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2020.08.28
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2020年8月28日(金)

津島神社が伝える須佐之男命の姿








全国3000社の総本社、津島神社より拙著の内容を認めていただき、収蔵していただきました。




「蘇る聖徳太子の真実」より抜粋
愛知県津島市にある津島神社には須佐之男尊の肖像画が所蔵されているのでした。
主祭神を建速須佐之男命とし、全国3千社にのぼる津島神社の総本社とされています。
古くは津島天王社と称され、大同五(810)年正月、嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉られたと伝えられているのでした
また、一条天皇(寛和二(986)~長元九(1036)年)は津島神社に天王社の号を贈られたとも伝えられているのでした。
嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子で、弘法大師空海の最大の庇護者であったことで知られている天皇なのでした。
その嵯峨天皇は、古事記に書かれた悪行を尽くす須佐之男ではなく、和国を建国した真実の須佐之男の姿を知っておられたことがここから読み取れるのです。
山下重良著、「古代日本原紀」によれば、須佐之男尊はBC188年頃に出雲沼田の郷氏「布都尊(ふつのみこと)」の子として生まれたとされています。
そして、19歳頃、出雲木次の製鉄豪族オロチを倒し、手込めにされていた櫛稲田姫を助けて娶り須賀の地に館を構えたのでした。
島根県松江市にある八重垣神社はその伝説が真実であることの証拠なのでした。
須佐之男尊は住民に稲作や製鉄等の技術を教え、生活の向上技術を普及させ、その技量と人柄見込まれて須佐王(すさのう)と呼ばれ、29歳頃には出雲国王に推されたとされています。
10月は「神無月(かんなづき)」と呼称されています。
古事記では10月には日本中の神様が出雲に集まって会議を開く月とされているのでした。
そのため日本中の神社の神様が留守になるので、神がいない月、「神無月」とされたのです。
しかし、出雲では神様が皆集まって来るので「神有月」であり、出雲大社では今も毎年10月に全国の神々を迎える伝統の御神事を大々的に開催しているのです。
それは須佐之男尊の和国の政治の実態をご神業の伝統行事として今日に伝えているものなのでした。
須佐之男尊は出雲国の政治を九州にまで広げ「和国」としたのでしたが、須佐之男尊の建国した和国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体だったのです。
中国の魏志倭人伝が卑弥呼の時代の日本を「倭国」と書いたのは「和国」が小さくてみすぼらしい国であるという蔑視の表現だったと考えられるのです。
しかし、須佐之男尊からニギハヤヒへ行き継がれた日本は世界にも稀な調和の国「大和国」であったのでした。
2、九州から大和へ東遷したのは饒速日
秋田の唐松神社天日宮には、ニギハヤヒの肖像画があり、現在まで代々物部氏が宮司を務めていることが知られています。
代々物部氏が宮司を勤める唐松神社の存在そのものが、ニギハヤヒの肖像画という物証を伴って、物部氏の祖神が饒速日(ニギハヤヒ)であることを明確に証明しているのではないでしょうか。
父スサノオ尊の遺言にしたがって九州から東遷し、奈良近畿地方を出雲文化に統一した饒速日(ニギハヤヒ)は、その後東海地方、関東地方、東北地方まで出雲文化として席巻し、父の遺言を完全にはたし日本を名実ともに大和国としたのでした。
山下重良氏によれば、ニギハヤヒ尊は、日本列島の北端に近い秋田唐松神社にのあたりに三年間とどまって、大陸の進んだ技術文化を指導したとされています。
その道程の関東から東北にかけては要所要所には須佐之男尊を祀るおびただしい神社が残されているのでした。
大宮市の氷川神社などはその代表格なのでした。
明治天皇は即位後真っ先に大宮市の氷川神社に参拝したとも伝えられています。
墨田川と荒川に囲まれた狭い北千住には各町会ごとに十一もの神社があるのですが、そのうちの五社は須佐之男尊を主祭神とする氷川神社であり、その他も稲荷神社ですからすべて出雲ゆかりの神社であるのでした。
ニギハヤヒ尊の行先のどこにも争った言い伝えはなく、行く先々の部族から嬉々として迎えられ、大和そのものの行幸であったことが分かるのです。





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最終更新日  2020.08.28 09:41:32
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