初恋 /中原みすず
昭和の未解決事件といえば・・・まず1番に思い浮かぶ人も多いであろう「三億円事件」。多数のTVや雑誌で紹介され、小説や映画にもなり、その結果、40年以上も前の事件でありながら、現代に語り継がれることになった「三億円事件」。1968年(昭和43年)12月10日、東京都府中市にて白バイ隊員を装った犯人に、東京芝浦電気工場従業員のボーナス約3億円が積まれた現金輸送車ごと奪われたという事件である。当時の最高額の現金強奪事件と紹介され、策略(非暴力)強奪での成功や、盗まれた3億円が外国の保険会社の補填にて支払われた(直接的に国内で金銭的損失を被った者がいなかった)という事実から、事件はミステリー化の色を一層増し、国内で大騒ぎとなった。目撃者や脅迫状の文面、多数の遺留品から様々な犯人像が浮上したが、単独犯なのか複数犯なのかも不明のまま7年後に公訴時効が成立。空前の大捜査となったが20年後には民事時効が成立し、未解決のまま捜査の幕を閉じた。ミステリーやオカルトが大好きな私は、この「三億円事件」についても興味があり、TVで特集することがあれば見てきたし、関連小説があれば読んだりしたので、わりと詳しいほうだと思うのだが・・・本書を読んで、また新たな解釈を知り、さらに「三億円事件」に興味が沸いた。当時、容疑者として浮上した人物といえば、立川グループの少年S(白バイ警官を父親に持ち、後に服毒自殺を遂げる)が一般的に知られ、その人物をベースにした内容が殆どであるが、この「初恋」では全く別の人物が実行犯として描かれている。それは、なんと高校生の少女。なぜ、少女がこのような事件を見事にやり遂げることができたのか・・・「三億円事件」の醍醐味であるのに、この小説においてはそれほど重要な部分ではないという風なのが面白い。この小説の背景は「三億円事件」ではあるが、本筋はタイトルからもわかるように恋愛小説なのである。しかも純愛である。純愛だからと言って、毛嫌いをするべからず。一読の価値あり。その理由は最後に述べることにしよう。 初恋 中原みすず周囲の反対を押し切って結婚した旧家の父と混血の母をもつ中原みすず。その父が亡くなり、母は兄を連れて家出。ひとり残されたみすずは、親戚の家をたらいまわしにされ、孤独な幼少期を送る。父方の叔父の家に住むようになったみすずだったが、何かにつけて母と同じように忌み嫌われ、全く居場所がないまま高校生に育った。叔父たちの家族の団らんを避けるようにして帰宅時間を遅らせるため、みすずはよく新宿御苑に立ち寄っていた。その日も同じように木陰になった芝生の上にみすずが腰を下ろしていると、ひとりの青年が声をかけてきた。疎ましく思い、言葉も発せず、手で払う仕草をすると青年はその場でみすずを押し倒して暴行。通行人による通報で警察に取り押さえられ、暴行は未遂に終わったが、みすずの心には男性への恐怖心と忌まわしさが残った。そんな事件のあと、みすずは新宿のジャズ喫茶Bに通うようになる。「B」の奥に陣取る不良学生たち・・・亮、岸、テツ、タケシ、ユカと出会ったみすず。どこにも居場所がなかった自分が手に入れた場所、唯一の仲間を得たことで、今まで味わったことのない幸福感を実感する。昭和40年代前半。学生運動が過激に盛り上がる時代。「B」に通いだして2年が過ぎたある日、岸からある計画を持ちかけられる。それは「現金輸送車から金を奪う」事だった。すでに1年前から「B」で知り合った「単車屋のおじさん」という人から、無免許にも関わらず単車や車の乗り方を教えてもらっていたみすず。岸に「乗り方を教えてもらえば?」と言われ、初めは鬱憤晴らしの軽い気持ちで、おじさんが経営しているモータースに通っていたが、次第に夢中になり、運転の腕前もかなり上達していた。そんな運転の技術も買われ、「お前しか頼めない」・・・と岸に言われたみすず。初めて他人に必要とされた喜びは大きかったが、岸の言う「権力への挑戦」、大学で学部長をやっている叔父、傲慢な叔母への憎悪諸々の鬱積したものが背中を押して「やってみる」と承諾した。計画はふたりだけの秘密事として進行。使用する車やバイクの運転、道順の確認などの訓練は、みすずにとって岸との楽しい時間、楽しみの時間となっていた。岸という人物に謎を残しつつも、みすずは彼を信用していた。そして三億円強奪事件は見事、みすずの手によって成し遂げられた。奪った金は岸に渡し、計画通りに全て終わらせたみすず。事件後のお金の行方は気にもせず、みすずは岸と約束した大学受験の合格を目指し、猛勉強を始めた。叔父夫婦には大学に失敗したら見合い結婚をして家を出ていく約束をしていた。しかし合格すれば、あの家を出て大学に通うことができる。そう・・・叔父家族とやっと縁が切れる。そんな時、岸から江の島にある彼の父の別荘へのドライブに誘われる。受験の話や世間話のあと、親友の自殺話、岸の惚れている女の話へと流れていった。自分で好きな女に告白ができないという岸に、私が伝えてあげるよ、と明るく言うみすずだったが、心は動揺し、高ぶる気持ちが嫉妬だと気づく。岸はそんな話をしながらも、みすずにとても優しかった。「男」という疎ましい存在を岸なら変えてくれそうだった。受験勉強があるのだから「B」には暫く行かない方がいい、と岸に言われていたみすず。何カ月ぶりかに訪れてみると、仲間は誰一人も来ていなかった。それぞれの道を歩み始めていた。そして受けた早稲田大学受験。翌月の合格発表の人ごみの中、受験番号を探しているところに岸が声をかけてきた。逢いたかった岸に会えて話したいことは山のようにあったのに、岸はなぜか、江の島で話した自殺したという親友の話をし始めた。一目ぼれした女の相談をもちかけられた時に、好きだったらやっちまえと言って、本当に実行してしまった親友の大村。素朴でいい奴だったが純情すぎた。相手は未成年。東大に合格したことで田舎で有名人になったのが、一転して犯罪者になってしまったのだから、自殺する気持ちもわかるよ・・・。その女の人に事情を話して、自殺したことを伝えたら許してくれるんじゃあないの?岸は悪くないよ、自分を責めるのよしなよ・・・。そんな会話のあと、みすずが家を出る話になり、岸は大学に近い場所で部屋を探しておくと約束。後日、岸が探してくれた新築のアパートへ案内され、何もない6畳部屋で語らうふたり。夢だという世界を放浪する旅に出かけたいと思う岸に、ヒッピーをやめて学生に戻りなよ、どこにも行かないでと言うみすず。遠くを見つめながら、このままふたりで生きようか、と返す岸。しかし問題は亮だなと、岸がつぶやいた。みすずは高校の入学式の日を思い出した。母に連れられて消息不明だった兄が、この日突然現れたのだった。何かあったらここに電話しろ、亮って言えばわかるから。不良の溜まり場だから来るんじゃないぞ、電話くれたらすぐに行くから・・・そう言って、兄はみすずに二つ折りになった紙のマッチを手渡した。マッチには「ジャズ喫茶B」と書かれていた。そのマッチを持って、何度か「B」の前までは行ったが、亮に禁止されていたので中に入ることはできず、みすずは店先でため息をついていた。それを見かけたユカに声をかけられ、初めて「B」に足を踏み入れる。ユカの隣にみすずをみた亮は初めは拒絶したが、亮もみすずも他人のふりを通すことで仲間として過ごすことになった。だから、ふたりの関係を知る者はいなかった、はず。岸は何か知っているのか?引っ越しの日。押入れを開けると段ボールが4個置かれていた。岸の私物であろうと触ることもなく放置していたが、2ヶ月経っても何の連絡もしない岸が心配になり、思い切って閉じたままだった押入れの段ボールを開けてみることにした。中にはおびただしい数の茶封筒。ひとつひとつの封筒には部署と名前が記されており、中身は十数枚の一万円札が入っていた。あの時の金だ。みすずは全ての段ボールの外側に宛先が書かれているのに気がついた。たぶん宛先は岸の実の父親。警察や権力に挑んで手にした戦利品を議員である父親に送りつけようとしている岸の心をくみ取って、みすずはタクシーを呼び、それら全てを郵便局から郵送した。受取人が右往左往する姿を思い浮かべ、その行方がニュースに出ることを待ち続けたが5ヶ月経っても何の報道もはなく、岸からの連絡も途絶えたままだった。やり場のない虚無感に襲われ、紛らわすために薬をかじる。そんな朦朧とした日々の中、突然、テツから電話が入った。「亮が大変だ、今すぐ金を持ってきてくれ」・・・そう告げられて、慌てて病院へ向かうと亮はとりあえず一命をとりとめていた。アパートに戻ったみすずは、段ボールにつけてあった岸からのメモを再び手にした。今どこにいるの?亮が倒れたんだよ・・・心の中で語りかけながら、もう一度目を通す。メモには段ボールの郵送依頼、フランスへの渡航予定、必ず帰るから元気で・・・と最後に、大村を許してくれてありがとうの文字が書かれていた。泣きながら手元にあった睡眠薬と鎮痛剤を飲み、岸が置いていったおんぼろのビートルを引っ張り出し、みすずは新宿に向かうが、事故を起こして2ヶ月間入院することになった。自殺だったといえば、そうだったのかもしれない、とみすず。退院してアパートに戻ると、岸からぶ厚いエアメールが届いていた。消印はローマ。そこには岸の気持ち、亮との関係、岸の家族、事件についての諸々のことが書かれていた。嗚咽し、慟哭。溢れる涙とともに、ずっと心にあった劣等感が流れ出し消えていくのを感じた。2年で帰ってくると言っていた岸からのエアメールは1年も過ぎると、頻繁だった間隔は徐々に開き、インドからの絵葉書を最後に消息が途絶えた。それから14年後、亮が他界。昔の仲間も次々と亡くなってしまった。岸も戻らないまま。本書は、冒頭にも「私は三億円事件の実行犯だと思う」という一言があるように、一人称で書かれている。作者名が登場人物の「中原みすず」と同名を用いているという点で、犯人の告白本というスタンスを貫いているのがわかる。時代背景や、人物像、それぞれの心理がよく描かれているため、もしかして本当の犯人???と思う読者も多いようであるが、これは恋愛小説である。実像ではないと思う。しかし面白かった。回想も多く、複雑な内容も含んでいるわりに、重くなくさらりと読めてしまうのは、無駄な描写がなかったからであろうか。文章は最小限必要なものだけだったように思う。それが良かった。岸から送られてきたエアメールで、この物語の全てがわかるようになっているのだが、それが何ともせつなくて儚い。みすずだけではなくて、岸にとってもこれが「初恋」だったのではないだろうか。さて。・・・その時々のみすずの心境を表わす、文中にあった短歌4点。なかなか秀作。のどぼとけ 切って恋の血 見せようか ひとりがっての 君の背中に差す言葉 貯めし唇 震えおり 熱ばむ夜の 見えない敵に満身の 静脈透けて 我がための 熱き息絶ゆ 結氷期なり振り返る その背の繊く 焼きついて 夏の星座に 君の声聞く<読書の時間>