【粗筋】
大阪へ見物に出た若旦那、土産話にしようとやたら書き留めるのだが、それが全て勘違い。
高津を見学して「稲荷の鳥居はみな赤い」といわれ、赤いものを「稲荷の鳥居」というのだと思い込むのを手始めに、千日前の刑場では「頭」を「獄門」と思い、案内人と知人の会話から「上る」を「上京」、「下る」を「下阪」、天王寺では「ぽんぽん石(せき:叩くと亡くなった人の声が聞こえるという)」を見て石のことを「ぽんぽん」、坊さんが「ほォ……ゥ」と言っているのが、「物をくれ」という意味だと次々書き留めた。
村へ帰ると年老いた父親が伜の無事な顔に喜び、「今、柿を食わせてるから」と木に昇ったのはいいが、枝が折れて庭石の上に落ちて血だらけになってしまった。息子は、玄白先生が上方から来られた先生だから、自分で上方言葉の手紙を書くと言い出した。さて、先生のところに手紙は届けられたが……
「何のこんだ……わたくし父、裏なる柿の木へ上京いたし、下阪のみぎりぽんぽんにて獄門を打ち、稲荷の鳥居出で申し候間、よき薬あらば、ほォ……ッ」
【成立】
上方の噺。私は桂文我(3)を聞いたが、東京でも三遊亭圓馬(3)がよく演じていたそうだ。「ほォ……ッ」というのは坊主が物をせがむ時の声。落ちは意味が分からぬ医者の言葉であるが、同じ調子で言ったのだろう。
「江戸見物」という噺は、「赤い物」を「雷門」と言うのだなどと変えたもので、全体の経緯は全く同じであるが、桂小文治以後演じ手はない。落ちは「お家も繁盛」というもので、これは乞食が米銭をねだる時の台詞。この落ちで演じた「上方見物」もあったという。
【一言】
この噺は、徳川時代の田舎の人が都会のものは無条件にいいものだと思い込んでいるところが出ていましてね……、とにかく変った面白い噺ですよ。(飯島友治)
〇 私は上方言葉では演りません。案内人はやっぱり江戸ッ子で、江戸の者が上方へ言って宿屋へ奉公をして番頭になり、これが田舎の人を案内して方々つれてあるくとい筋で演っています。大阪の人は案内人は大阪の言葉で演りますが……田舎者はやはり普通の田舎言葉で演っています。(三遊亭円生(6))
【蘊蓄】
千日前は道頓堀から難波に至る一帯。「ミナミ」という繁華街の一角で、水かけ不動が名高い。高津もこの近くで、仁徳天皇を祀る。天王寺は「鷺取り」にも登場する寺、安芸の楠の鳥居、大和吉野の銅の鳥居と並ぶ日本三鳥居の一つ、石の鳥居がある。