【粗筋】
大きな仏壇を前に念仏三昧の親父に比べ、若旦那はお花という気立ての良い嫁がいるのに夜毎の茶屋遊び。その嫁のお花が病気で実家へ帰ったが、様態が悪化。大旦那が見舞いに行くが、若旦那は同行を断ったばかりか、大旦那の姿が見えなくなった途端に遊びに出ようとする。番頭が止めると、若旦那は番頭の妾囲いをすっぱ抜くので番頭も文句は言えない。それでも出掛けるのはまずいと、共謀して家へ芸者を呼んで騒ぐということになった。菊江という芸者が呼ばれたが、急だったので白薩摩の単衣に洗い髪という出で立ちで駆けつける。
さあ始めようというところへ帰らぬはずの大旦那が帰ったので、大あわてて菊江を仏壇に隠す。大旦那は、お花が息を引き取ったので仏壇の引出しの親鸞上人の絵姿を取りに戻ったのだ。ところが扉を開くと菊江がいる。
「お花、迷うたか。無理もない。あの極道はかならず真人間にしてみせるから、このまま消えておくれ。南無阿弥陀仏、なむあみだぶ……」
「はい、私もこのまま消えとうございます」
【成立】
文化5(1808)年『難波みやげ』の「ゆうれい」。「白ざつま」「仏壇」とも。明治20年代に三遊亭円右(1)によって東京へ移植されている。何人も聞いたが、桂米朝が親の情を見事に伝えて素晴らしい。享保16年『男色山路露』にある「謡による恋」は、タイトルで分かる通り男同士の恋だが、若衆を仏壇に隠し、親父が弁天かと思ってしまう。
【一言】
いつだったか、多分昭和20年代だが、神田の立花亭で、『菊江の仏壇』を聴いた。これが上方落語をちゃんと聴いた最初の経験だと思う。話の恰好は、例によっていくらかずぼら風で、めりはりがおさまってなかったが、しかしそれでもなんでも結構だった。茶屋遊びの気分、商家の感じ、そうして独特の色気、はじめて小文治を、ただものでない落語家だと思った。そうして同時に、上方落語の長い伝統の重みも感じた。(色川武夫)
●奥の方より「若旦那ァ」と芸者菊江が出て来る。この菊江の姿を一瞬でもお客様に見せることができたら……。(桂小南)
【蘊蓄】
薩摩絣は、紺地に「かすり」を出した平織の木綿布。白地を用いたものを白薩摩という。白い着物にざんばら髪であるから、幽霊と見間違えるのも無理はない。