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マックス爺のエッセイ風日記

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2019.02.07
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~古宇利島と本部半島を走る~

           

 平成23年11月の某日、私は再び沖縄へやって来た。67歳の老ランナーは、既にボロボロ状態になっていた。数年前から不整脈の兆候が現れ、この年も夏の猛暑の中で激烈な肉体労働を送ったのだ。そんな体で沖縄へ行く。私は「忘れものは何か」に気づいた。過去の3年間で沖縄本島を一周した気でいたが、本部半島を走ってないのが心のどこかに引っかかっていたのだ。

    沖縄そば

 後年知ったのだが、前妻は当時沖縄に私の恋人がいると信じ、娘にも話していたようだ。確かに私には恋人がいた。だがそれは人ではなく、沖縄そのもの。ここで学び、ここで走り、ここで一時は死ぬことを覚悟しながら、この明るい風土に命を救われた1人のランナー。体に衰えが迫っていることも分かっていた。だから何とか最後の思いを叶えたい。たったそれだけのことだったのだが。

  本部半島  

 これが今回の舞台の本部半島だが、コース(地図の薄茶色)には新しく出来た古宇利大橋と古宇利島も入れた。スタート地点は名護市真喜屋(まきや)。右上のそこまではタクシーに乗り、屋我地島、古宇利大橋を渡り、古宇利島を一周して戻り、今帰仁(なきじん)村へ出、今帰仁城を見学後、半島最北端の備瀬集落~海洋博公園~本部町~名護市内へと反時計回りで帰る遠大なコース。距離は63kmだが、不整脈の発症が心配だった。

    羽地内海

 真喜屋から小島へ渡る。道端に数基のお墓があった。民俗学者仲松弥秋によれば沖縄の各地にある奥武(おお)島は昔から風葬の地で、「おお」は死者を弔う鳴き声だった由。私も4つほど風葬の島を訪ねた。直ぐ左に羽地内海を見ながら屋我地島へ渡った途端、道端にハブの死骸発見。これで2度目だ。青白く長い蛇の姿を打ち消しながら走っていると、途中で道に迷った。

 ライオン岩  

 私が間違って行った先は療養所みたい。恐らくライ病患者専用の病院だったのだろう。何とか道を聞いて、古宇利島方面に向かう。突然道が開け、下り坂の坂の先に「古宇利大橋」が見えて来た。何という長さ。これも沖縄振興の一つ。かつての孤島は、ほとんどが橋でつながっている。橋の左手に岩が見えた。私はその形から「ライオン岩」と名付けたのだが。

    橋と島

 本当の絶景だった。海の色、空の色、前方の古宇利島の丸い形。橋の上からは沖縄本島北部の青い山々が遥かに望めた。対岸は大宜味村の塩屋湾辺りだろうか。島に渡って、ゆっくりと一周した。坂がきつい。橋の竣工でにわか商売の店が多い。琉球王朝時代の「のろし台」があることも分かった。この島の特産はモズク。その養殖場も見えた。意外に時間がかかったのは、体が動かなかったせいだろう。

 うらんだ墓  

 再び屋我地島へ戻り、今度は逆方向の今帰仁村方向へと向かう。新たな橋の手前で急に走れなくなった。どうやら不整脈が起きたようだ。道端で休憩していると「うらんだー墓」の標識があった。これは是非ともみたい。海沿いの小径を行くと墓。「うらんだー」は「オランダ」だが、外国人のこと。幕末期、沖縄へはたくさんの外国船が水と燃料補給のために寄った。たまたま出た死者をこの地に葬ったのだ。

 被葬者はイギリスの船員だった。対岸をみると運天港が見えた。源為朝が昔上陸したと伝わる古来の港。私もかつてその港から伊是名島へフェリーで渡ったことがあった。

  

 これが「ワルミ大橋」。ワルミとは割れ目が訛ったもので、海峡の意味。右上に見えるのが古宇利大橋と古宇利島。ワルミ大橋の上(北)に突き出た小さな半島の先端に、先ほどの「うらんだー墓」があり、その対岸の港が運天港。向かって左側は今帰仁(なきじん)村。そこから本部半島周回コースに入る。私の体と足が、果たしてどこまで持ってくれるのか。<続く>





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Last updated  2019.02.07 00:00:27
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