カテゴリ:ヒストリー
(和文天祥正気歌)
天地正大気<天地正大の気。> 粹然鍾神州<粹然として神州に鍾る。> 秀爲不二嶽<秀でては不二の嶽となり。> 巍巍聳千秋<巍巍として千秋に聳ゆ。 > どうもこの漢詩が頭から離れなかった。JFNの梶原しげるのNEXT ONEで海江田先生の漢詩のコーナーがあるのだが、どうもこの句が頭から離れなんだ。 意味としては、天地にあふれる気が神州(日本)に集まり、富士の山のように高く、広大に千年にも渡り聳え立っているというような意味である。 この漢詩の作者は、藤田東湖である。今回の日本史の考査に、出てくる可能性がなきにしもあらずなので、おさらいしておきたい・・・・・。 彼の出身はいわずと知れた、水戸である。水戸は徳川光圀(水戸黄門)によって「大日本史」が編さんされる過程で水戸学という学風が成立した。 水戸学=(官学である朱子学+国学+神道) 朝廷を重んじる尊王思想が最も水戸藩は重んじていたのである。 「大日本史」の編さんにあたった、藤田幽谷(東湖の父)に師事した東湖はじめ会沢安(正志斎)らが水戸学を確立した。 この頃、異国船が度々現われて、水戸藩主、徳川斉昭を中心として攘夷(外国人を排斥する)思想が水戸学に加味された。斉昭は大老、井伊直弼に攘夷を求めたため、安政の大獄で謹慎という処分にあってしまう。 藤田東湖は幕末の水戸藩にあって水戸学の原点と言わしめた男である。かの、西郷隆盛(薩摩藩士・明治後、参議)、橋本左内(越前藩士)も東湖のもとを訪れた。 西郷は後年こう語っている。 「東湖先生のお宅に伺った際には、心に少しも曇りのない清らかな心になってしまい、帰り道を忘れてしまうほどでした。」 1855年(安政二年)安政の大地震の際、母親を助けんとして、亡くなった。 東湖の思想は、尊皇攘夷運動、倒幕へと動きはじめた。 東湖の息子、藤田小四郎は天狗党の乱を起こし、加賀藩により、敦賀の鰊蔵に押し込められ壮烈きわまりない獄死を遂げた。 1867年、徳川慶喜は政権を朝廷に返す。いわゆる大政奉還である。 慶喜は水戸藩主、徳川斉昭の子である。したがって水戸学の思想のもとに育った。 よって、自分が朝敵となることを良しとしなかった。慶喜でなければ徳川幕府は大政奉還を行わなかったであろう。 すべては、水戸藩というキーワードで繋がっている。 ★参考文献 ・藤田東湖 - Wikipedia お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/09/09 06:38:13 PM
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