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カテゴリ:歴史の旅
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前回、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)が帝国の再統一を目指し戦闘をおこなっていた時に歴史的パンデミックが発生。野望は断念せざる終えなかったと言う所まで紹介。 542年~543年頃からエジプトで発生した疫病は地中海世界に蔓延。東ローマ帝国にも到達し帝国の人口の半数近くを失うダメージを受けている。 エジプト、パレスチナはローマ帝国の穀倉地でもあったから、農作物の生産さえ滞る事態で、街からパンは消え食糧難による飢餓も発生した。 疫病の進行ペースは現代よりは遅いにしても、時間をかけて欧州全土に蔓延していく。60年は続いた? とされている。 ※ 実はそれだけではなかった事も判明。 パンデミック以前に、ユスティニアヌス1世はイタリア半島と北アフリカの異民族統治の属州を奪還、再征服の途中にあった。 西ローマ帝国の失われた領土を全て回復するべく腹心の部下ベリサリウス将軍の活躍はすさまじかった。 ※ フラウィウス・ベリサリウス(Flavius Belisarius)(500年/505年 ~565年)ユスティニアヌス1世の為に何度も頑張ったのに帝の嫉妬で不遇な生涯を送っている。) ユスティニアヌス帝の評価はこの再征服にある。 しかし、ベリサリウス将軍がいなければ無理だったかもしれない。 勢いに乗った才能ある軍師がいたからこその勝利だったのではないかと思う。 実際、帝の後を継いだユスティヌス2世(Justinus II)の代で先帝の拡大した領土はあっと言う間に奪われてしまったからだ。 以降、ローマ帝国は縮小の一途をたどる。 ユスティヌス2世(Justinus II)(520年~578年)(在位:565年~574年,578年) ユスティニアヌス1世の甥であると同時に妻はテオドラ王妃の姪である為に息子のいなかった伯父ユスティニアヌス1世の後帝位を継いだ。しかし、彼は有能ではなかった? ササン朝との戦争で北アフリカをロンゴバルトとの戦いで再びイタリア半島の大部分を失うとユスティヌス2世はショックのあまり? 精神に異常をきたしたと言う。 ※ その為にユスティヌス2世の娘婿ティベリウス2世(Tiberius II) (520~582年)は義父ユスティヌス2世の代わりに574年頃から副帝として政務についていた。(在位:574年,578年~582年) ユスティヌス2世は自分を攻めたのかもしれない。 フォローするなら、部下にめぐまれなかった事はもとより、疫病の発生や地震による影響があったのだろうと思われる。 さて、今回は衰退して行くローマ帝国の続きですが、前回予告したように「地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話し」もあります。これは交易において重大な事件なのです。 しかし関係する海賊の写真はほぼ無いので、ローマ帝国時代のトルコの遺跡アフロディシアス(Aphrodisias)とイタリアのアマルフィ(Amalfi)から持ってきました。 トルコのアフロディシアスは、エフェソスの近くにありますが、あまり紹介されていないので。 ※アマルフィ(Amalfi)のおまけはイスラムのミックスした建築です。 しかし、その前に今回も最初はアルマ・タデマの作品からローマの祭りについて・・。 アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊 セレアリアの祝祭(festival of Cerealia) タイトルは春(Spring)となっていて、実際内容はメーデー(May Day)に子供たちが花を集めるビクトリア朝時代の慣習を表現。それを古代ローマ帝国時代の春に行こなわれていたポピュラーな祭りであるセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)に例えた絵画となっている。 が、そもそもCerealia(セレアリア)は穀物の女神セレス(Ceres)の事。 彼女はローマ神話に登場する12人の最高神であるディー・コンセンテース(Dii Consentes)のメンバーの1人。 ※ ディー・コンセンテースとは、ギリシャの神々ではオリンポス12神(Olympus 12 God)の事。 穀物神である女神セレス(Ceres)のセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)は4月中旬から下旬までの7日間開催されていたらしいが、詳細はわからない。 古代ローマの政治家にして博物学者であるプリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)(23年~79年8月)はこれら置き換え(translatability)について「nomina alia aliis gentibus(他の国の他の名前)」と表現している。 おもに宗教、神学、神話において、元来異種なものを「無理くり」地元神と関係性を持たせて、地元に根付かせる。的なやり方である。 カリアの町はローマの帝国の軍人ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix)( BC138年~BC78年)が、デルポイ(Delphoi)の神託を受けてBC82年「アフロディーテ神殿に斧と金の冠を奉納」した事から、以来アフロディシアスの名で呼ばれるようになる。 オデオン(odeon)音楽堂
マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世同様にユスティニアヌス1世の治世後半は気の休まる時が無かったと言う波乱の時代だったかもしれない。 アフロディシアスには彫刻家の学校がヘレニズム時代後期から存在し、5世紀の東ローマ帝国時代までは盛況だった? らしい。技術のある職人が育ち、また寄って来ていた事もあったのだろう。 ユスティニアヌス1世以降は東ローマ帝国自体が変容してもはや今までのローマ帝国では無くなった。・・と言うのが大きな理由の一つだと思う。
これはもうローマ帝国ではないだろう!! と私もツッコミたくなる。 アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へ しかし、ヘラクレイオス1世はそれを好まずギリシャ語で「主権者(sovereign)」を意味するバシレウス(Basileus)と称している。それはギリシア語の君主の称号を意味。 そしてその称号は以降の東ローマ(ビザンチン)帝国で800年間使用される事になる。
それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になった。 先の事を踏まえると、もはや東ローマ(ビザンチン)帝国自体も以前のローマ帝国では無くなっていたが、かつての西ローマ帝国領は、まだ東ローマの直轄領としてイタリア半島にも残っていたのだ。 そもそも西ローマ帝国で皇帝がないがしろにされていたのはローマ教皇の力が強かったからに他ならない。 ※西ローマの皇帝制が解体された時、付随する軍隊も当然消滅している。危機の時は本家の東ローマ(ビザンチン)帝国がフォローしなればならなかったのだが・・。 だからその時になって、ローマ教皇側は慌てて自衛の道を探る事になった。
イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海 サラセン(Saracen)の海賊 中世のローマ帝国側ではイスラム教徒の海賊達をサラセン人(Saracen)と呼んでいた。 本当はアラブ民族でも砂漠に住むベドゥインを指したワードだったらしい。 北アフリカにいた彼らベルベル人やムーア人はイスラム教徒となり、海賊を生業(なりわい)にしたからだ。 古代ローマの時代の北アフリカでは牡蠣の養殖や大規模な生け簀で魚も養殖していたらしい。 また大規模農園が広がるローマ帝国の重要な穀倉地帯でもあったのに、彼ら新たなイスラムの住人は農業など見向きもしなかったらしい。(そう言う仕事は得意ではなかったのだろう。) アルジエリアとチュニジアは7世紀末には完全イスラム化。中世を通じて海賊の一大基地に成り上がったと言う。 サラセンの海賊が常用するのはガレー船の中でも小型のフスタ(fusta)。 帆柱は1本、船の長さと同じくらいに大きな三角帆。 漕ぎ手は16人~20人。船頭に漕ぎ手と戦闘要員を合わせても40人程度の乗員。 そんな彼らの海賊行為はまさに行き当たりばったり。地中海の島々や、後にフランス南岸やイタリア半島に密(ひそか)に忍びより、村人をさらい、食糧など奪い逃げる。 組織化された海賊ではないが部族単位? そんなのが無数にいて、地中海の島々や後にフランス南岸、イタリア沿岸は彼らのターゲットとなるのである。 村々では自衛の為に「サラセンの塔(Torre Saracena)」と呼ばれる見張塔を建てる事になる。 それで彼らが忍び寄るのを監視したのであるが、フランスやイタリア沿岸の海岸腺に沿って無数に建てられていたのだからいかに酷かったか・・を物語っている。 今も地中海沿岸にはそれら塔が残っていたりする。 下はイタリアのアマルフィから 見張塔 トッレサラチェーノ(Torre Saracena)の跡である。 アマルフィの街は840年頃に作られたと言うが、すでに当時は海賊に侵略されていた防衛の痕跡がある。 アマルフィ(Amalfi)の街はそもそも絶壁に建っているが、他の島や沿岸の村々でも、みな高台に居を構えるにいたったのである。当然、襲われにくいし、逃げられやすいように・・。 決して風光明媚(ふうこうめいび)などと言う事情ではなかったのだ。 イスラム教徒は、オセロのように世界をイスラム教一色に変える為に戦いを拡大して行く。 「右手に剣、左手にコーラン」がスローガン。 「誤った教えを信仰する異教の信徒に対して、武力を持って(強制時に)改宗させる。」それこそが彼らの言う「ジハード(jihād)」だった。 ところで、サラセン人の海賊行為も後にビジネスライク(businesslike)な変化を遂げる。※ イスラム法学上のジハードは、まさにこの異教徒との戦闘を意味するそうだ。 また、それを達成する為にはどんな手段であっても問題無しとされた。 アマルフィ(Amalfi)の街から アマルフィ大聖堂(Duomo di Amalfi)聖アンデレに献堂されたのでサンアンドレア聖堂(Cattedrale di Sant'Andrea)とも呼ばれる。 987年頃、マンソネ(Mansone)公爵によって建てられたと言う。 入口の門の写真のみウィキメディアからかりました。 Xにクロスした十字架で殉教したのでそれが聖アンデレ(Sant'Andrea)の象徴となっている。 景観が人気のアマルフィ海岸であるが、そもそもこんな土地だから耕地は無い。輸出に向けられる特産品も無い。だから彼らは海に出て行くしかなかった。 アマルフィはイスラムの攻防の後に海洋都市国家に成長して行く。 土地は少ないのにイタリアを代表する4つの海洋都市国家の一つにまでなったのである。 イスラムと渡りあえる海上戦力が役にたったのだろう。 海賊に侵略されていた過酷な時代があったとは、今の人は思いもよらないだろうが・・。 拉致した人々は当初は奴隷として売り飛ばされていたが、新たに身代金を取ると言うビジネスが生まれたのだ。 身代金は身分の高い者からだけでなく、都市全体も対称となった。 街や村の回りを荒らし回り、彼らを散々脅してから退去をほのめかしお金を受け取る。 シチリアの守備の堅かったシラクサまでもが身代金を払って退散の取引をしていると言う。 彼らサラセン人も海賊であげた収益の一部を上納していたからだ。つまり、正規のイスラム軍ではなく、彼らサラセン人の場合は、聖戦に関係なく、単純にビジネス海賊だった? と言える。 シチリア島もシラクサを除いてイスラムに略奪された。965年に全島が陥落すると都はパレルモに移される。そうなると彼らの次の狙いはイタリア本土。 シチリアを拠点に襲って来るのだから皆戦々恐々。アマルフィだって対岸の近くだ。 そしてついにイスラム軍はローマにまで達するのである。 そんな時代だから地中海で遠くに船を出す事さえ危険でできなくなった。 共和制から帝制初期のローマ帝国で行われていた大型輸送船による大規模な物流などすでに夢幻(ゆめまぼろし)? キリスト教徒側からしたら危険な地中海での交易は消えたに等しい、 だが、イスラム側からすれば地中海でのキリスト教徒を対象にした誘拐略奪行為自体が地中海交易の目玉であったと言える。 これは落ちか? せっかくなのでアマルフィの写真を追加しました。 ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂 実は大聖堂の建築にイスラム建築の影響が見られるのです。実際、アマルフィはイスラムの支配を受けた事はないはずなのですが・・。 それはまるでイベリア半島のムデハル様式のようなミックス? なのです。 教会横の鐘楼は、そもそもイスラム教のミナレット(Minaret)のようです。 ※ イスラム教の礼拝の呼びかけをするアザーンが流される塔。 マジョルカのタイルで装飾されているらしい。 タイルを使うのはそもそもスペインだものね。イタリアならガラスのモザイクが本当。 教会の工事をしていない状態の時の正面写真。逆光だし、カメラの解像度も悪いのであしからず。 増築されてチャンポンなのは解るが・・。 やはりモスクの跡を改築したように見えてしまう。 もっともシチリア島でイスラム文化が育っていたのでブームはあったらしいが・・。 天国の回廊(Chiostro del Paradiso) ロマネスクのようでロマネスクでも無い。 以前アルカサルの所で紹介していましたが、 ムデハル(mudejar)様式 はイベリア半島がレコンキスタ(Reconquista)された後に育った特殊な融合文化です。 それはイスラム教徒の建築様式にキリスト教の建築様式が融合された特異なスペインの建築スタイルです。 ※ キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動がレコンキスタ(Reconquista)です。 そもそもムデハル(mudejar)とは、イスラム教徒を指すワードです。 レコンキスタされ、イスラムの国からキリスト教の国に変わった後も、改宗して土地に残った元イスラムの人々をスペインではモリスコ(Morisco)と呼んでいました。 その元イスラム教徒の職人達(モリスコ)の技術がいかされて、キリスト教の様式と融合。ムデハル様式(イスラム的要素のある様式)が生まれたようです。 それは単純な「文化の融合」ではなく、ムデハル達の職人技術の上に成り立つ様式なのだそうです。 それが、シチリアでも育っていたのかもしれません。 さすがにイタリア全土には及ばなかったかもしれないが、シチリアに近い地中海の湾岸部ではそうしたモリスコ系のムデハルのデザイナーや職人がたくさんいたのかも知れない。 参考にヌォーバ門(Porta Nuova)紹介実際、シチリアのバレルモにあるヌォーバ門(Porta Nuova)は確実に影響が出ています。 どう見たってムーア人にしか見えません。 1535年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が隣接するノルマンニ宮殿(Palazzo dei Normanni)に入城する記念に建築されたらしい。 そもそも、何で門柱にムーア人像を取り付けたのか? 理解できません。魔除け? ※ カール5世(Karl V)(1500年~1558年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I) 神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年) スペイン国王(在位:1516年~1556年) エマヌエル通りの終点に位置する。観光の目玉らしいが、これを見て皆は何を思う? さて、今回も長くなりましたが、実質のローマ帝国はここで終わりとします。 が、11世紀から始まるキリスト教徒側の反撃? 西ローマ側だった者らによるエルサレム奪還の十字軍の遠征。西側はそのどさくさで東ローマ(ビザンチン)帝国を滅亡に導いている。 次回は、海洋都市国家の予定ですが、伏線として「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」の説明を「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」に入れてます。 リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人 Back number リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal) リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador) リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world) リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs) リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊 リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia) リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa) アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは) リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road) リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞) リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2023年09月23日 04時40分53秒
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