週刊《ひとりごと》第68号(2020/7/12~7/18)
第68号(2020/7/12~7/18)今回の御法話は、神崎修生先生(浄土真宗本願寺派)のYouTubeチャンネル《神崎修生の寺子屋チャンネル》より、《思い通りにならないことを経験したくはない。しかし、、、【今日の言葉】》です。《一切皆苦》苦とは、思い通りにいかないコト。2020/7/12《(仏願の生起本末を)疑い無く聞け》昨日の久保龍雲先生(浄土真宗本願寺派)のツイートより…↓浄土真宗の聴聞について「真剣に聞かないといけない」という僧侶もいれば、「てれーっと聞いて、あとで忘れてもいい」という僧侶もいます。どっちが正しいと思いますか? ・実はこれ、どっちも言葉が足りていません。・真剣でもてれーっとでもいいので、正しくは「疑い無く聞く」のです。・合掌・ちなみにこの「疑い無く聞く」ですが、なんでもかんでも疑い無く聞くわけではありません。・聞くべき内容は仏願の生起本末です。・ですので法話者は当然、仏願の生起本末を正確に説くべきです。・ですが現実としては不正確な法話もありますので、そこは聴聞する側が慎重に見極める必要があるでしょう。↑(当方の意見)…坊様によっては、・「阿弥陀様は念仏申せと仰ってナイ」(浄土真宗本願寺派)とか…・「阿弥陀様を信じるコトができないと気づかされるのが浄土真宗」(真宗大谷派)とか…・それぞれ、実名は伏せておりますが…せっかく、ドチラの坊様も「仏願の生起本末」を説いてはおられるのですからして…orz2020/7/13《やはり歎異抄は危険な書物》本日の久保龍雲先生(浄土真宗本願寺派)のツイッターにて、↓たまに「お聖教について本を書いてほしい」といわれることがあります。その時思うのが「歎異抄については書けない」ということ。なぜなら歎異抄はまだ原本が見つかっていないんですね。写本しかない。歎異抄の解説書を出す僧侶は多いですが・・・もし原本の内容が違ったらどうするんでしょうか?・私であれば、読者に対して責任が取れないので、解説書は書きません。せいぜい「参考としてこんな文章もありますよ」と紹介する程度です。歎異抄の美文は有名で、どうともとれる文章も多いため、解説するには都合が良く、近代教学の僧侶達も多用しましたが。・また(歎異抄の著者とされる)唯円には、未信だったという説もあり、教義的に見ておかしな文章が散見されます。資料としても内容としても、布教のメインに使うには厳しいものがあります。・浄土真宗の教えを正確に伝える上では、歎異抄のような危ういものを使う必要は特にありません。それよりも、例えば覚如上人の改邪抄のように、教えの要点をおさえたものが他にあります。布教に歎異抄を使おうという人には、上記の点を考えて頂ければと思います。南無阿弥陀仏↑(当方の意見)当方、《歎異抄》からは親鸞聖人の仰った箇所を上げてはおりますが。・唯円大徳が未信だった説が有力ならば、Wikipediaは《歎異抄》の項にも…↓親鸞思想との相違点歎異抄は書名が示すように、当時の真宗門徒たちの間で広がっていた様々な異説を正し、師である親鸞の教えを忠実に伝えようという意図の下で著されたものである。しかしながら、親鸞の著作から知られる思想と、歎異抄のそれとの相違を指摘する学者も多い。たとえば仏教学者の末木文美士は、唯円の思想はある種の造悪無碍の立場を取っているとし、これは親鸞の立場とは異なるとする。・唯円は歎異抄において、阿弥陀仏の本願を盾に悪行をおこなう者に対して、忠告は行なっているが、彼らの往生は否定せず、かれらも確実に浄土に往生できるとする。しかしながら、親鸞は書簡にも見られるように、どのような悪しき行いを為しても無条件に救済されるという考えは採っておらず、そのような念仏者の死後の往生については否定的な見解を述べている。↓『めでたき仏の御ちかいのあればとて、わざとすまじきことどもをもし、おもうまじきことどもをもおもいなんどせば、よくよく、この世のいとわしからず、身のわるきことをもおもいもしらぬにてそうらえば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかいにもこころざしのおわしまさぬにてそうらえば、念仏せさせたまうことも、その御こころざしにては、順次の往生もかたくやそうろうべからん。』(親鸞聖人御消息集(広本)(三))2020/7/14《絵系図=光明本尊》昨日(2020/7/13)のひとりごとの続きになりますが…覚如上人の《改邪抄》から…↓(2)一 絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。それ聖道・浄土の二門について生死出過の要旨をたくはふること、経論章疏の明証ありといへども、自見すればかならずあやまるところあるによりて、師伝口業をもつて最とす。これによりて意業にをさめて出要をあきらむること、諸宗のならひ勿論なり。いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とするうへに、三業のなかには口業をもつて他力のむねをのぶるとき、意業の憶念帰命の一念おこれば、身業礼拝のために、渇仰のあまり瞻仰のために、絵像・木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す。しかのみならず、仏法示誨の恩徳を恋慕し仰崇せんがために、三国伝来の祖師・先徳の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。その ほかは祖師聖人(親鸞)の御遺訓として、たとひ念仏修行の号ありといふとも、「道俗男女の形体を面々各々図絵して所持せよ」といふ御掟、いまだきかざるところなり。しかるにいま祖師・先徳のをしへにあらざる自義をもつて諸人の形体を安置の条、これ渇仰のためか、これ恋慕のためか、不審なきにあらざるものなり。本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。いはんやその余の人形において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止すべし。↑佛光寺派が「光明本尊」を用いて布教しているのを、覚如上人は批判しているのですが…イツだったかも書いたよーに、ひとえに存覚絡みだったのカモ…この意味、わかりますか?(2019/9/15のひとりごとは《存覚上人》(週刊《ひとりごと》第25号:2019/9/15~9/21に収録)を参照のコト。)2020/7/15《山も山さんの《安心問答》は…》最新(2020/7/14)の記事より(《「どうしても私の『思い』からは逃れられません。他力の念仏の称え方と言うのはあるのでしょうか?」(頂いた質問)》)、後半部分を抜粋しまして…↓阿弥陀仏「ただ今助け…」私「私を助けて下さい」阿弥陀仏「ただ今た…」私「どうすれば助かるんでしょうか」阿弥陀仏「ただ今…」私「私の思いから逃れられません」阿弥陀仏「…ちょっと黙って私の声を聞いてくれませんか…!?」・世の中には、人に話をさせない話術をもった人もたまにおられます。丁度そのように、阿弥陀仏のよびかけを遮るように自分の話をカットインしているのが私たちです。これでは、いつまで経っても阿弥陀仏の本願を「聞く」ことは出来ません。阿弥陀仏の声を聞かない私だから「聞きなさい」と勧められるのです。・私の言いたい、聞いてもらいたいを少し横において、阿弥陀仏の言いたい、助けたいを聞いて下さい。ただ今助けるの本願に、ただ今救われます。↑(当方の意見)…いますよね…相手に話をさせないよーに画策するよーな輩(やから)てのは…orz・コレが、複数人で組んで…となりますと、一個人ではどーにもならないとゆー…orz・かくゆー私共は…とか言いますと、同じ事を阿弥陀様に対してやっちまってる始末…orz・今井美樹…いやもとい、今井翼…またもとい、今井ゆうぞう…も、また違いまして…今一度、考え直してみましょーや…自分がやられてイヤだったコト…阿弥陀様に対して(ry南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏《こーゆ時節になりますと…》週刊誌とかでは、烏賊…もとい、如何にも《目の前にキキ&ララ…もとい、危機とか迫ってますよ(サンリオさん、ホントーにゴメンナサイ!)》的な記事がデカデカと表紙に乗っちゃってるのを見ちゃった拍子に、不安になっちゃうのは、信前信後で同じ。・ただし、大本教絡みのサイト様自身が、原発の爆発動画をたれぱんだ…もとい、垂れ流し(サンエックスさん、ホントーにゴメンナサイ!)で恐怖感を煽っておいて、ソレに対する切なるコメントが気に入らなかったら、「建替を望む悪魔の心」などと(ry↑もー何度だって書いてるコトでなありますが…!2020/7/16《うたがい(本願疑惑心)なければ》昨日の久保龍雲先生(浄土真宗本願寺派)のツイートより…↓(念佛寺のツイート)信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候なり(末燈鈔)↑(龍雲先生のリツイート)この『末燈鈔』では、親鸞聖人が〈獲信者は阿弥陀仏の本願に対する疑いが無いため、極楽浄土に往生する身である〉と説いておられます。なお文中の「うたがい」とは本願疑惑心、つまり疑蓋のことです。・これは念仏の教えの要点であり、親鸞聖人だけでなく法然聖人・覚如上人・蓮如上人といった方々が同じ内容を説いておられます。後続の香樹院師や梯実圓師も同様です。・教えの要点はシンプルで、一度それを把握してしまえば、どのお聖教を読んでも大事なところが目に入るようになります。↑(当方の意見)〈獲信者は阿弥陀仏の本願に対する疑いが無いため、極楽浄土に往生する身である〉讃岐の庄松さんが、お聖教を逆さに持って「庄松、助ける。庄松、助ける。」が、まさにそれ!・…それでも、失敗もすれば、後悔もします…煩悩具足の凡夫+火宅無常の世の中なれば、尚のコト…orzモンダイは、(相手に届く届かないは別問題としまして)慚愧の心はあるか?…てコト。2020/7/17《明治以降は…》2020/7/13のひとりごとにも載せました、久保龍雲先生(浄土真宗本願寺派)のツイートに対する無面目さんがツイートを、龍雲先生がリツイートされてまして…↓(龍雲先生のツイート)たまに「お聖教について本を書いてほしい」といわれることがあります。その時思うのが「歎異抄については書けない」ということ。なぜなら歎異抄はまだ原本が見つかっていないんですね。写本しかない。歎異抄の解説書を出す僧侶は多いですが・・・もし原本の内容が違ったらどうするんでしょうか?↑(対する無面目さんのツイート)歎異抄の写本に蓮如さんが「無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり」とありましたっけ。明治以降には近代化の中で、親鸞聖人が何を語ろうとしたのか探るというより、彼に仮託して己の都合を語る感じの人がいた様に思います。もっとも、現代の我々も一歩間違えれば(ry↑(林遊さんのWikiArcより)無宿善の機(むしゅくぜんのき)宿善のない者。仏法を聞く機縁の熟していないひと。真剣に法を聞く気のないもの。・(《蓮如上人御一代記聞書》より)(53)一 御文のこと、聖教は読みちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり。御文は読みちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。(現代語訳)御文章について、蓮如上人は、「お聖教というものは、意味を取り違えることもあるし、理解しにくいところもある。だが、この文は意味を取り違えることもないだろう」と仰せになりました。わかりやすく書かれた御文章は、お慈悲のきわまりです。これを聞いていながら、信じ受け取ることのできないものは、仏法を聞く縁がまだ熟していない人なのです。↑(当方の意見)>明治以降には近代化の中で、親鸞聖人が何を語ろうとしたのか探るというより、彼に仮託して己の都合を語る感じの人がいた様に思います。↑真宗大谷派の《近代教学》のコトですね。戦時中など、暁烏敏大徳が阿弥陀如来と一緒に天照大神を祀ってたとゆーし。・>もっとも、現代の我々も一歩間違えれば(ry↑…はい。実名は伏せますが、とある大谷派の住職は「私達は、自分の心から一歩も出ることができない。」だから「本願疑惑心がなくなったとゆーのも凡夫の思い」みたく…はい。その坊様なんですが…「信心決定が、ヒトサマを攻撃する武器になりかねない。」てゆー意見も、わからなくもナッシングですが…ソレだと《他力信心の定義》とは違うコトでもありまして…・…なんか大谷派に多いポイですね…真宗の教えに対して情熱をもっていながら、おそらくは未信だったらしー坊様が…orz・(蛇足(superfluity))…なんか歴代の《大徳(だいとこ)》と呼ばれる坊様に、ロクな坊様がおられなかったよーに感じるのは、当方だけでしょーか…?・①慈信房善鸞大徳:関東で異義を展開⇒義絶。・②河和田(かわだ)の唯円大徳:実は《未信》だった説。・③暁烏敏大徳:戦時中、阿弥陀如来と一緒に天照大神を(ry・ミーコさんみたく《蛇足》を英語で…思いまして、「蛇足 英語」で検索しますと…↓「蛇足」の翻訳名詞superfluity蛇足, 余計, 冗物, 豪奢, 豪勢, 豪盛redundancy重複, 冗語, 蛇足, 剰語, 冗文, 冗物uselessness無駄, 無益, 蛇足, 冗, 役に立たないことredundance重複, 蛇足, 冗物, 剰語, 冗文, 冗語↑「余計」て意味も入った「superfluity」を、当方チョイスしました…て!《蛇足過ぎ》でした…猛省…!!2020/7/18《ツクろーとしてやめといたおハナシ》山も山さんの《安心問答》は2020/7/14の記事《「どうしても私の『思い』からは逃れられません。他力の念仏の称え方と言うのはあるのでしょうか?」(頂いた質問)》後半部分をベースにしまして(《2020/7/15のひとりごと》御参照のコト!)、《ソクタッヘ王国物語》本編のおハナシを考え出しはしましたが…↓タイトルは《紙芝居に御用心》。・お寺に集まってきたアツキなどの子供達(小太郎に小次郎、花子にケンも)に、御院さんが紙芝居で仏法を説くおハナシ。・その紙芝居の中にに出てくる《阿弥陀様の声を聞かないヒト》は、明らかに《ケン》!しかも《ハンペンみたいな顔》に書かれてて、子供達が《パタリロ&タマネギ部隊よろしく菱形に近いクチ》になっての大笑い。(原作マンガだと、「プラズマX」。TVアニメだと、「スーパーロボット・プラズマX」。)ケンが怒り出して…!↑ここまでのプロットを書いて、ソレに合わせた画像も撮影+編集してはいましたが…途中でコワくなりまして。「信心決定(しんじんけつじょう)が、ヒトサマを攻撃する武器になりかねない」なる教訓のツモリが、それこそ真宗を汚すコトになりかねないと判断した上で、このおハナシ用に撮ってた乃至(ないし)編集してた画像も全て破棄しました。来週(2020/7/26)の《週刊《ひとりごと》第69号》は、2020/7/19~7/25分の記事を纏めて掲載する予定です。