選挙権が無かった。」
14歳のイギリスの女の子が言った言葉だ。
一言コメントのつもりが長くなったの今回は予定変更してイギリスの国会議事堂であるウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)の写真を紹介する事にしました。(写真は2013年5月のものです)
ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)
ウエストミンスター橋とウェストミンスター宮殿
ロンドン・アイからのテムズ(Thames)川とウェストミンスター宮殿
生憎ゴンドラの順番を待っているうちに天気が激変。調度トップでドシャブリになる・・と言う悲劇
写真はかなり明るめに調整しています。(写真はテムズ川の上流方面です)
赤い矢印・・ウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)
そもそもなぜ国会議事堂と呼ばずにウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)なのか?
それは、もとが王宮だったからです。
写真では宮殿の後ろ(実際は宮殿の正面)に王室礼拝堂であるウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)がありますが、先にあったのは寺院です。
エドワード懺悔王とウエストミンスター寺院とウェストミンスター宮殿
ウエストミンスター寺院の設立は正確にはわかっていないが7世紀には教会が存在していたとされる。
エドワード懺悔王(Edward the Confessor)(1004年頃 - 1066年)は1050年頃ノルマン様式でもとあった教会を再建。
同時期に居城をウインチェスターからウエストミンスターに移し城を建設。(城は少しずつ拡張。)
※ 参考に以前「ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)」で紹介しましたがイギリスの宮殿史です。
1049年~1530年 ウェストミンスター宮殿
(要塞としてのロンドン塔も王の居城としては1625年まで使用されているが宮殿には含まれていない)
1529年大火が発生し宮殿移設
1530年~1698年 ホワイトホール宮殿
1702年~1837年 セント・ジェームズ宮殿
1837年以降 バッキンガム宮殿
エドワード懺悔王(Edward the Confessor)の「the Confessor」は告解者とか証聖者と訳した方が解りすい。
幼少期から修道士と共に生活していた彼は純粋に信仰心を持っていた王だったようです。罪を悔い祈るだけでなく、国家の為、慈善事業に力を入れ、ウエストミンスター寺院を再建し、イングランド教会とローマ教皇との間の関係改善をも行っている。
修道士のような志を持った王者? 崇敬されるべき王は聖人認定され「the Confessor」が付いた。(列聖は1139年?)
歴史ではノルマン・コンクエストを果たしたウィリアム1世(William I)(1027年~1087年)の名がよく上がるが、彼はエドワード懺悔王の甥でもともとノルマンデイー公だった。
ノルマン人がイングランドに迎え入れられたのはエドワード懺悔王の功績が最初にあったからと言える。
※2013年「ロンドン(London) 8 (シティの紋章)」や「ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)」を合わせて読んでもらえるとロンドン経済の成り立ちが解ります。
リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)
リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)
何度も火災や爆撃で宮殿は崩壊している。
最初の火災は1529年。この時の王はヘンリー8世(Henry VIII)(1491年~1547年)
1530年、トマス・ウルジー枢機卿から取り上げた屋敷(ヨーク・パレス)を手にいれ宮殿を移設。
(ホワイトホール宮殿と改名され1530年~1698年まで利用された。)
ウェストミンスター宮殿図解
青い矢印は川の流れの方向。最初の写真とは反対が宮殿正面。
建物は右の川上が上院。川下が下院になっている。
左オレンジ・・ビツグ・ベン
手前黄色・・ウエストミンスター・ホール
ホール後ろ水色・・下院会議場
右端緑・・・ヴイクトリア・タワー
その左ピンク・・上院会議室
ウエストミンスターから宮殿は移動したが、もともと王立裁判所としても利用されていた。
1394年~1401年に改築されたウエストミンスター・ホールは初期の議会の会議場になっていた。
また見て解るようにこの宮殿はシンメトリーではありません。
実は正面から宮殿の全景を入れるのは不可能なので分割されています。
宮殿正面右 ビクトリア・タワーからウエストミンスター・ホール横下院入口 上院側の翼
ビクトリア・タワー 104m 中は議会の記録文書が保管。
19世紀にイギリス政府はコンペ形式によって、新国会議事堂の設計。
外観はテムズ川対岸からの眺めに重点をおきながら威厳のあるファサードが構築されている。
上院側正面に立つ像はジョージ5世(George V)(1865年~1936年)
彼はウエストミンスター憲章(1931年)においてイギリス連邦の君主の立場を象徴と正式に認めた王である。また貴族院独断の議会にも一石を投じている。
現代の議会の父と言える存在。
リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)像
彼については2015年「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)」を見てね。
リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)
左がウエストミンスター・ホールで下が下院のゲートになっていた。
実はこの時にイギリス議会の会期中で宮殿前の道路は完全封鎖され、マスコミや警官がたくさん出ていました。
ウエストミンスター・ホール 宮殿の最古に近い部分。1097年~1099年に建築。
できた時は当時のヨーロッパで最大のホール。
この屋根であるが、オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)(1599年~1658年)の首が25年間もさらされたと言う曰く付き。
時計塔ビッグ・ベン
ビッグ・ベン(Big Ben)については2009年に「ビッグ・ベンと国会議事堂」で書いています。
さてさて、本当にEUを離脱したら長らく続いた大英帝国の偉功(いこう)も全て消え失せてしまう気がする。
イギリス国民は何ておろかな決断を下したのだろう。
最後に晴天の宮殿とビッグ・ベンの写真を載せました。ロンドンはネコの目のように天気が変わりました。
おわり
※ テムズ川についてはロンドン・シリーズで紹介しています。以下以外にもロンドンは幾つか書いています。
リンク ロンドン(London) 1 (テムズ川)
リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)
リンク ロンドン(London) 3 (テムズ川に架かる橋 2)
リンク ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)
リンク ロンドン(London) 5 (タワー・ブリッジ 2)
リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)
リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)
リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)
合わせてテンプル教会の起源であるテンプル騎士団について、ロンドン、シティにあるテンプル教会が本部となっていたのです。
リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)
テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)の末路についてこちらで解説しています。
リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)
そもそも「十字軍遠征」とは何だったのか? について書いた章も付け加えました。
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)