【粗筋】
浪人河村政次に子が生まれたが、貧乏で10文でもいいから欲しいと言い続けて生まれたので十右衛門という名がつけられた。子供の頃から算用に才覚を見せ、江戸へ出ようとして品川へ来ると、盂蘭盆会で供えた瓜や茄子を川に流したのが海に浮いている。漬物にして売って資金とし、芝で人足頭となる。明暦の大火で家も焼けるが、そのまま駕籠を雇って木曽へ急がせ、子供に銭を使った玩具をばらまいて金持ちだと信用させ、全ての材木を買い占める。
芝・増上寺の屋根の鬼瓦が割れたが、足場を組むと屋根全部を取り替えるほどの手間と費用が掛かる。十右衛門は1両でこれを引き受け、凧糸が屋根を越えるようにすると、これに縄梯子を結わえて、職人1人だけで修理を完了。職人の手間、瓦1枚、凧に縄梯子、全て合わせても十分に釣りが来た。これで増上寺の出入りとなり、幕閣の役人につながると、幕府の命運をかけた事業を引き受け、河村瑞賢と名乗るようになった。
娘は学者に嫁がせないと思うが、見込んだのは新井伝蔵という男。三千両と宅地を与えると持ち掛けたが、自分が将来大学者になったら、このわずかな借財が足を引っ張ることになると言う。余計に気に入って、娘とは結婚しなくとも、何かと世話をするようになった。この男が六代将軍に引き立てられて新井白石と名乗り、瑞賢の功績を書物に残した。
瑞賢は元禄12年6月に82歳で亡くなるが、鎌倉建長寺の境内に墓がある。元和から元禄にかけて、大福長者と呼ばれた、河村瑞賢の伝記(おはなし)でございます。
【成立】
藤浦敦作。立川談志が新しい奇人伝を演りたいと相談、藤浦敦がふと思いついて瑞賢のことを話したのがきっかけになり、飯田忠彦「野史」、神沢貞幹「翁草」、新井白石「折たく柴の記」、竹越三又「河村瑞賢伝」、古田良一「河村瑞賢」の資料から抜粋してまとめた。
【蘊蓄】 瑞賢が財産を築いた火事は、明暦3(1657)年1月18日のもの。
この2年前の1月16日、浅草諏訪町に住む大増屋の二十歳になる娘・おきくが恋患いで死んだ。当時の習わしで娘の愛用していた小袖は、葬儀を行った本郷の徳永山本妙寺に納められて古着屋へ売られた。これを買った紙商大松屋の娘・きのが翌年1月16日に二十歳で死に、小袖は再び本妙寺を通して古着屋へ売られた。
これを買った娘が翌年1月16日に二十歳で死に、本妙寺にこの小袖が戻ると、寺でもさすがに気味が悪いというので娘三人の親を呼び出し、これを焼き払うという承諾を得た。ところが火をつけたとたんに、小袖が人間のように立ち上がって飛び出し、たちまち本堂を焼き、折からの風に乗って江戸の3分の2に当たる11万軒が焼け、10万8千人が死んだ。
これが世にいう明暦の「振袖火事」である。江戸は再建のために都市計画が進められ、翌年9月8日には旗本4人、与力6人、同心30人を付けて消防組織が創設された。寺が火元なのに、罰せられなかったことから、放火説も出て、幕府による放火という説まで出ることになる。町火消の俗にいう「いろは組」は1720年の創設。