【粗筋】
寛政年間に佐野山という力士がいたが、大の親孝行で、その母親が病気になったため、食う物も食わずに看病をし、初日から黒星続き。これを見た横綱の谷風梶之助が、千秋楽に自分と佐野山を取り組ませてくれるよう年寄に申し入れる。年寄は全勝の横綱と全敗の佐野山じゃいただけないと思うが、横綱のたっての頼みでは仕方がない。
これを見た江戸っ子達は、「佐野山が谷風の女を取ったから、仕返しに投げ殺すのだ」とか何とかいい加減な噂をしている。谷風は相手にまわしに触れることも許さずに勝ち進んでいるので、佐野山の贔屓達は、右でも左でも一本差したら五両、もろ差しになったら十両をやると激励する。いよいよ当日、両者立ち上がると、ぶつかったとたんに佐野山は足がふらふら。谷風は佐野山の腕を引っ張り込んでもろ差しにさせ、じりじりと後退して土俵を割った。場内割れんばかりの騒ぎ。
「見たかい。佐野山の押しを……よく効いたね」
「押しが効くわけで、名代の親孝行(香々)ですから」
【成立】
講談にある「谷風情け相撲」を委嘱したものか。春風亭柳朝は落ちをつけずに人情噺風に切っていた。金原亭馬生(10)は、必死の声援が泣きそうな顔でおかしかった。現代の話かも多く聞いているが、大相撲で八百長が問題になると、こういうネタもやり辛くなった。講談では神田伯山のを聞いた。
【蘊蓄】
この谷風は二代目で、1789(寛政元)年に横綱を張った名力士。佐野山は実在せず、モデルがあったとも思えない。
谷風梶之助
初代:享保年間(1716~36)の力士。鈴木善十郎、陸奥国出身。
八角楯之助という力士は背が低く力もあったが、低く構えて当たる、ずるい関取だった。立ち会いに待ったをした最初の力士とされる。この待ったを繰り返して谷風を破るが、高松藩のお抱えだった谷風がお暇が出ることとなった。最後の相撲で45人を立て続けに投げ、御前を立ち去るが、その勇壮さに再び召し抱えよとの命令が出たが、二度と戻らなかった(上田秋成『肝大小心録』の138にある)
二代目・本名金子与四郎、陸奥国宮城郡。
柏戸が仙台で興行を行っていたが、米俵4俵を背にしたまま見物している子供に驚き、伊達藩の家老の仲介で弟子にした。貧しい百姓なので、馬がおらず、子供が仙台に運んでいたのだという。秀ノ山として初土俵、1769(明和6)年に達が関、1776(安永5)年に谷風を名乗る。『大相撲評判記』上によれば、身の丈6尺2寸5分(189cm)、重さ43貫目(161kg)とある。安永7年、大阪の力士・小野川喜三郎が21歳で江戸に下り、二段目で10日間勝ち抜き、翌年は7日目に谷風と取り組み、難なく谷風が押し出しで勝った。翌年は8日目に対戦、小野川は谷風の乳の上を両手で雷のごとく叩いて押し立てる。谷風も押し合うが、先手を取った小野川がついに押し出した。この後両者は互角に渡り合ったという。『俗耳鼓吹』では浅草蔵前八幡で1782(天明2)年閏3月28日のこととする。これを詠んだ歌が、
手練せし手をとうらうがをの川やかっと車のわっといふ声 朱楽菅公
谷風はまけたまけたと小野川がかつをよりねの高いとり沙汰 四方赤良
1789(寛政元)年にそろって横綱となった。谷風はどこまでもきれいな相撲を取る小野川がいるから自分も強い相撲と世に認められると述べたという。
寛政3年6月、江戸城吹上御苑で将軍家斉の上覧相撲で対戦、立ち上がり損ねた小野川が気合い負けとなって谷風が面目をほどこしたという。優勝21回、連勝63。風邪によって死亡するが、風邪が「たにかぜ」と呼ばれた。