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2021年04月07日
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カテゴリ:歴史の旅
星ラストにBack number追加しました。スマイル
​​​​​​​​​​​​​​

前回、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)が帝国の再統一を目指し戦闘をおこなっていた時に歴史的パンデミックが発生。野望は断念せざる終えなかったと言う所まで紹介。​
542年~543年頃からエジプトで発生した疫病は地中海世界に蔓延。東ローマ帝国にも到達し帝国の人口の半数近くを失うダメージを受けている。
エジプト、パレスチナはローマ帝国の穀倉地でもあったから、農作物の生産さえ滞る事態で、街からパンは消え食糧難による飢餓も発生した。
疫病の進行ペースは現代よりは遅いにしても、時間をかけて欧州全土に蔓延していく。60年は続いた? とされている。しょんぼり
※ 実はそれだけではなかった事も判明。

​パンデミック以前に、ユスティニアヌス1世はイタリア半島と北アフリカの異民族統治の属州を奪還、再征服の途中にあった。​
​西ローマ帝国の失われた領土を全て回復するべく腹心の部下ベリサリウス将軍の活躍はすさまじかった。​
※ フラウィウス・ベリサリウス(Flavius Belisarius)(500年/505年 ~565年)ユスティニアヌス1世の為に何度も頑張ったのに帝の嫉妬で不遇な生涯を送っている。)

星ユスティニアヌス帝の評価はこの再征服にある。​
しかし、ベリサリウス将軍がいなければ無理だったかもしれない。
勢いに乗った才能ある軍師がいたからこその勝利だったのではないかと思う。

実際、帝の後を継いだユスティヌス2世(Justinus II)の代で先帝の拡大した領土はあっと言う間に奪われてしまったからだ。​
以降、ローマ帝国は縮小の一途をたどる。​

ユスティヌス2世(Justinus II)(520年~578年)(在位:565年~574年,578年)
ユスティニアヌス1世の甥であると同時に妻はテオドラ王妃の姪である為に息子のいなかった伯父ユスティニアヌス1世の後帝位を継いだ。しかし、彼は有能ではなかった? しょんぼり

星ササン朝との戦争で北アフリカをロンゴバルトとの戦いで再びイタリア半島の大部分を失うとユスティヌス2世はショックのあまり? 精神に異常をきたしたと言う。
※ その為にスティヌス2世の娘婿ティベリウス2世(Tiberius II) (520~582年)は義父ユスティヌス2世の代わりに574年頃から副帝として政務についていた。(在位:574年,578年~582年)

ユスティヌス2世は自分を攻めたのかもしれない。
フォローするなら、部下にめぐまれなかった事はもとより、​疫病の発生や地震による影響があったのだろうと思われる。​​​

さて、今回は衰退して行くローマ帝国の続きですが、前回予告したように「地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話し」もあります。これは交易において重大な事件なのです。
しかし関係する海賊の写真はほぼ無いので、ローマ帝国時代のトルコの遺跡アフロディシアス(Aphrodisias)とイタリアのアマルフィ(Amalfi)から持ってきました。

トルコのアフロディシアスは、エフェソスの近くにありますが、あまり紹介されていないので。
※アマルフィ(Amalfi)のおまけはイスラムのミックスした建築です。
しかし、その前に今回も最初はアルマ・タデマの作品からスマイルローマの祭りについて・・。


アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊

​​​​​セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)
祭りと舞台劇
シンクレティズム(syncretism)
アフロディシアス(Aphrodisias)
​ローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世
アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へ
東ローマ帝国と 元 西ローマ帝国領の関係
ローマ教皇とカール大帝
イスラム教徒の海賊​に荒らされる地中海
サラセン(Saracen)の海賊
ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂

セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)
春(Spring) 1894年  油彩 179.2cm×80.3cm

画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)
J. Paul Getty Museum, Los Angeles
完成まで4年を費やしたと言うタデマの作品の中でも人気の作品。
絵画の中のモデルはタデマの家族や友人達だそうだ。​​​​​

当初、ドイツの銀行家Robert von Mendelssohnが購入。
1895年ロイヤルアカデミー、1899年ベルリン、1900年にはパリ万国博で展示され複製画が大量に売れたらしい。
作品は人気と相まって? なのか? 不思議にも所有者が転々と変わっている。


タイトルは春(Spring)となっていて、実際内容はメーデー(May Day)に子供たちが花を集めるビクトリア朝時代の慣習を表現。それを古代ローマ帝国時代の春に行こなわれていたポピュラーな祭りであるセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)に例えた絵画となっている。

が、そもそもCerealia(セレアリア)は穀物の女神セレス(Ceres)の事。
彼女はローマ神話に登場する12人の最高神であるディー・コンセンテース(Dii Consentes)のメンバーの1人。
※ ディー・コンセンテースとは、ギリシャの神々ではオリンポス12神(Olympus 12 God)の事。

穀物神である女神セレス(Ceres)のセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)は4月中旬から下旬までの7日間開催されていたらしいが、詳細はわからない。

​​
祭りと舞台劇
ところで、祭りと言えば演劇がつきものである。セレアリアの祝祭にもBC175年以降、演劇が含まれていたらしいが、神に奉納する演劇のルーツはもちろん古代ギリシャである。
古代ギリシャでは演劇は神事に欠かせない捧げ物としてディオニューソス神の祭りから始まったとされる。
以前、古代ギリシャと古代ローマの劇場の違いに触れた事があるが、古代ギリシャの劇場にはステージに祭壇が付いていて、ディオニューソス神に敬意を表する儀式から開始され、神に犠牲の動物を奉納するのが伝統であったそうだ。

演目は当初は悲劇が中心。後に喜劇やサテュロス劇が加わるが、劇場で神々の物語や後に陥落した街の悲劇も演じられるようになった。​
※ 演じたのは男性であるが、女性のキャラクターも後に登場してくる。

星口承で伝わっていた話を、文字に起こし、神々や英雄らを体系的に整理したのが叙事詩人ヘシオドス(ēsíodos)(BC700年頃)が最初と言われているが、個々の神や英雄の詳細は、後世の詩人の創作力による所が大きい? 神事で創造され演じられたギリシャ神話も多かろう。

上はアフロディシアス(Aphrodisias)から出土した女神?  「悲しみの仮面」を持っている。劇場に置かれていたものかもしれない。

解らないのはなぜ古代ローマ帝国がギリシャの神々をローマに翻訳したのかである。
確かにギリシャの文化を継ぐエトルリア文化をもってローマ帝国は建国されているけれど・・。

シンクレティズム(syncretism)
古代ギリシャのオリンポス12神(Olympus 12 God)をはじめとする神々は対応するように古代ローマ帝国ではローマの最高神ディー・コンセンテース(Dii Consentes)として置き換えられている
因みに、先の穀物のローマの女神セレス(Ceres)は、ギリシャではデーメーテール(Dēmētēr)である。

ギリシャ神話とローマ神話の中身が同一だと子供の頃から不思議に思っていたが・・。​​

古代ローマの政治家にして博物学者であるプリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)(23年~79年8月)はこれら置き換え(translatability)について「nomina alia aliis gentibus(他の国の他の名前)」と表現している。

これは単に名前をラテン語に置き換えただけではない。神話や図像さえも自分たちの神と同一化? 同一視? して文化に取り込んでいるのである。
「その神様はうちの国ではこう呼ばれているのですよ。」的な事だ。
つまり最初からそうであったようシンクロ(同期)させちゃっている?
いや? 迎合か?
星文化が違うのだから、当然相異するべき信仰を、しかも矛盾するようなものまでも混合して結合する。と言う荒技でギリシャの文化に乗っかっちゃっているのである。

※ 最も全ての宗教でそれができる訳ではないがたいがいの国は後から来た宗教との折り合いを付ける為にしばじば使用されてきた技かもしれない。

おもに宗教、神学、神話において、元来異種なものを「無理くり」地元神と関係性を持たせて、地元に根付かせる。的なやり方である。
これがシンクレティズム(syncretism)である。

​ローマがそれをしたのは意図があっての事か? 
今回交易で調べていて「ローマの市民権」の下地に「ギリシャの市民権」を借りてベースにしている事などを見ると、もしかしたら古代ローマ人はギリシャ文化を尊厳していたからなのかもしれない。

「寄らば大樹の陰」か?  「先祖は一緒」としたいのか? 
もしそれが正しいなら逆に潔(いさぎ)良い真似方かも・・。​ぽっ

​​​​
アフロディシアス(Aphrodisias)
トルコ南西部エフェソスにほど近いアフロディシアス(Aphrodisias)は、BC3世紀に築かれたアフロディーテ(Aphrodītē)神殿を中心にBC2世紀頃に急速に形成された古代ローマの都市群の遺跡がある所。
​世界文化遺産に登録されている。​


アフロディーテ(Aphrodītē)神殿

BC1世紀のイオニア式神殿 13×8本の円柱を持つ。神域自体はBC3世紀にはあったとされる。

東ローマ(ビザンツ)時代はカリア地方の大主教が置かれアフロディーテ神殿はキリスト教の教会に転用されていた時期もある。
※ シチリアのアグリジェント(Agrigento)の神殿も教会に転用されてましたね。ぽっ

星カリアの町はローマの帝国の軍人ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix)( BC138年~BC78年)が、デルポイ(Delphoi)の神託を受けてBC82年「アフロディーテ神殿に斧と金の冠を奉納」した事から、以来アフロディシアスの名で呼ばれるようになる。​

スッラは共和制期末のローマ帝国内で、民衆派の内乱を粛正。その奉納の年に独裁官に就任する。
デルポイの神託の効力は本当にあったと言う事か? 

スッラの後、まもなくローマは共和制から帝制に移行する。
この街は以降ローマと関係が深まり大きく発展。ジュリアス・シーザーの頃に街も建て替えられたのかもしれない。
特権が彼と帝制ローマの初代皇帝アウグストゥスに与えられている。

※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス」の中、「リュディア王国とデルポイの神託」でアポロン神殿を載せています。デルポイの神託は本当に人気があったようです。
リンク ​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス

​​​
下は一応アフロディーテ(Aphrodītē)と言うことになっているが、本来はカリア地方で祀られていた地元神だったようだ。

この土地はアッシリア人により始まっている。
ヘレニズム期に歴史の表に出て来た時はエフェソスと同じようにギリシャ的な街造りがされている。

アフロディーテ(Aphrodītē)はギリシャのオリンポス神の一柱。ローマ帝国ではウェヌス(Venus) 美の女神ヴィーナスである。
ここに、先に紹介した神様のシンクロ(同期)が行われているのであるが、そもそもアフロディーテでもなかったようだが・・。

 円形劇場(Theater)
ヘレニズム期に造られた劇場は山の斜面が利用されている。
聴衆席、半円形舞台(オーケストラ)、舞台の3部構成になっていて、ローマ帝国時代になると、都市の名士の為に半円形舞台の中に特別席がもうけられるようになる。

※「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス」でエフェソスの劇場も紹介していますがエフェソスの方が規模は大きい。
リンク ​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス

※ 初期の頃「音楽堂と野外劇場と​競技場と闘技場​」について少し紹介しています。
リンク ​古代ローマの円形劇場 1 (ギリシャとローマの違い)

奧に見えるのはアゴラ(Agora)。 集会場や市場などの商業地区である。
​​​

オデオン(odeon)音楽堂
小規模な劇場である。会議場として造られたのかも。

スタジアム(stadium)
他の遺跡ではなかなか見られないほぼ完璧なスタジアムが見学できる。
地中海域では一番良い状態のものらしい。
262m×59m トラックのサイズ 225 m (738 ft) × 30 m (98 ft).
30000人収容
スタジアム内の石の残骸は、かつて地震で劇場が失われた後、ここを一部改装して劇場を造った跡らしい。

テトラパイロン(Tetrapylon) 門
かつては、街は城壁で囲まれて4つの門があったのかもしれない。3つの門と書いている人がいるがテトラ(Tetra)と言うのだから4つのはず。
この門は街のメインストリートの北に位置するので古い時代の北門か? と思ったが東門らしい。
街はさらに拡大している跡が空撮でわかるので、すでに門ではなく、街のモニュメントと化していたのかも。


メインストリート
度重なる地震で修復はままならず、最後は放棄? ポンペイと違った事情で保存されたのである。
この遺跡は割と良く残っている方である。
共和制ローマの時代から最終的に14世紀までアフロディシアス(Aphrodisias)は辛うじて存続したが、やはり衰退のきっかけは度重なる地震の影響かと思われる。

ウィキペディアには7世紀初めの地震となっているが、トルコの地震の歴史から見ると該当する巨大地震は以下3件。
262年のアナトリアの西と南の海岸に起きた震度9の地震。
※ エフェソスの街の多くが倒壊している事からご近所のこちらも同じレベルと考えられる。

526年のアンティオキアを中心にした震度8の地震。
​​​​


​​​557年のコンスタンティノポリスで起きた震度10の地震。
※ 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノポリスは完全倒壊していたらしい。


※ 550年の地図をベースに書き込みました。

星557年と言えば先にも紹介した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年-565年)の治世である。前回紹介したよう、542年~543年頃、歴史的パンデミック(pandemic)が起きたばかりである。
立て続けに557年の巨大地震では、再征服など行けるわけがない。

マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世同様にユスティニアヌス1世の治世後半は気の休まる時が無かったと言う波乱の時代だったかもしれない。​​​

​​
星ところでアフロディシアス(Aphrodisias)の街の繁栄は近隣での大理石の採掘にあった
同時に彫刻でもローマ帝国内でカリアの彫刻師は評価が高く、石のみならず、彫像も小アジアの属州や帝国の各地に輸出される交易品だったのだ。

どこかの壁面に組み込まれていた? と思われる巨大パーツの彫刻。
改めて「手彫り」なのだと思うと凄い作品です。

​​アフロディシアスには彫刻家の学校がヘレニズム時代後期から存在し、5世紀の東ローマ帝国時代までは盛況だった?  らしい。技術のある職人が育ち、また寄って来ていた事もあったのだろう。
完成、未完成の大理石の彫像や石棺がアフロディシアスには埋もれていたのである。

前回「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」で紹介した「ロリカを付けたアウグストゥス帝」の大理石の彫像もアフロディシアスの工房作品だった可能性が極めて高い。
​リンク ​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック​​

​​​
​ローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世
栄耀栄華(えいようえいが)を極めたローマ帝国はいつのまに消えたのだ? と思っていたのは私ばかりではないだろう。
ローマ帝国の歴史はユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)あたりでだいたい終わっている。
正式に東ローマ帝国が滅亡するのは1453年。まだ900年弱残っているのにだ・・。
1453年の滅亡の時はすでに歴史の主役では無くなっていたからまさにフェードアウトして行った感のある終わり方である。

滅亡するまでの間に何があったのか? 
これを説明するのは確かに容易ではないし長い歴史を細かく説明するのは無意味かと思う。
私流のザックリ解説です。ぽっ

ユスティニアヌス1世以降は東ローマ帝国自体が変容してもはや今までのローマ帝国では無くなった。・・と言うのが大きな理由の一つだと思う。​


ユスティニアヌス朝もユスティニアヌス1世を除いて以降ろくな皇帝は出なかった。
強いて言うなら次の朝を築いたユスティニアヌス1世の縁戚、ヘラクレイオス1世(Heraclius)(575年頃~641年)(在位:610年~641年)は特筆しなければならない皇帝だ。
※ 彼はクーデタを経て帝位に就いている。

​​ヘラクレイオス1世が帝位に就いた時は前回紹介したようユスティニアヌスの時代に発生した疫病がパンデミックとなり60年にわたって流行していたし、先に紹介している557年にコンスタンティノポリスで起きた震度10の地震の影響で人口が激減していた。


※「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中「ユスティニアヌスの黒死病」で書いています。
リンク ​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック

​​壊滅した帝都コンスタンティノポリスの再建で莫大な費用がかかっていたし、属州だって同じくパンデミックと地震の影響で壊滅状態。穀物の生産もままならなかっただろう
国庫は財政破綻の状態であり、当然軍事力も低下していた。


そんな時にサーサーン朝ペルシアに襲撃され大事な穀倉地であったシリア・パレスティナを、次いでエジプト・アナトリアを占領されローマ帝国の権威が失われる事態が起きる。​​

​​​一度は絶望したヘラクレイオス1世であるが627年にニネヴェの戦いでサーサーン朝に勝利、翌628年に自らサーサーン朝の首都クテシフォンへ侵攻し、結果サーサーン朝は滅亡する事になる。
​​​​が、勝利の向こうで、次の強敵、イスラム教を信仰するアラブ人の勢力がシリアへの侵攻を開始していた。

636年、自ら軍を率いるがヤルムークの戦いでアラブ人に敗戦。シリア・パレスティナを今度は別の敵に奪われる事になったのだ。
※ シリア・パレスティナを失った事はローマ帝国にとって非常に大きな痛手となった。

星このイスラム教を信仰するアラブ人の勢力こそが、中世期のキリスト教国を苦しめる最大の敵となる​のである。​

話しはヘラクレイオス1世に戻って、
抵抗むなしく帝国領土を減らす事になった皇帝ヘラクレイオス1世であるが、それ以上の功罪が彼にはある。彼の治世に公用語をラテン語からギリシア語へ切り替えたのだ

星公用語はラテン語」と言うのはローマ帝国のアイデンティティ(identity)であったと言える。

もはやローマ市民のローマ帝国ではなくなり、ギリシア人のローマ帝国?  になってしまったようなもの。

これはもうローマ帝国ではないだろう!! と私もツッコミたくなる。
この時点で「ローマ帝国は終わった。」と言うのも確かに、致し方無いのだ。しょんぼり


​​アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へ
アウグストゥス(Augustus)は、ラテン語で「威厳者」または「尊厳者」を意味する歴代のローマ皇帝の称号のひとつ。
初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)以降ローマ帝国の皇帝を示す最高の称号であった。
​​

​しかし、ヘラクレイオス1世はそれを好まずギリシャ語で「主権者(sovereign)」を意味するバシレウス(Basileus)と称している。それはギリシア語の君主の称号を意味。​

そしてその称号は以降の東ローマ(ビザンチン)帝国で800年間使用される事になる。

ローマ帝国がローマ帝国でなくなった決定打かもしれない。号泣



東ローマ(ビザンチン)帝国と 元 西ローマ帝国領の関係
前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中で以下に紹介している。
東西の皇帝は等しく同等の権限を有し、東西いずれかの皇帝が没した時は残り一方の皇帝が東西の両地を統治する事が決められていた。​​​​​

​それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になった。​

​​476年、軍人オドアケルがクーデターを起こし西ローマ帝国の皇帝制は解体された。この時、西ローマ帝国は実質滅亡した。

​先の事を踏まえると、もはや東ローマ(ビザンチン)帝国自体も以前のローマ帝国では無くなっていたが、かつての西ローマ帝国領は、まだ東ローマの直轄領としてイタリア半島にも残っていたのだ。
※ イタリア半島でもローマやラヴェンナ、地中海域にはシチリア島やサルデイーニャ島など。

下は717年、東ローマの直轄領の販図。かつての規模のローマ帝国はもう無い。驚く程縮小されている。
地図はウィキメディアのを借りて若干構成を変えました。

​​​そもそも西ローマ帝国で皇帝がないがしろにされていたのはローマ教皇の力が強かったからに他ならない。
しかし、ローマ教皇は軍隊を持たない。
それはこれから起きるイスラム教徒の侵略に対して絶望的な事態を招いた
のである。

※西ローマの皇帝制が解体された時、付随する軍隊も当然消滅している。​危機の時は本家の東ローマ(ビザンチン)帝国がフォローしなればならなかったのだが・・。

いざ危機となり、ローマ教皇は再三助けを求める手紙を送っても、ローマがまさに襲われた時でさえ東ローマ(ビザンチン)側は軍隊さえ送ってくれなかった。​​

もっとも東ローマ(ビザンチン)側にもそんな余裕はなかったのだ。だからイタリア半島のみならず、地中海域の警備もがら空きの空白を生んでいた。​

​​だからその時になって、​ローマ教皇側は慌てて自衛の道を探る事になった​
因みにこの時の恨みは後に東ローマ(ビザンチン)が滅亡する時の因縁となる。


​​ローマ教皇とカール大帝
星
教皇に応(こた)えてくれたフランク王国のカール(Karl)王(742年~814年)に大帝の称号を与えたのはまさにローマ教皇の感謝であったが、同時に神聖ローマ帝国と言う新たなローマ帝国の樹立は東ローマ(ビザンチン)帝国との縁切りを示していたと思われる。

カール(Karl)大帝=シャルルマーニュ(Charlemagne)大帝 ​神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年
写真はウィーン王宮内宝物館で撮影
北方蛮族でしかなかったフランク族であるが、カトリックに改宗したのはどこよりも早かったと言う。
ローマ教皇レオ3世(Leo III)(750年? ~816年)(教皇在位:795年~816年)はカール(Karl)王率いるフランク族の軍事力に賭けたのだ。
フランク王国の覇権は北はドーヴァー海峡、南はピレネー山脈。東はライン川を越えてエルベ川に達していた。イタリアではロンゴバルト族を南伊に排除し勢力を拡大していた。

カール王はローマ教皇レオ3世により「神聖ローマ帝国の皇帝」に任ぜられた。
つまりかつてのローマ帝国に変わり、カール大帝はキリスト教国である西欧の国を守る大任を教皇からまかされたのであった
。​
もっとも二人の死後、再び戦乱となるが・・。


以前、ザルツブルグのザンクト・ペーター修道院の所で「カール大帝の文教政策」について書いています。軍才だけでなく、考え方においても、統治者としても、ただ者ではなかった。びっくり
リンク ​ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)

イスラム教徒の海賊​に荒らされる地中海​
​​​​​622年~750年に至るイスラム帝国の販図  ウィキメディアから借りたものに書き込みしました
7世紀に入ってイスラム教徒の勢力が拡大。時代的に先に紹介した東ローマの直轄領の販図に重なる時代です。

ローマ帝国の力が弱まってくると北から、東からゲルマン民族が流入し戦いが続く。
すでにイスラム正規軍?はイベリア半島を手中にしピレネーまで越えようとしていたし、中東やアフリカはイスラム化してその彼らは盗賊や海賊となってまずは地中海から欧州への侵略が始まったのである。

星同時に各地で起こる侵略者との戦いにローマ帝国の軍隊は足り無かった。
もはや東ローマは自身の帝都も危ぶまれる事態であり、かつてのように地中海の警備もままならず、地中海は盗賊の思いのままに荒れ放題と化す。​
※ ローマ帝国が安泰していた時代は帝国の海軍が地中海交易の安全を確保していた。

ローマ帝国による地中海の警備がいつの頃からか? 消えた。
地中海域でのかつての大規模農園は中世まで多少残るには残ったらしいが、輸送途中でイスラムの海賊に襲われる事も・・
北アフリカのイスラム教徒は誰もが盗賊となって地中海に繰り出した。
人を人と思わない誘拐に近い略奪。それは聖戦の名の元に彼らは正当化した。

地中海域の島や沿岸(フランス南岸やイタリア半島)では多くのキリスト教徒のローマ市民が連れ去られ、売られイスラムの奴隷として生涯を終えるなどと言う暗黒時代を迎えたのである。

中世初期から中世に至る暗黒の時代(Dark Ages)とはまさにイスラム教徒の侵略によるキリスト教徒の苦難を指している。​​​​



サラセン(Saracen)の海賊
中世のローマ帝国側ではイスラム教徒の海賊達をサラセン人(Saracen)と呼んでいた。
本当はアラブ民族でも砂漠に住むベドゥインを指したワードだったらしい。
北アフリカにいた彼らベルベル人やムーア人はイスラム教徒となり、海賊を生業(なりわい)にしたからだ。

星古代ローマの時代の北アフリカでは牡蠣の養殖や大規模な生け簀で魚も養殖していたらしい。
また大規模農園が広がるローマ帝国の重要な穀倉地帯でもあったのに、彼ら新たなイスラムの住人は農業など見向きもしなかった
らしい。(そう言う仕事は得意ではなかったのだろう。)​
アルジエリアとチュニジアは7世紀末には完全イスラム化。中世を通じて海賊の一大基地に成り上がったと言う。​

サラセンの海賊が常用するのはガレー船の中でも小型のフスタ(fusta)。
帆柱は1本、船の長さと同じくらいに大きな三角帆。
漕ぎ手は16人~20人。船頭に漕ぎ手と戦闘要員を合わせても40人程度の乗員。

そんな彼らの海賊行為はまさに行き当たりばったり。地中海の島々や、後にフランス南岸やイタリア半島に密(ひそか)に忍びより、村人をさらい、食糧など奪い逃げる。
組織化された海賊ではないが部族単位?  

そんなのが無数にいて、地中海の島々や後にフランス南岸、イタリア沿岸は彼らのターゲット
となるのである。

​村々では自衛の為に「サラセンの塔(Torre Saracena)」と呼ばれる見張塔を建てる事になる。​
それで彼らが忍び寄るのを監視したのであるが、フランスやイタリア沿岸の海岸腺に沿って無数に建てられていたのだからいかに酷かったか・・を物語っている。

今も地中海沿岸にはそれら塔が残っていたりする。
​下はイタリアのアマルフィから   見張塔 トッレサラチェーノ(Torre Saracena)の跡である。

アマルフィの街は840年頃に作られたと言うが、すでに当時は海賊に侵略されていた防衛の痕跡がある。

アマルフィ(Amalfi)の街はそもそも絶壁に建っているが、他の島や沿岸の村々でも、みな高台に居を構えるにいたったのである。当然、襲われにくいし、逃げられやすいように・・。
決して風光明媚(ふうこうめいび)などと言う事情ではなかったのだ。

イスラム教徒は、オセロのように世界をイスラム教一色に変える為に戦いを拡大して行く。
「右手に剣、左手にコーラン」がスローガン。
​​「誤った教えを信仰する異教の信徒に対して、武力を持って(強制時に)改宗させる。」それこそが彼らの言う「ジハード(jihād)」だった。
※ イスラム法学上のジハードは、まさにこの異教徒との戦闘を意味するそうだ。
また、それを達成する為にはどんな手段であっても問題無しとされた。

アマルフィ(Amalfi)の街から
アマルフィ大聖堂(Duomo di Amalfi)聖アンデレに献堂されたのでサンアンドレア聖堂(Cattedrale di Sant'Andrea)とも呼ばれる。

987年頃、マンソネ(Mansone)公爵によって建てられたと言う。
入口の門の写真のみウィキメディアからかりました。

Xにクロスした十字架で殉教したのでそれが聖アンデレ(Sant'Andrea)の象徴となっている。




景観が人気のアマルフィ海岸であるが、そもそもこんな土地だから耕地は無い。輸出に向けられる特産品も無い。だから彼らは海に出て行くしかなかった。
アマルフィはイスラムの攻防の後に海洋都市国家に成長して行く
土地は少ないのにイタリアを代表する4つの海洋都市国家の一つにまでなったのである。
イスラムと渡りあえる海上戦力が役にたったのだろう。

海賊に侵略されていた過酷な時代があったとは、今の人は思いもよらないだろうが・・。


ところで、サラセン人の海賊行為も後にビジネスライク(businesslike)な変化を遂げる。
​拉致した人々は当初は奴隷として売り飛ばされていたが、新たに身代金を取ると言うビジネスが生まれたのだ。​
身代金は身分の高い者からだけでなく、都市全体も対称となった。

街や村の回りを荒らし回り、彼らを散々脅してから退去をほのめかしお金を受け取る。
シチリアの守備の堅かったシラクサまでもが身代金を払って退散の取引をしていると言う。
彼らサラセン人も海賊であげた収益の一部を上納していたからだ。
つまり、正規のイスラム軍ではなく、彼らサラセン人の場合は、聖戦に関係なく、単純にビジネス海賊だった? と言える。
​​​
シチリア島もシラクサを除いてイスラムに略奪された。965年に全島が陥落すると都はパレルモに移される。そうなると彼らの次の狙いはイタリア本土。
シチリアを拠点に襲って来るのだから皆戦々恐々。アマルフィだって対岸の近くだ。
そしてついにイスラム軍はローマにまで達するのである。

星そんな時代だから地中海で遠くに船を出す事さえ危険でできなくなった。
共和制から帝制初期のローマ帝国で行われていた大型輸送船による大規模な物流などすでに夢幻(ゆめまぼろし)? キリスト教徒側からしたら危険な地中海での交易は消えたに等しい、

だが、イスラム側からすれば地中海でのキリスト教徒を対象にした誘拐略奪行為自体が地中海交易の目玉であったと言える
これは落ちか? ぽっ


せっかくなのでアマルフィの写真を追加しました。​​​
ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂
実は大聖堂の建築にイスラム建築の影響が見られるのです。実際、アマルフィはイスラムの支配を受けた事はないはずなのですが・・。
それはまるで​イベリア半島のムデハル様式のようなミックス? なのです。​

教会横の鐘楼は、そもそもイスラム教のミナレット(Minaret)のようです。
※ イスラム教の礼拝の呼びかけをするアザーンが流される塔。

マジョルカのタイルで装飾されているらしい。
タイルを使うのはそもそもスペインだものね。イタリアならガラスのモザイクが本当。
教会の工事をしていない状態の時の正面写真。逆光だし、カメラの解像度も悪いのであしからず。しょんぼり
増築されてチャンポンなのは解るが・・。
やはりモスクの跡を改築したように見えてしまう。
もっともシチリア島でイスラム文化が育っていたのでブームはあったらしいが・・。



天国の回廊(Chiostro del Paradiso)

ロマネスクのようでロマネスクでも無い。

以前アルカサルの所で紹介していましたが、
ムデハル(mudejar)様式 はイベリア半島がレコンキスタ(Reconquista)された後に育った特殊な融合文化です。
​​それはイスラム教徒の建築様式にキリスト教の建築様式が融合された特異なスペインの建築スタイルです。​
※ キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動がレコンキスタ(Reconquista)です。​

そもそもムデハル(mudejar)とは、イスラム教徒を指すワードです。​
レコンキスタされ、​イスラムの国からキリスト教の国に変わった後も、改宗して土地に残った元イスラムの人々をスペインではモリスコ(Morisco)と呼んでいました。​
その​元イスラム教徒の職人達(モリスコ)の技術がいかされて、キリスト教の様式と融合。ムデハル様式(イスラム的要素のある様式)が生まれたようです。​

それは単純な「文化の融合」ではなく、ムデハル達の職人技術の上に成り立つ様式なのだそうです。​
それが、シチリアでも育っていたのかもしれません。
さすがにイタリア全土には及ばなかったかもしれないが、シチリアに近い地中海の湾岸部ではそうしたモリスコ系のムデハルのデザイナーや職人がたくさんいたのかも知れない。

実際、シチリアのバレルモにあるヌォーバ門(Porta Nuova)は確実に影響が出ています。
​​​参考にヌォーバ門(Porta Nuova)紹介
​​​
どう見たってムーア人にしか見えません。
1535年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が隣接するノルマンニ宮殿(Palazzo dei Normanni)に入城する記念に建築されたらしい
そもそも、何で門柱にムーア人像を取り付けたのか? 理解できません。魔除け?ぽっ

※ カール5世(Karl V)(1500年~1558年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)
 神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年)
 スペイン国王(在位:1516年~1556年)

エマヌエル通りの終点に位置する。観光の目玉らしいが、これを見て皆は何を思う?


さて、今回も長くなりましたが、実質のローマ帝国はここで終わりとします。
が、11世紀から始まるキリスト教徒側の反撃?  西ローマ側だった者らによるエルサレム奪還の十字軍の遠征。西側はそのどさくさで東ローマ(ビザンチン)帝国を滅亡に導いている。

星次回は、海洋都市国家の予定ですが、伏線として「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」の説明を「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」に入れてます。
リンク ​モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人


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    アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊

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リンク ​ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
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Last updated  2023年09月23日 04時40分53秒
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