戸川幸夫「大久保彦左と一心太助」
年末にネットオークションで古い本を手に入れた。戸川幸夫著「東京伝説めぐり」昭和27年11月 駿河台書房発行330円で落札およそ150編の短文の中に目指す「大久保彦左と一心太助」がある。13ページの短文をLINEの文字認識アプリを使って文字起こしした。彦左オタクのじじに言わせれば、間違いの多い内容だが、作者の面白おかしくという意図を尊重してそのまま記す。※※※※※※※※※※※※※※※※※戸川幸夫著「東京伝説めぐり」"天下の御意見番"大久保彦左衛門の人気は、威張りくさる将軍さまや、虎の威をかる諸大名、旗本運中など誰かれの容赦なくビシ/\やつつけたところにある。この間死んだ古島一雄翁と一脈通じるところがあるわけで興味深いが、彦左の講談本の方は銭形平次を読みあげた後のワンマン首相に熱読含味してもらうとして、こゝでは実説の方を述べていくことにする。野人に見られる彦左衛門も、系譜から調べると藤原氏の出だから、祖先は貴族というわけ。代々三河の大久保に住んでいたから土地の名をとつて大久保と改姓した。彦左、名は忠教、十七才で兄忠世に従つて「高天神の役」に初陣、城将関部長教の首を取ったのを初めとし以後幾度となく戦場に見えて大功を打ち立てたので、家康も感激して『知行をとらするぞ』というのに、手を振つて『そんなものは要りません。それより言いたいことをいえる権利を下さい』と御意見番を買つてた。一万や二万の知行より、実質的に将軍補佐の役についたのは先見の明があつたわけ、それとて"大慾は無慾に似たり"の彦左だつたからこそ出来た芸当だ。彦左の住居は神田駿河台にあつた。矢田挿雲氏の調査に、依ると杏雲堂病院のあたりということたが、彦左衛門女流の子孫に当る大久保伝蔵氏の話では主婦の友社の裏あたりだったとのこと。だから、例の盥に乗つて登城の際、本郷の前田家御長屋前にさしかゝると窓から首を出して笑つたので怒鳴り込んだという話は、道順を考えるとテニオハが合わない。いくら昔でも神田からわざ/\本郷を通つて千代田城に行く奴もあるまい。三田村鳶魚氏も「江戸の話」の中でこの話は根拠がうすいといつており、大久保伝蔵氏も"多分、幕府が奢侈にふけるのを意見したことがあり、それを講談的に脚色した創作でしよう"といつている。彦左衛門が歿したのは老病のためで「大久保武蔵鐙」では寛文十六年(一六三九年)二月二十三日となつているが、港区芝自金三光町五二九の法華宗の寺立行寺内にある墓碑によると二月二十九日となつている。行年八十八才で、法名は「了真院忠教日清大居士」といヽ、墓石は宝篋院塔形で上り藤に大の字の家紋がついている。昭和二年大久保講の有志の手で碑堂が建立されるまで永い間風雨にさらされていたので彫字も判読出来ない箇所がある。この碑堂も戦災でやられ復興出来ず、墓はうらさびれた境内に淋しく立つている。なぜ彦左の墓がこゝにあるかというと、彦左は法華宗の信徒で家康に従い江戸に出てからは,愛知県碧海群郡六律美村妙国寺の菩提寺にもそうちよい/\行けないので、立行寺も菩提所とし、度々参拝していたからで、死期迫ると覚るや、骨をこの二寺と京都の本山本禪寺に埋めるよう遺言したので、三ヶ所に分骨して納めたという。(立行寺職牛田栄存氏、大久保伝藏氏談)「大久保武蔵鐙』によると、正保四年の春ごろより、彦左風邪気味になつて寝ついた。『たゞの風邪だから、ペニシリンの必要もないわさ』と本人もいうので周囲の者も軽く見ていると、だん/\病は重くなり日ごろの大食も大いに減じたので『こりやどうも、こんどは本式らしい』と彦左もいゝ出す始末。やがて親類一同を招いて『人間死ぬ時は大ていボケるもんだよ、拙者はそんな醜態はさらけ出したくないから、気も言葉もハツキリしてる時に御一同にバイ/\したかつたんだよ』とそれ/\に片見分けをして『もう、いうことはないから、何もいうな。食事も、もう喰べても無駄ぢやから喰わんことにするから、すゝめちゃあいかんぞ』といつて寝所に引籠り、一心に念仏を唱えていた。それからというものは、湯水を呑むだけだつたが、気象は少しも衰えず二十二日になると『明日は必ず死ぬから、葬式の用意をして置け』と家人にいゝつけたから、家人は驚ろいた。そこで将軍家まで『本人が申して居りますから間違いはありません。明日は葬式を出すそうで⋯⋯』と届け出たから、家光公も『そうか、あのガンコ親爺が死ぬと申したか⋯⋯』とホロリとし、御側用人、牧野佐渡守を大久保家に見舞にやつた。彦左上使を見るや、ガバとはね起き正座、両手をつかえて上使を迎えたから佐渡もビックリした。そこで、将軍家より知行を賜わる旨を伝えると、彦左は『これまでも知行を御受けしなかつたのに、今さらなんで拝領する必要が御座いましようか、そんな御気遣いは更になくと将軍家にお伝え願いたい』というので佐渡守とりなし顔に『いや/\これは貴殿のみならず御子孫に対し生活を安定させるという将軍の温かい御計らいで御座るからお受けになつたがよかろう』というと、彦左色をなして『大体、知行というものは功労のあつた本人に賜わるべきもの、それを本人が断るのになんで功績なき子孫が恩典を受ける必要がありますか』といゝ放した。佐渡も面目を失つて真赤になつていると『しがし、そういつてしまつては貴殿の御役目も成り立つまいから、こう致そう。牛の睾丸を三つ戴き度いと御伝え願いたい』佐渡、眼を丸くして『え?牛の畢丸?それはヒドラジツト程の特効が御座るか?』と聞き直すと、彦左すまして『いかにも、おそらく唐天竺の名医とてもこの効用は存ぜぬであろうが、この彦左は存じている。これは死病を治すことは出来ないが、世の中の阿呆を治す特効薬でござる。よって拙者、これを三個賜わりなにかと申せばやたらに知行を与えたがる将軍へその一つを与え、もう一つは功もないくせに知行を欲しがる当節の若い者に与え、残る一つはそんな使いで、やつて来られる上使に喰わせたいのぢや』といつた切り、後は口をきこうともせずゴロリと横になつた。これが御意見番の最後の御意見だつたので、家光この報告を聞いて、またホロリとしたという。こんな爺さんだつたから、講談師のメシのタネになつたのも無理からぬことで、その最も有名なのが、川勝丹波守の妾を鉄砲で射殺したという話だ。当時若年寄桑山左衛門尉忠晴の婿に川勝丹波守という御書院番頭がいた。この男、収賄はする、高利貸しはする、おまけにお縫、お市というすこぶる美人の姉妹を二号にもつてその母視を路頭にほうり出したといういや味のサンプルみたいな侍で、大久保家の隣に広大な邸を構え、キャデラックの自家用車かなんかで毎日通勤する。盥通勤の彥左にとつてはこれがシヤクにさわつてならなかつた。丁度川勝邸と大久保家との間に空地があつた。この空地は大久保家のものだつたが、彦左金がないため家を増築するわけにもいかずこの土地を放つて置いた。川勝はまた二号邸増築のためこの土地が欲しくて仕方がない。そこで桑山に運動したから、桑山は若年寄と計つた上ある日、彦左を呼び出し『近ごろは地所不足で、諸士が困つているから、あの土地を公儀で買い取り度い』と申し渡した。彦左も『お上の必要とあれば止むを得ぬ』と0Kして引退つたが、翌日から川勝が普請を始めたのでさては一杯喰つたかとカン/\になつた。丁度、大久保家と普請場の境の所に一本の大きな松があり、これが工事の邪魔になつて仕方がない。そこで川勝『こちら側の枝だけ切り落したいが⋯⋯』と申し込んで来た。彦左手ぐすね引いていたところなのでソーレお出なすつたと『いや、あれは由緒ある松なれば切り落すはおろか松葉一葉落すこと相ならぬ。不穏な行動に出れば自衛のため射殺するぞよ』と警視総藍のような顔をして申渡した。川勝もフンガイして桑山に言いつける。そこで再び彦が呼び出されたが、こんどは彦左『松が邪魔なら普請を止めろ!』とガンとして聞かない。このオヤヂつむぢをまげたら何をい出すかわからないから⋯⋯と桑山も仕方なく『囲いをして普請せよ』と川勝に申し渡した。一方、彦左の用人笹尾喜内、軒先きにホテルの様な大建築がドシ/\出来上つて行くので『御主人、あれが出来ますと、どうもこちらに陽が入りませんで困ります』とブツ/\いゝ始めた。彦左いうのに『まア、待て、川勝の新築が出来上つたら隣りに引き移ればよかろう』とすましたもの、喜内『ヘェー、そんなこと出来ますかねえ』『出来るさ、お前は知るまいがあの川勝の奴、去年諸国に出張した際、だいぶアチコチで袖の下を取つて来ているから、定めし念を入れていゝ家を造るに違いない。丁度、わが家も破損していて普請しなければならなくなつていたんだから、うまい具合だ、まア、わしにまかせとけ』と、ボンと胸を叩いてニヤ/\している。元和六年(一六一五年)八月十四日、川勝邸では新築も成り祝宴を開く。十五夜の月の影が、問題の松の梢にかゝつて下界を明るく照らしていた。彦左、遣水をした縁先に腰を下ろし『明月や⋯⋯あゝ明月や⋯⋯』としきりに苦吟していると、向いの川勝邸の二階の窓がガラリと開いて酔に顔をホテらせたお縫、お市の二人が『ほんとにこの松が邪魔だよ』『そうね、まるで隣りの彦左爺いのように曲りくねつているわね』と話しながら、手鼻をチンとかんで松の小枝にひつかけた。これを見た彦左、怒り心頭に発し、鉄砲をとり上げるや強薬りをこめて、狙いすましてバーンと一発発射すると狙は誤またずお縫の胴からお市の胸を射ち抜いた。川勝もこんどはカン/\になつてカク/\シカ/\と公儀に訴え出たから、公儀もこと人命に関する問題だから放つて置けずと彦左を呼び出し『何のため、射殺したか?』と取調べにかゝつた。彦左、懐中より巻物一巻をうや/\しく取り出し差出す。見ると巻物の上包みに「慶長十六年(一六一一年)五月二日、永井下総守、是を認むる」とあつて、家康の直筆で我、鷹野に出でて、其道の帰りがけ、彦左衛門宅に立寄り、暫らく休息中に庭中の巨松を見る、この松見どころあり、我も松平家なればこの松汝に預く、見よ、この松年を経て栄えなばわが家も共に栄えん、彦左衛門、此松を大切に相守るべし、よつて奥行百七十間、間口五十間の場所、永々其方の屋敷地に遣わすものなり、よつて如件他に狂歌二首を与う徳川の水たまりある大久保に忠教住めばともに家康大久保の松の一木の葉末にも変わらぬ 千代の汝守りせよ代々の将軍、是を粗末にすべからざるものなり五月二日 家康判大久保彥左門とあつた。そこで彦左、膝を進め、川勝の非行を挙げお縫、お市の無礼を話したから、秀忠も、老中もギヤフンといゝ、川勝は切腹、土地邸宅は望み通り彦左に賜わつたいうがこの時代、川勝という御書院番頭は居ないから、この話もどうやら眉ツバもの。また矢代騒動も正徳二年七月二十一日というから、彦左の死後七十五年に当り、これまた幽霊の仕業ということになる。ところで彦左の脇役となつた一心太助は彦左衛門の落し子ともいわれている。これもウソだが、実在したことは確からしい。「大久保武蔵鐙」によると、太助は両国辺に住んでいた。身長六尺、色白く肉づきのいゝ美男子で、人柄も誠実で情け深かつた。魚の行商をしていたが、いつも浅黄縮緬の長股引に秩父小紋の単物、五枚裏の雪駄をはいて、魚は供の男に持たせ、自分はただ「さかな、さかな」とふれ歩くだけだつた。どうして彦左衛門を知つているかというと彥左の草履取りに雇われていたからで、都合で大久保家を去つてからは「二君に仕えず」といつて魚屋になつた。太助の死因も行年も不明だが、墓は粗末ながら彥左の宝篋印塔に似せて作られ、高さは彦左の墓の肩くらいで彦左の墓の傍に並んで立つている。あの世まで仕えたいという遺言によつて作られたというが、墓には「一心放光信士」戒名の下に「さかな屋太助」と彫つてある。行年は不明だが、延宝二年(一六七五年)十二月二十三日没、施主は松前屋五郎兵衛で碑面には「松前五郎兵衛の刑死を救い⋯⋯施主この恩に感じ⋯⋯」とある。この松前屋はおそらく二代目だろうが太助が彦左の力をかりて、先代五郎兵衛の仇討ちをしたことは講談でも有名だ。ある時のこと太助が日ごろ世話になつている蔵前通りの米屋、松前屋五郎兵衛方の前を通りかゝると、表の大戸が下ろされ、奥で女たちの泣き声がするので、パトロール・ポリスじやないが不審に思つたから、入つて見ると主人の五郎兵衛が無実の罪で牢にブチ込まれたと一同泣いているのだつた。太助がわけを尋ねると女房のお梶は『まア、聞いて下さい、太助さん⋯⋯』と鼻をチンとかんだ。話によると、五郎兵衞は元をたゞせば、津軽越中守の家老、松前五郎左衛門の伜で、父の死後江戸に出て米屋を始めた。もと/\武士の出なので近所の習い度いという者を集めて剣術を教えていると、近所に道場を開いている内藤藤右衛門のカンに触り、試合を申込まれた。こちらは本職でもないからと花を持たせて負けてやつたところ、相手は威猛高かになつて罵り雑言するので、遂にカンニン袋の緒を切つて、こんどは逆に一同をやつけたのが事の起り、負けた内藤は舅に原井伊予守という町奉行がいるのを幸いに、五郎兵衛に無実の罪を着せ牢にブチ込み拷問の上殺して失つたというのだつた。そこで義俠の太助、ゲンコツで鼻の頭を逆にグイとすり上げ『そんなべらボゥな話があるけぇ、親分が何といおうとこの太助さんが承知出来ねえんだ』と、彦左の許に"親分天下の一大事だッ"と注進に駈け込んだ。そこで彦左の口添えで、太助は内藤のお長屋へ酒肴を持つて探訪に出かけ実情を探つて、内藤一味の悪事を暴き、松前屋の一子五助の助太刀をして親の仇討ちをさせたという。最近では、彦左衛門と太助の墓も、小中学生の社会□の対象として、見学に来る者も多く、彦左衛門の直系は現在、愛知県額田縣幸田村に大久保忠和という老人がいるというのは、墓場の所在地立行寺 住職の話である。所在地 港区白金三光町五二九立行寺案 内 都電 魚藍坂下下車