544247 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

盲腸妊婦の日々。blindtarmsinflammation

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
January 16, 2006
XML
カテゴリ:阪神大震災
震災で高校はしばらく休校になり、自宅待機の状態が続いていました。

毎日毎日、テレビの速報で、犠牲者の数が増えていくのを、
そしてよく知っている場所が惨状となってしまったのを見ていました。

テレビを消しても、家の外に出たら、同じようなものでした。

水道も止まったままで、お風呂に入れないのは辛かったです。
母と弟と一緒に、電車に乗って銭湯に行った事もありました。
最寄り駅まではかろうじて電車が通じていたので、それに乗って大阪へ行きました。
電車の窓から見える光景は、今でも忘れられません。
何棟も倒壊したマンション、家々。ブルーシートで屋根を覆っている半壊の家。
それも、大きな川を越えると、景色が一変しました。
そこには、何事もなかったような風景が広がっていました。
地震の活断層の上にあった神戸。それを改めて知らされた気がしました。

しばらくして、自衛隊が配っている飲料水を貰いに弟の小学校へ行く機会がありました。
そこで、ボランティアをしている人々と知り合い、
なんとなく、私もボランティアの人たちと一緒にいさせてもらうようになりました。
高校も休校中だし、家にいてもすることがなく、
「ボランティアの受付係をやってよ。」と言われ、毎日通う事になりました。

私の通っていた避難所は、体育館に大勢の人が避難していました。
1月の寒い中、体育館の床にダンボールをおいて、
その上に壊れた家から持ってきた布団や毛布を敷いていました。

避難所に届く救援物資は、最初の頃は人数分もなく、
常に足りずに家族単位で配ったりしていました。
毎食のお弁当は冷たいものでした。お茶も水も冷たいままでしたから、
温かいものが欲しいといつも言われていました。

しばらくすると、全国の人々からたくさんの救援物資が届くようになり、
理科準備室が物資の貯蔵庫になりました。

どんなものが救援物資として届いたかというと・・・

天井まで届くほどの大量のカロリーメイトから、人生ゲームなどのおもちゃ、
手紙を書く人用にと、切手、それから衣料品などです。

また、温かい炊き出しのボランティアとして、縁日の夜店を引っさげてきてくれる団体もありました。

2月になると、バレンタインにとチョコレートも届き、それも配った思い出があります。
その頃になると、最初の頃とは比べ物にならないくらい、
意外にも物資は充実していたのです。

避難所に集まったボランティアの人々は、全国各地から集まった
大学生だけでなく、被災者の人も一緒になって避難所の運営管理をしていました。

地震当日から数日は、避難してきた人々もパニック状態でしたし、
ボランティア自体もまだ形になってないので、どうしていいのかわからない、
まとまりのつかないものだったと思います。

しかし、数週間もすると、何が必要で何がいらないのかも
だんだんわかってくるようになりました。

ボランティア任せだった避難所が、被災者中心に移行していくようになりました。

その時、ボランティアのメンバーの一人の人が、

「ボランティアっていうのは、一から十まで手取り足取り何でもやってあげるって事じゃない、
被災者が自分たちでやっていけるまでのお手伝いなんだと思う。」

そう話してくれました。

このような信念というか、理念を持って活動していたためでしょう、
この避難所は、市内でもボランティアが撤退するのが早かったときいています。

その後のボランティアメンバーですが、この震災をきっかけに、
大学卒業後、福祉や介護の仕事を選んだ人も多く、
現在それぞれ全国各地で頑張っています。

また、ボランティア同士で結婚した人もいました。

震災がなければ、出会えなかった人たち。
未曾有の災害は、とてもとても悲しい出来事でしたが、毎日泣いていたわけでもなく、
笑ったり、楽しい事もあったのも事実です

それは、私自身が被災しながらも、家族や友人をなくしたり、
家を失ったりしたわけではないからかもしれません。

けれども、私にとって、1月17日はやはり辛い記憶の、
悲しい日である事には変わりありません。

今でも、あの日あの時間、たくさんの人が苦しんで、
また、生きながら焼かれて亡くなったんだという事を思うと、
胸が苦しくて苦しくてどうしようもなくなります。

色んな人生があったことでしょう。
親をなくしたこども、こどもをなくした親、家族、恋人、友人、親戚・・・。
すべて大切な人だったに違いありません。

私も11年たった今、結婚してこどもを持つ親になって、
もし、今同じように地震がきたら、娘を守ってやれるだろうか、
と考えるようになりました。

どうしようもない時というのは、確かにあります。
そして、あの大震災は、その、どうしようもない出来事だったと思います。

どうしようもない時でも、人はどうにかしようとするものです。
起こってしまった事の中で、出来る事をしようとします。
そうやって、乗り越えていくのだと思います。

阪神大震災から11年後の今、まるで震災があったなんて分からないように町は復興しました。
私の実家の周りも、倒壊した住宅街は更地になり、
その後区画整理され、新しい家が建ったり、大きなショッピングセンターができたりしました。
そんな復興して変わっていく町並みを「よかった」と思う一方で、
震災前の懐かしい町並みにはもう戻る事はないのだという寂しさもあります。

でも、すべては変わっていくのですね。そして、少しずつ、忘れていくのだと思います。

蛇口をひねると水が出る事も、電気がつく事も、今となっては当たり前の事で、
何とも思わない自分がいるのも事実です。

忘れてはいけない事でもあり、忘れていく事もまた、必要な事だと思います。
そうやって、悲しい気持ちに整理をつけていくもの、そう思います。

色々な思いをもって、明日を迎えたいと思います。

ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  January 16, 2006 11:48:22 PM
[阪神大震災] カテゴリの最新記事


PR

Category

Archives

April , 2024
March , 2024
February , 2024
January , 2024
December , 2023

Rakuten Card


© Rakuten Group, Inc.