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2008.02.12
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鹿児島県高校野球界では伝説となっている 甲子園での一戦

1974年全国高校野球 準々決勝 東海大相模VS鹿児島実業 (YouTubu)

1974年(昭和49年)鹿児島大会決勝
優勝候補は剛腕、堂園喜義の鹿児島商(鹿商→広島カープ)。アンダースローから浮き上がる速球を武器に甲子園に2度出場。

堂園の弟が、鹿児島実業に入学していた。兄と同じアンダースローで、堂園対策として、
毎日のように、打撃投手をつとめた。甲子園を目指すためとはいえ、兄を倒すための練習台となった気持ちはどうだったのだろうか?

定岡「堂園を破らずに甲子園はない」と徹底的に走り込み、ストレートの威力をました。

 4回戦で鹿実の正捕手が負傷。これで「組み立てを必死で考えるようになった」と定岡。
延長十三回に及んだ準々決勝の鹿児島玉龍戦は被安打1、完封。同校OBは「速球狙いだったが、カーブをうまく使われた」と敗因を語る。
 そして鹿商との決勝。定岡が「バックネットが近く、観客の興奮が伝わって気持ちが燃えた」と懐かしみ、堂園が「傾斜が滑らかで投げやすかった」と振り返る

県立鴨池野球場のマウンドで両雄が火花を散らす。「2人とも、スラッとした投手らしい体格で際立っていた」。七回 鹿実は無死一、二塁から、送りバントを堂園が三塁へ悪送球した間に先制。
さらに犠飛で1点を加え2―0で完封勝利。
定岡の胸には「甲子園より堂園に勝った喜び」がこみ上げたという。この試合、鹿実は一丸となって東海大相模戦でも見せたバスター打法で堂園を揺さぶった。

「懐かしい、我々もよくバスター打法を練習したものだ。」

「選手が(久保克之)監督の作戦を信じ、一心同体で向かってくる強さがあった」と堂園。
大一番で開花した全員野球が自信となり、東海大相模との「死闘」につながった。
 鹿児島実業のエース、定岡正二。その年の夏の甲子園準々決勝で定岡正二が力投。対するは1年生の原辰徳(現巨人監督)が5番に座る東海大相模(神奈川)。延長十五回、鹿実が5―4で競り勝ち、鹿児島勢初の4強入りを遂げた。
 213球を投げ、18三振を奪った定岡。甲子園で見せた底力は、鹿児島でライバルと
しのぎを削るなかで培われた。

1回戦、2回戦とも「1×0」の完封勝利で勝ち抜き、準々決勝の対戦校は、1年生で3番バッターだった原辰徳を擁する東海大相模。原貢監督との親子鷹としても話題になったチームだ。

 後攻の東海大相模が、9回裏、延長14回裏と、2度も同点に追い付く白熱したゲーム展開となり、名勝負と讃えられた。

特にこの時の、鹿実のセカンドの選手の起死回生のファインプレーには、「超感動」した。
セカンド後方、ライトの手前に上がった、フライをそのセカンドが後ろ向きで飛びついて取った。もし、落球していたら負けていたと思う。

 2回戦までの活躍と、スリムな体型、端正な顔立ちで高まりつつあった定岡人気が、
この試合で一騎にブレイクし 秋のドラフト会議で、定岡は巨人に1位指名され、
さらにその6年後、東海大学の4番打者として活躍した原も巨人に1位指名され入団。二人は巨人の主力選手となり、またもや日本中を熱狂のさせた。

http://www.asahi.com/sports/koshien/column/ano_natsu_list_15.html





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Last updated  2018.09.27 20:05:53
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甲子園 優勝に向けて気張れ高校球児


■■■by MobakagoKagoshima Baseball Club




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