【粗筋】
伊勢屋の旦那がまた死んだという八五郎。「また」を聞きとがめた隠居に話をすると、養子がみな若死にで、これで3人目なのだという。隠居はその原因は嫁さんの器量が良すぎるからだという。
「何よりもそばが毒だと医者が言い……っていうだろう」
「蕎麦は毒かい……じゃあ、饂飩にするかね」
八五郎には通じないので、
「ご飯をよそって渡す時に手と手がふれるだろ。辺りを見ると誰もいない。顔を見るといい女……短命だろ」
「……手から毒が入るのかな……」
何度も説明を受けて納得がいかない。炬燵の話に変えて、
「炬燵で足と足が触れる……短命だろ」
「……足から毒が……」
「にぶいね、お前は。『新婚は夜することを昼間する』と言うだろう」
「夜することを……ああ、あれかい。それならそうと早く言ってくれれば、俺は勘がいいからピンと来るんだよ」
悔やみの文句も教えてもらい、葬式に行く前に腹ごしらえをしようと自宅へ戻り、忙しいという女房に無理に給仕をさせる。
「手と手がふれた。辺りを見ると誰もいない。顔を見るといい……ああ、俺は長生きだ」
【成立】
享保12(1727)年『軽口はなしどり』の「本腹のうわさ」。縁起をかついで、「長命」「長生き」とも。古今亭志ん生(5)は最後の夫婦のやり取りで、ご飯をよそるのに茶碗ですくったり、投げてよこしたりする、ガチャガチャなかみさんを創造し、「お前とこうしていると、俺は長生きができる」と落としている。
【一言】
たしかに、バレ噺といわれる艶笑落語は、いわば「耳で聞くあぶな絵」のようなものであり、若いお嬢さんなんかが聞いたら、まっかになってうつむいてしまうような噺も少なくない。それはそれで、おもしろくないことはないが、やはり最上の艶笑落語は、だれが聞いてもえげつなくなくて、しかも、ひとりでに含み笑いがこみあげてくるような、たとえてみればこの『短命』のようなものが第一級ではあるまいか。(江國滋)
● まことに皮肉な落ちで、ありがたさと情けなさが背なか合わせになった佳作だった。(興津要)
● このような噺は、近頃はだんだん演りにくくなってきました。と、いうのは「指が触って……」などっといっても、今は手ぐらい触るのはなんでもないですからね。昔はあの程度でよかったが、今じゃだんだん通用しなくなっていますから。まァ噺のほうはそういう時代であったことを心得て聞いていただかないといけませんな。こういう噺は結局、味を聞かせる噺ですから、演りさえすれば受けるというものじゃない。やたらに笑いを求めても、いやらしいなんという感じになったら駄目ですし、そこらが難しい所です。(柳家小さん)