【粗筋】
鼠小僧次郎吉が博奕に負け、芝汐留め伊豆屋という船宿で一杯やっていると、13、4の子供が蜆を売りに来る。全部買ってやって身の上話を聞くと、父庄之助と母小春が愛し合うようになり、母は実家の紀伊国屋から勘当になった。貧しい生活に苦しんでいるのを見て、三年前に次郎吉が金を与えたのだが、それを盗んだと思われて、父と姉が役人に捕らえられてしまったという。亭主庄之助が牢につながれ、妻の小春は病の床につく……そのためこの子供が雪の中を蜆を売っているのである。
自分が名乗ればすむことだが、少し娑婆にし残したことがある。須走りの熊蔵という者に因果を含めて名乗り出させ、庄之助が放免される。女房小春も、次郎吉の働きで実家紀伊国屋の勘当が解け、庄之助と小春が紀伊国屋を継ぐこととなる……鼠小僧次郎吉「蜆売り」の一席でございます。
【成立】
松林伯円(しょうりんはくえん・2)の講談の一節を人情噺にしたもの。河竹黙阿弥の「鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)」もこれをもとにしたもので、鼠小僧は自首することになっている。この時に蜆売りを演じた14歳の子供は、実際の蜆売りの様子を観察して舞台に描いた。この子が後の菊五郎(5)
落語では「汐留の蜆売り」とも。大阪では「親のしじめに会いたい」という落ちがある。
蜆売りの話は『鼠小僧実記』にあり、母の薬を買うために蜆を売っている少年に、8、9両の大金を与えたとする。
【一言】
鼠小僧が捕らえられたのは1832(天保3)年、浜町の松平宮内少輔の邸だという。当時の調べ書きによれば、“八丁堀無宿次郎吉太夫事、深川辺を徘徊、博奕渡世致しおり候次郎ハ、俗に鼠小僧と申し触れせし盗賊なり。また、次郎吉出世の地和泉町に付き、いずみ小僧といえるを、身の軽きさま鼠と違いしや”とある。27歳の頃から、この趣味生活に入って、屋敷方、奥向き、長局、金蔵などに忍び入ったが、この頃の強盗などとは違って、長局の如き女護が島へ忍び入っても、金を盗むという以外の悪趣味を用いたといった風な記録はない。大名がだいたい95ヶ所、そのうち味をしめて3・4回ダブって入ったという所もある。いちばんけちくさい盗みは藤堂和泉寺、稲葉丹後守、松平彈正大弼、おなじく松平陸奥寺などの2両であろう。最も大きいのが本田豊後守、溝口伯耆守の3千両である。(安藤鶴夫)
○ 大阪の市村三五郎という親分にしてみました。十日戎で陰・陽をつけたつもりでございます。(桂小南)
【蘊蓄】
河竹黙阿弥『鼠小紋東着新形』の初演は、1857(安政4)年正月の市村座。
鼠小僧は1795(寛政7)年(?)、芝居の中村座の木戸番の長男として生まれた。建具職人となるが博打のために無宿人となる。1825(文政8)年に捕らえられて入墨をされて追放となった。1832年、浜町で捕らえられたのは5月9日、死刑になったのは8月15日または18日とされている。
本所・回向院の墓は戒名「教覚速善居士」、俗名「中村次良吉」となっている。この墓を削ると博打に勝つといわれる。義賊だから「するりと入れる」というので、受験生が削って持って行くのが多くなったという。
鼠小僧:一説に江戸堺町の芝居小屋中村座の木戸番の子。博打に走って勘当され、盗みを始める。『甲子夜話』には「人の通ふべからざる処に出入し、屏壁を上り、架梁を走るなど、鼠の如」とある。一説では生まれが泉町で「いずみ」が「ねずみ」になまったとも。本来「小僧」と名乗るは掏摸のみ。
十年にわたり大名や旗本の金子をねらい、被害は御三家を含む139家、被害金額は合計1万2千両に及ぶ。単独犯であり、ある大名屋敷で能を催したおり、中入りの舞台に突然現れ、「鼠小僧御能拝見」という紙を残して消えたと『甲子夜話』(松浦静山)にある。
本田豊俊守、溝口伯耆守は三千両ずつ盗られている。一人で千両箱を三つも運ぶのでは大変そうだが、手口は不明。松平肥後守は勝手元の苦しさか、5回以上も入られているが、1回目が50両、後は10両、5両、2両と減る一方。
1832(天保3)年5月8日逮捕。自白により犯行が明らかになると、被害があった屋敷に問い合わせたが、各江戸屋敷では一切そうした事実はないと答えたが、噂は世間に広まったと『浮世の有様』にある。恥になるので否定したが、事実だったとして、この書の作者は、
武威は無為武徳不徳としられけり盗賊に逢う間抜け大名
と書き残している。同年8月、36歳で市中引き回しの上、磔・獄門となるが、義賊という点については全く根拠がない。判決文には、ほとんど酒食遊興、博打に使ったとしている。引き回しの見物が祭りのようににぎわったとされ、その中で、
天が下古き例しはしら浪の身にぞ鼠と現れにけり
という辞世を詠んだとするが、次郎吉にそれほどの教養はなかったという。
四人の妾にはあらかじめ離縁状を渡しておいて自分が捕らえられても累が及ばぬようにしていた。美しい妹が下町で三味線の師匠をしていたと伝わる。
『甲子夜話』では「人に疵(きず)つくことなく、一切器物の類をとらず、金銀のみを取去る人道的な現金主義者」とある。
こうした記録を河竹黙阿弥が『鼠小紋春君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』に書いて英雄とした。盗みはすれど非道はせずという倫理観を持たせたのが大いに受けたのである。
鼠小僧は、当時の無産階級の側に立って、不当の富と贅沢を有するブルジョア階級の的であった(丘陽之助『鼠小僧の社会思想』)
泥棒は如何に観察したところで、邪でもあり、非道である。泥棒は、世間の弱者を救済するよりも、おのれを最先に救済しなければならない(三田村鳶魚『泥棒づくし』)
行燈の灯りの暗い封建社会で、自由に考え、自由に行動する人間を設定するとなると、泥棒以外にはない(大佛次郎)
見つけた時にメモした物を羅列しているので、整理が出来ておりません。