今回は「大阪天満の造幣局 2」はお休みしてショートネタ。造幣局で見つけた豊臣秀吉の金の話を単独にしました。
1935年(昭和10年)、造幣局の前を流れる大川(旧淀川)からとんでもないお宝が発見された。
シジミ獲りの漁師が見つけたお宝は、さらに遡る事1615年(慶長20年)の大阪城落城の際に逃げる船から落とした遺物ではないかと考えられている。
それは大阪造幣局のお宝となって今に展示されている「竹流金(たけながしきん)」と「菊桐金錠(きくきりきんじょう)」と名の付いた豊臣時代の金塊。
秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
竹流金(たけながしきん)と菊桐金錠(きくきりきんじょう)
秀吉の金配りと鉱山開発
法馬金(ほうまきん)
秀吉の黄金趣味
竹流金(たけながしきん)と菊桐金錠(きくきりきんじょう)
冒頭紹介した川からの拾いものの金塊であるが、竹流金(たけながしきん)は文字通り竹のような鋳型に砂金を流して造られているのでそう呼ばれているが、室町時代末期から安土桃山時代にかけて作られた秤量貨幣(ひょうりょうかへい)の一つだそうだ。
※ 重さが一定していないのは、使用に際して必要分を削ったり切ったりして使うタイプだかららしい。
一方、菊桐金錠(きくきりきんじょう)の方は重さの一定したナゲットだったらしい。
共に言えるのは軍用や恩賞用として主に利用されるタイプの金で、流通用ではなかったと言う事だ。
それ故大阪城、落城の時に慌てていて落としたものではないか? と考えられたのだろう。
竹流金(たけながしきん)
秤量金貨(ひょうりょうきんか)として必要に応じて切ったり削ったりして使われる金。ちょっとした旅行に携帯するのに便利。
菊桐金錠(きくきりきんじょう)
竹流金(たけながしきん)と違って、こちらは丸ごと与えられた。
こちらは平の家臣ではなく、大名クラスの褒賞用サイズですね。
どちらにも菊(きく)と桐(きり)紋(もん)が刻印されている。
金塊なのに着物の小紋のような素敵な柄入り。考案した人はオシャレな人だったようですね。
その桐(きり)の紋ゆえに豊臣秀吉が鋳造した秤量金貨(ひょうりょうきんか)と推定されたようだ。
そして、菊紋は完成品に刻印される印だったと造幣局の説明にはあった。
しかし、その紋は、正確に言えば五三桐(ごさんのきり)と十六葉菊(じゅうろくようぎく)なのである。これは織田信長の使用した家紋の中の二つにあたる。
左1番目が十六葉菊(じゅうろくようぎく。右2番目が五三桐(ごさんのきり)
竹流金(たけながしきん)は永禄(1558年~1570年)、元亀(1570年~1573年)、天正(1573年~1593年)時代の頃、豪族や大名らが、備蓄の軍用金として鉄砲や火薬など武器の支払いや、人を雇う時などの賃金として使う目的でストック。時に武功をあげた家臣の恩賞などにも利用されていた金竿らしい。
※ 平の家臣には一削りとか? 今日はたくさん削ってもらえて嬉しい・・とか? かな?
まさしくそれは織田信長(1534年~1582年)の時代にピッタリあてはまる
オシャレな人だったらしいから、ひょっとしたら織田信長が最初に考案したのではないか? と考えが及ぶ。確証は何も無いけどね。
秀吉の金配りと鉱山開発
秀吉はいろんな物を信長から継承しているので竹流金(たけながしきん)のルーツが信長にあった可能性はあるが、菊桐金錠(きくきりきんじょう)のような重量の固定されたナゲットは秀吉の頃からかもしれない。
何しろ、秀吉は何かとこれら金を大名や家臣(配下の武将)や朝廷の貴族らに配りまくっているからだ。※ 有名な話では、1589年(天正17年)に身分のあるセレブおよそ300人に大判5000枚を配ったと言う「金賦り(かねくばり)」という催しがあったとか・・。
それらは秀吉の下に彼らをひれ伏させる事は当然、秀吉の行う事業を円滑にする為の文字通り試金石(しきんせき)になったのだろう。
それにしてもそれら金はどこから来たのだろう?
なぜ、秀吉はそんなに金持になったのか?
太田牛一が書かされた秀吉の軍記物「大かうさまくんきのうち(太閤様、軍記の内)」の一説。
「太閤秀吉公御出世より此かた、日本国々に、金銀山野にわきいで・・・」
太閤秀吉公の世になってから日本各地で金銀が山から湧くように掘り出されるようになった。
※ 太田牛一は織田信長の記録「信長公記(しんちょうこうき)」を書いた人である。それ故に秀吉により白羽の矢が立ったのである。
秀吉は全国の鉱山開発を進めたのだろう。おそらく鉱脈を見つける技(わざ)を知っていた?
「秀吉は山の者を使っていた」と読んだ記憶がある。山の者が鉱脈を見つけて秀吉に報告していたのなら納得。山野を歩く山伏などは植生で鉱脈を探りあてると聞くからね。
かくして、鉱山開発が進められると、そこは直轄領とされ、全ての金、銀、銅は秀吉の元に集まるシステムが造られたのだ。
秀吉の後に天下を取った徳川家康は、秀吉のシステムのほとんどをそのまま踏襲している。
鉱山ばかりでなく、金貨に至ってもほぼ同じ物が造られている。
次に紹介する法馬金(ほうまきん)も秀吉が最初に造ったものである。
但し、江戸時代の金貨は幕末に向かう程に金の含有量が減らされて行くのである。財源不足で・・。
資料は造幣博物館から
豊臣秀吉が天下を取って、スケールが違うなと驚いたものがある
次に紹介する超巨大な法馬金(ほうまきん)である。
法馬金(ほうまきん)(分銅金)
上は徳川時代に造られたもののレプリカだが、形は計測用の分銅に同じである。
大事な事を紹介し忘れていたが、前回、両替秤用分銅で紹介した後藤四郎兵衛家であるが、分銅のみならず、金の造作(大判造りなど)も後藤家が行っていたのである。
※ 後藤家繭型分銅(ごとうけまゆがたふんどう)について書ています。
リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局
後藤四郎兵衛家は室町幕府の時代から御用達彫金師として刀剣の装飾など織田信長にも仕えている。
いつの頃から大判の造作に携わったのかははっきり解らなかったが、秀吉と言うよりは、やはり信長の時代あたりからかもしれない。
後藤家は豊臣方についた事から当初徳川にじゃけんにされるが、許しをもらい、徳川の時代も大判の製造を続けている。
つまり大判小判の製造は幕府直営ではなく、民間企業による委託生産だったと言う事だ。
※ 江戸に出たのは後藤四郎兵衛家ではなく分家? の後藤(橋本)庄三郎らしい。
因みに、江戸の後藤家屋敷には敷地内に小判の験極印を打つ後藤役所が併設されていた。その屋敷跡が現在の日本銀行本店がある中央区日本橋本石町2-1-1らしい。
法馬金(ほうまきん)(分銅金)は
大判1000枚で造られた千枚分銅金(約165kg) と
大判2000枚で造られた二千枚分銅金(約330kg) と言う巨大な金塊「大法馬金」と
重さ375gの「小法馬金」とがある。
※ 現存しているのは「小法馬金」のみ。
重さではサイズ感がわからないかもしれない。正確に計っていないが、「小法馬金」は最長部6cmくらい。「大法馬金」は最長部38cmくらい。
法馬金は何に使ったのか?
大法馬金の表には「行軍守城用勿用尋常費」の文字が鋳込まれている。
戦争となり、城を守ったり戦に出る時の軍資金であり、通常は使ってはいけない。・・と言う意味で、非常用の備蓄金と言う事のようです。
確かにこのビックサイズであれば容易には盗めないですしね。
最初に秀吉が造らせた事から太閤分銅金(たいこうふんどうきん)とも呼ぶようだ。
大阪城にはこの大法間金が積み上げられていたらしい。でも現存は一個も見つかっていない。
一方、小法馬金の方は結構見つかったらしい。
ふと、思ったのであるが、徳川埋蔵金、みんなは小判だと思っているが、もし大法馬金であったなら、地中探査レーダーだけでは見つからないのでは? 金属センサーも併用しないとね。
もう一つ秀吉が造った大判金貨を紹介。とてもきれいです。
天正菱大判
上が表
現存は5~6枚と言われるこの大判もまた後藤四郎兵衛家の作品。
無名の大判に埋め金して量目を調整してあるそうだ。
墨字で十両(量目)と記され、その下に製造責任者の署名と花押(かおう)(サイン)がされている。さらにその下に菱形の中に入った五三桐(ごさんきり)の印が押されている。
金の品位が740/1000ですからK18(75.0%)に近いですね。
下が裏
秀吉の黄金趣味
豊臣秀吉は、何かと言えば金を使用する。よほど好きだったのだろうと思われているが、確かにとんでもなく金が産出されて黄金三昧になれば、金でいろいろ造ってみよう・・と言う気にもなるのかもしれない。
いろんな物を黄金で作ったと聞くが、珍しい物として外国人に紹介されているのが金の茶室である。
秀吉の金の茶室を再現した部屋が大阪城の西の丸庭園の迎賓館にありました。
見るからにこれは造りがチープですが、黄金の茶室は運搬可能な組み立て式の移動式茶室だったようです。看板にはGolden Tea Ceremony Room (Chashitsu)と書かれてました。
黄金三昧とは、ちょっと成金的ではありますが、法馬金を見てちょっと考えが変わりました。
法馬金はいざと言う時に削ったり切り取ったり、あるいは全部溶かして利用する資金です。同じ事が金の茶釜にも言えるのかもしれない。いざとなったら茶釜だって戦費に変われるのです。
金は永遠に再生可能な物質なのですから・・。
蔵の中でずっと眠っている法馬金よりも金の茶釜はみんなの目を楽しませてくれる。金の茶釜も金の茶室も贅沢と言うより話のネタ? 単純に秀吉の遊び心? だったのかもしれないなーと・・。
因みに金は物質的に何の作用も無い金属ですから、金の茶釜で点てたお湯を使った茶は混じりけの無い茶そのものの味がしたはずです。
鉄分を補う意味でも使われた鉄の茶釜の湯で入れたお茶とはやはり味が違ったはずです。
茶の味を味わうより黄金を愛でて飲んだ茶の方がやはり美味しかったのでしょうけどね
総じて思ったのは秀吉が金が大好きだったと言うより、金を利用して宣伝効果をあげていたと言う方が真理なんじゃないのか? と言う事です。
まあ、金が嫌いな人はいないと思いますけどね
さて、次回は「大阪天満の造幣局 2」で現在のコイン製造を紹介予定です。
リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局
リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場
リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話
秀吉関連として豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様の隠居した寺
リンク 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)
リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転
リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
リンク 秀吉の墓所(豊国廟)
リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1
リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)