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2021.04.13
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カテゴリ:カテゴリ未分類

デイゴ(マメ科)

コアジサシ(カモメ科)

キョウジョシギ(シギ科)・オス

インドヨメナ(キク科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、シマグワ(クワ科)

ダイゼン(チドリ科)

ダイゼン(チドリ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「メトニック・サイクル」、「19」と「7」という二つの「素数」の、ほぼ魔術的な(笑)組み合わせについて、再論、と、ミャンマーからのニュース/書物を「読む」というのは、あ・ら・か・じ・め・知・っ・て・い・る・こ・と・を・、紙・面・の・上・に・「発・見・」す・る・、作業にすぎないことを、改めて思い知らされるね、・・・、「ビルマ独立義勇軍」創立由来など/ならば、いっそ、この際、「ビルマ文字」も、多少、学んでみようか、「冥途の土産」って訳だね(笑)、・・・/「植民地主義者、『原住民』に会う」症候群、と名付けようと思う、・・・、ものについて、井伏鱒二と小津安二郎のシンガポール/実はことごとく、ぎごちなく、疑わしく、胡散臭い、「私たち」は、そのような「出会い」しか可能でないような、「出発点」に立たされていたのだから、仕方がないでしょう、「仕方がない」存在であることを受け入れ、「仕方ない」ことの理由を考え続ける以外には、・・・会田雄次「アーロン収容所」/一年ぶりの、「スーパー・ムーン」談義、それに「渡り鳥」の「南北問題」。/



私の外出が、「不要不急」でなかったためしは、ないのですが、・・・(笑)。


シマグワ(クワ科)、このところ、隣家の庭に、メジロ(メジロ)やヒヨドリ(ヒヨドリ科)が喧しかったのは、あの電線、ケーブルテレビのかな、の、真下には、リュウキュウコクタン(カキノキ科)、そして少し離れたところには、この、シマグワ(クワ科)が、このように、たわわに(笑)実っていたからなのだな。





デイゴ(マメ科)

ダイゼン(チドリ科)・夏羽

ダイゼン(チドリ科)、まだ「夏羽」ではなさそうだが、胸のあたりにその「兆し」はある。

タカブシギ(シギ科)、これらのシギ類もまた、それぞれに色鮮やかに、「夏羽」らしくなってきている。





ミサゴ(タカ科)

ヒバリシギ(シギ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス

ギンパラ(カエデチョウ科)、近縁種のシマキンパラ(カエデチョウ科)と同様、南アジア原産の愛玩種の「篭脱け」が、「野生化」したと言われている、同じサトウキビ畑で、前に一度だけ目撃したことがある、スズメだと思ってとりあえず(笑)シャッターを切っただけだったから(笑)、残念なことに、ぼけているけれど。

スズメ(ハタオリドリ科)、シマグワ(クワ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)、シマグワ(クワ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、シマグワ(クワ科)、調べてみると、リュウキュウコクタン(カキノキ科)の方は、まだ、開花時期ですらないみたいだね、双眼鏡で、他人様の庭なのだから、こっそり(笑)、覗いてみても、確かに、実がなっている様子はない、とすると、この「お客様」たちを引き寄せているのは、もっぱら、シマグワ(クワ科)、の、桑の実であったことになる、猫たちが、魚のあらの煮込みをうまそうに頬張るのを眺めるのは、「飼い主冥利」に尽きるのではあるものの、一方では、あんな生臭いものよく食べられるな、と、「他者」性を思い知らされる(笑)、この桑の実は、人が食べてもおいしいけれど、抱卵育雛期には、虫やミミズをむしゃむしゃ呑み込む彼らの「味覚」から、どんな「おいしさ」なのかは、想像しかねるものの(笑)、これらの写真からだけでも、彼らの高揚ぶりが、伝わってくるようではないか。



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

シロチドリ(チドリ科)

スベスベマンジュウガニ(オオギガニ科)







ダイゼン(チドリ科)

マツバゼリ(セリ科)

トウバナ(シソ科)





あれは一昨々年、ビルマのイラワジ河のほとりの、エイタンという小さな村に駐屯していたときだった。それともあれは、一昨々々年かな。今は二月で、チーホア刑務所からサイゴン中央刑務所に移されたのが昨年の八月で、チーホア刑務所に入れられたのは、昨年の三月だ、終戦が一昨年の八月だ。俘虜収容所に転属になったのが一昨年の五月で、雲南戦線から退いて、プノンペンに到着したのが一昨年の二月だ。してみるとやっぱり一昨々年だ。あれは雲南作戦に出動する直前で、ビルマの正月の直後だった。エイタン村には、ウァイッセイという名のビルマ娘がいて、はじめのうち私は、外出日に慰●安所に行かず、ウァイッセイのところに、日本語とビルマ語の交換教授に行ったものだった。三叉路があって、その付近にひとかたまりの民家があった。煎餅屋があり、椰子酒屋があり、鍛冶屋があった。
三叉路の一角の煎餅屋の土間には、古びたテーブルが据えてあって、山羊の乳入りコーヒーが飲めるのだった。カップに八分目ほどの乳に、ちょっぴりコーヒーを垂らした甘い飲物だったな。あれはむしろ、コーヒー入り山羊の乳と言うべきかも知れない。煎餅屋の隣は椰子酒屋で、土間には素焼きの壺が並んでいた。その隣が鍛冶屋で、火が真っ赤に燃えていた。ウァイッセイの家は、道を隔てて椰子酒屋と向かい合っていた。彼女の家は、農家だ。多分、農家だ。彼女はよく、薄暗いニッパハウスの中であぐらをかき、手を摺り合わせて、セレ(煙草)を巻いていた。セレは、鉛筆のように細いものから、トウモロコシのように太いものまであった。私が行くとウァイッセイは、セレや黒砂糖をくれる。彼女はパーカーの万年筆を持っていたが、インクを持っていなかった。私はクアラルンプールで、二十一円の一等兵の月給をまるまる投じて手に入れたイギリス製のインクを、半分薬瓶に移して彼女に送った。エイタン村の正月は、つまりビルマの正月は、太陽暦の四月十八日だった。ビルマ人は、太陽暦でも太陰暦でもない、特別の暦を使っていて、正月には水を掛け合うのだった。その水の量が多ければ多いほど、敬愛の意を示すことになるというのだった。そこで私はバケツを下げてウァイッセイを訪ねた。彼女の、腰まである長い髪の上から、ザンブリ。彼女は首を縮めて、おとなしくかしこまっていた。濡れた彼女は、今度は私を待たしておいて、裏の井戸からお返しの水を汲んできた。私たちは河から這い出してきたような姿で微笑み合った。・・・
「プレオ―8の夜明け」古山高麗雄(文春文庫「二十三の戦争短編小説」所収)

「エイタン村」は、おそらく、他の作品に登場する「ネーパン村」に当たるのだろうが、名前を変えてあるのだと思われる、「泰緬鉄道」と、そして徒歩による行軍で、そこにたどり着くまでの記述から、この地図上、左上の端、「Neik Ban」と推定した、という次第については、以前述べたところである(笑)。

「チーホア刑務所」、「サイゴン中央刑務所」。1940年、ナチがフランスを占領すると、海外のフランス植民地の多くは、「ヴィッシー化」したようだが、その程度は、場所によってさまざまであったようで、映画「カサブランカ」に描かれている如く、ドイツ軍に「面従腹背」しつつ、「レジスタンス」に加担する現地官僚もいたであろう、フランス領コンゴ、のブラザビルが「自由フランス」の拠点であった、らしいことも語られていた、「インドシナ半島」は、日本軍が、ほぼ「無抵抗」で占領することができた、という事実からは、かなり全面的に「枢軸化」していたのではないか、と想像される。1944年6月、アルジェに成立した「自由フランス」主導の「フランス共和国臨時政府Gouvernement provisoire de la République française」が、1944年8月の「パリ解放」により、帰国、これにより、「仏領インドシナ」もまた、「連合国」化することを恐れた日本軍が、「明号作戦/仏印処理」、という名で、ヴェトナム、カンボジア、ラオス、それぞれ名目的な傀儡「独立国」設立を策謀した、これが、別の作品「今夜、死ぬ」や「7・7・7」には、「仏印事件」として、著者自身が、プノンペンのシアヌークの王宮を襲撃するかなりずさんな「作戦」に参加した経緯が描かれていた、そして日本の敗北とともに、フランスは、ふたたび「宗主国」の地位に返り咲いたわけで、「独立」を与・え・る・意図は全くなく、やがて、「第一次インドシナ戦争(1946-1954)」につながっていく、・・・、こうして、フランス植民地当局が、「連合国」化したことで、日本の占領軍は、その「明号作戦/仏印処理」の過程で、大量のフランス軍人を、捕虜として逮捕せざるを得なくなった、その「俘虜収容所」、確かラオスにある分所であったが、それはのちにまた調べよう、に、古山一等兵は、配属されていたので、日本敗北と同時に「戦犯」容疑者として、フランス植民地当局に、逮捕されるのである、・・・、「チーホア刑務所Chi Hoa Prison Center」は、現在も、存在しているようで、容易に見つけられたが、「サイゴン中央刑務所」の方は、不明。この作品の冒頭には、毎朝、「安南人」、つまりヴェトナム人の収監者たちが、「ヴェトミン独立歌」を歌い、すると、これに対抗してフランス人の囚人たちが「ラ・マルセイエーズ」で応酬する、という情景が描かれている、・・・、別の作品「墓地で」には、「ヴェトミン地区」で、訓練中の青年が、「日本、ヴェトナム、オトモダチ、上等、フランス、イギリス、上等ナイ」と声をかけてくるシーン、がある。
五年ほど前に、この作品集を初めて読んだとき、同じことをしたが、もう一度、年代特定作業をしておこう。

「ニッパハウス」、ヤシ科Arecaceaeニッパヤシ属Nypoideaeニッパヤシnipa palm/Nypa fruticansの葉で屋根を葺いたりして作った住居と思われる、ニッパヤシは、マングローブ性の植物で、東南アジア、南太平洋に分布、日本では西表島にのみ自生、とのこと、果実は「椰子酒」の原料に用いられる。
今回、この部分を引用したのは、「ビルマの正月」の記述を思い出したからだ、ちょうど、数日前、上に掲げた写真で、ダイゼン(チドリ科)とおぼしきものが写っているのが、当地では、「浜降り(はまうい)」と呼ばれる行事が行われる、旧暦三月三日の、その前日なのだが、おりしも、クーデター後の緊張下にあるミャンマーからは、「正月休み」の四日間、伝統行事になぞらえた形の、さまざまなデモが行われた、との報が伝わってきた、古山高麗雄は、「太陽暦でも太陰暦でもない、特別の暦」と言っているが、調べてみたところによれば、やはり、「太陰太陽暦/lunisolar calendar」の一種ではあるようで、つまり、平均朔望月の12倍と、平均太陽年との間に生ずる誤差約11日を、19年に7回、このサイクルを「メトン周期/Metonic Cycle」と呼ぶらしい、「閏月」を挿入して解消する、という洋の東西を問わず広く古代から採用されている方法を用いている、のは、中国や日本、ここ琉球の「旧暦」や、「ユダヤ歴」とも同じで、ただ、一年の始期を、どこに持ってくるかに、若干の違いがあるわけだ、例えば、「ユダヤ歴」は、春分後の初の満月を「過越し」とし、そこから約二週間遡った新月を、新年とするようであるし、「旧暦」では、「春夏秋冬」にそれぞれ三カ月ずつを割り振り、「春1,2,3/夏4,5,6/秋7,8,9/冬10,11,12」、それぞれに、「二十四節気」を「立春」から順に二つずつペアにしたものがおおよそ、収まるように調整、ということのようだから、「立春」前後に「新年」が来ることになろう、これに対して「ビルマ歴」では、どうも、「正月祭り」を表す「Thingyan」という言葉が「太陽が黄道上の『双魚宮』から『白羊宮』に移るとき」という意味らしく、すると、「二十四節気」と「黄道十二星座」の、おおよその対応関係を下に示すが、なるほど、この「ビルマ歴」の「新年」は、おおよそ、「春分」から「清明」あたりの新月、になろうことがうかがわれる。ここにも、描かれている「水掛け祭り」の習俗が、前にも紹介したが(↓)、ミャンマー出身で台湾在住のMidi Z監督の映画、「The Road to Mandalay再見瓦城」の、これは残念ながら観たわけではないが、プロモーション・ヴィデオの一シーンにも、人々が盛大に、しかも楽しげに、水を掛け合っている様子が映し出されている、「水」のもつ「浄化」の力を、相互に「贈与」しあう、ということなんだろうな、警備部隊に殺害された人々の「血」を表象するものとして、赤いペイントを壁にまき散らす、というニュース映像を見ると、何か「ヴァンダリズム」的なものに見えて、落ち着かない気持にもさせらりたりするが、これも、その伝統的な身振りを「引用」した「鎮魂」の行為なんだ、と、理解すべきなんだろうな。

The Road to Mandalay再見瓦城/Midi Z
1988年のクーデターのことは、記憶に残っている、「あなたが正しい限り、私は支持する」という「パターナリズム」について考える

Burmese calendar
Thingyan(Burmese New Year Festival)
前にも書いたが、この「メトン周期」、「7/19」なる、分子分母とも比較的小さな既約分数が、驚異的なばかりの制度を持っていることのは、何か、ほとんど(笑)「魔術的」なものさえ感じさせるくらいだ、この表は、確か、連分数展開による近似をくりかえしてみたものだったはずだが、想像してみたまえ(笑)、例えば「195年の間に71回『閏月』があるのです」などと言ったって、百年も生きられない人間が、それを憶え、伝承することは、著しく困難だったはずだ、それに比べれば「19年に7回」は、いかにもすっきりしている、もし、こんな方法で、「太陽暦」と「太陰暦」に折り合いがつけられてい・な・か・っ・た・としたら、「世界」はどうなっていただろう?、もちろん、あんたの知ったことじゃないわよね(笑)。
Metonic cycle






(添付文書の冒頭)
ミャンマー連合共和国
ピダウングス・ルットー(連合議会)代表者委員会
声明、2021年第23号
2021年4月16日
国民統一政府の発足
「ピダウングス・ルットー(連合議会)代表者委員会(CRPH)」は、2020年に実施された民主的選挙に示された人民の負託に基づき、2021年3月31日に発表された「連邦民主主義憲章(声明2021年19号)」の規定する手続きに従って、以下に掲げる閣僚を代表とする国民統一政府の発足を発表する。
(1)ウ・ウィン・ミント 大統領
(2)ダウ・アン・サン・スー・チー 国家総督
・・・
COMMITEE REPRESENTING PYIDAUNGSU HLUTTAW
office@crphmyanmar.org
The Republic of the Union of Myanmar
Committee Representing Pyidaungsu Hluttaw
Announcement Number 23/2021
16th April 2021
Formation of the National Unity Government
The Committee Representing Pyidaungsu Hluttaw(CRPH), with the authority bestowed by the people's mandate resultant of all parties' democratic election held in 2020 has formed the National Unity Government with following cabinet members, in accordance with the Federal Democracy Charter (Statement: 19/2021), published on the 31st of March 2021.
(1) U Win Myint President
(2) Daw Aung San Suu Kyi State Counsellor
...
(訳注)「U」、「Daw」はそれぞれ、ビルマ族(バマール族)成年男性、成年女性に対して用いられる尊称、(3)に、「Dawa」、(4)に「Mahn」を冠した人物が、それぞれ副大統領、首相として指名されているが、これらの尊称は、それぞれカチン族、カレン族の首長に対して用いられるもの、とある。ほかにも、この一覧の中には、「Naw」、カレン女性の尊称、「Khun」、シャン族またはパオ族男性の尊称、を冠した人物もみられる。wiki記事Burmese nameを参考にした。
(訳注)パカントは、インドウジ湖の北方の町、古山高麗雄「フーコン戦記」(文春文庫)の付図↓、この「フーコン谷地」一帯は、第二次世界大戦末期、インド、マニプール州のインパールでの「インパール作戦」敗北後、イギリス領インドのアッサムから、ビルマ、雲南を経由して国民党軍への物資輸送ルート「援蒋ルート」を開きつつあった連合軍(アメリカ合衆国、イギリスとそれによって編成されたインド人部隊、中国、さらに、カチン族の部隊が参加していたことが描かれている)によって、日本軍(1945年3月までは、「ビルマ独立義勇軍」もその兵力に含まれていたようだ)が、全滅に近い形で撤退を余儀なくされる戦闘の舞台であった。

・・・
「ピーコック・ジェネレーション」は、「thangyat」と呼ばれるミャンマーの伝統的な詩劇の形式で、街頭で、軍政風刺の活動を行っていた劇団のようである。2019年秋、ヤンゴンで彼らが逮捕された時の記事も併せて訳出しておいた。「ピーコック/クジャク」は、キジ科クジャク属の鳥で、ミャンマーにも分布するようであるが、1962年から1988年まで軍事独裁政権の与党である「ビルマ社会主義計画党Burma Socialist Programme Party/BSPP」の旗(左)が、赤地に白い星二つ、なのに対して、「民族民主同盟(NLD)」の旗(右)は、赤地に白星一つに、クジャクが挑みかかっている、という図柄であることからもうかがえるように、軍政への抵抗のシンボルとなっているように思われる。

Peacock Generation Thangyat, 2020 Schuman Awardees、ヨーロッパ連合(EU)が毎年、ミャンマーの民主団体に贈っている「シューマン賞」の2020年受賞に際しての、ドキュメンタリー・フィルム、2020年2月アップロード
Peacock Generation Thangyat、「ラジオ・フリー・アジア」によるニュース映像、2014年4月アップロード
Thangyat/သံချပ်、は、ミャンマーの伝統的詩劇、太鼓や合唱の音に乗せて、語りが入る形式、新年祭「Thingyan」にしばしば行われたとのこと。
・・・
Kachin Independence Army、1948年創立、カチン州ライザLaiza(Lai Zar)/Kachin Stateに本拠地。
長い闘争の歴史があり、紆余曲折が多いようなので省略せざるを得ないが、一時期共産主義を受け入れ、中国などからの援助を受けていたこともあり、しかし、ビルマ共産党CPBとは、敵対関係にあったようである。先ごろ、「全国民ゼネスト委員会」の呼びかけに応えて、反クーデター市民運動への連帯を表明した、「ターアン民族解放軍(TNLA)」、「ミャンマー諸民族民主同盟軍(MNDAA)」、「アラカン軍(AA)」とは、同盟関係にあるようである。
United Wa State Army(UWSA)、1989年に「ビルマ共産党(CPB)」所属のワ族兵士グループによって創立、毛沢東主義を奉じ、ミャンマー国軍よりもより厚い支援を中国当局から受けていた、とのこと。UWSAの宣言した「ワ族自治行政地区」を「タットマドウ」は認めていないものの、シャン州における「シャン州軍・南部派Shan State Army-South(SSA-S)」との武装闘争において、「タットマドウ」はしばしば、「UWSA」と同盟関係を結んだ。また、1985年にクン・サKhun Saによって結成された「モン・タイ軍Mong Tai Army(MTA)」とも武装抗争を行ったが、これも「タットマドウ」の利害に沿うものであったと言われる。

ワ族自治行政地区、地図/ミャンマー、州区分図
Mong Tai Army(MTA)、「モン・タイ軍」については、以下に、岩崎育夫「入門東南アジア近現代史」(講談社現代新書)からの引用を掲げる。
その一つ、東部のシャン州は、一部がミャンマーとタイとラオスからなる「黄金の三角地帯」と呼ばれる、東南アジア最大の麻薬生産地帯に属している。中国の国共内戦で破れ、タイ北部に逃れた国民党軍兵士の子として生まれたクン・サは、シャン人とモン人の分離独立をめざしてモン・タイ軍を結成して武力闘争をおこない、その過程で黄金の三角地帯の麻薬ビジネスを支配した。クン・サは一時期、ミャンマー政府により逮捕・投獄されたが、出獄後は麻薬ビジネスを拡大し、麻薬取り締まりを強化したアメリカ政府から国際指名手配を受けると、タイ北部からミャンマーのシャン州に逃げこみ、シャン州に自分の王国を築くことを考えたので、分離独立運動と麻薬資金が結合して、ミャンマーの軍や政府は容易に鎮圧できなかった。・・・
「入門東南アジア近現代史」岩崎育夫(講談社現代新書)
ここでいう「麻薬」は、大麻opium、のようである。また、wikipedia記事に見る限り、「モン・タイ軍」は、シャン族の分離運動であり、モン族Monとは無関係のようである。

ミャンマー、言語民族一覧、この表には、「ワ族/佤族(中国語)」の記載がないが、モン族と同じく、オーストロアジア語族に属する。シャン語は、隣国タイの多数派言語タイ語Thaiとともに、タイ・カダイ語族(クラ―ダイ語族Kra–Dai)に属する。

オーストロアジア語族Austroasiatic分布図/タイ・カダイ語族(クラ―ダイ語族Kra–Dai)分布図
「SSA-S」他の武装組織については、「『この国は、まるで、やることなすことすべてに生命を吹き込むことのできる、愛すべき喜劇役者たちであふれかえっているのではないか、と思えるくらいです』、・・・、ミャンマー、続報」・・・「ねこログ」記事の記事参照。
・・・
「ヒスイ翡翠/jade」は、
(1)ナトリウム、アルミニウムのケイ酸塩NaAlSi2O6である、硬玉(ヒスイ輝石/ジェイダイトJadeite)
(2)カルシウムのケイ酸塩に、マグネシウム、鉄が混入したもの、Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2の、軟玉(透閃石-緑閃石系角閃石/ネフライトNephrite)
があるが、ミャンマーカチン高原に産するのは、もっぱら(1)の「硬玉」のようである
酸化アルミニウムAl2O3の結晶の一部に、Al3+の代わりにCr3+が混入すると「ルビー」、同じくFe3+が混入すると「サファイア」となる、とのこと。「ルビー」の高級品種の産出地として、ミャンマーが挙げられている。
・・・
ノー・スザンナ・ラ・ラ・ソー氏は、先日発表された「国民統一政府」閣僚一覧↓によれば、「女性、青年、児童問題担当連合大臣」に任命されているようである、この女性の名前に付されている尊称「ノーNaw」は、カレン族とりわけ、「S'gaw Karen」系の女性に付されるもの、とのこと。
言語民族的分類としてのカレン語は、「S'gaw」、「Pa'O」、「Pwo」の3つの下位分類に分けられる。
(1)「S'gaw」は、「タニンターリ地方Tanintharyi Region」、「アイェワディ地方Ayeyarwady Region」、「ヤンゴン地方Yangon Region」、「バゴー地方Bago Region」で主要に話される(使用人口2百万)。そのさらに下位分類に「Red Karen/Karenni/Kayah」が含まれ(使用人口50万)これは、地域的には、「カヤ州Kayah State」に対応するのであろう、それ以外の「S'gaw」多数派が、「White Karen」と呼ばれたようである。「Red/White/Black」の呼称は、もとより、植民地主義者による命名であると思われる。
(2)「Pa'O」は、その伝統的服装から「Black Karen」とも呼ばれる「Pa'O」族によって話される(使用人口百万)。「Pa'O」族自体は仏教徒が多数を占めるものの、歴史的には、キリスト教宣教者団が、布教の際に使用してきた経緯があるようである。地域的には、「モン州Mon State」に対応するようである。
(3)「Pwo」、ミャンマー東部(使用人口150万)、「Red/White/Black」を冠せずに単に「Karen」と言えば、このグループを指すようである。

・・・



日本軍のビルマ作戦は、最初から最後まで攻略が最も濃厚に入り交じっていた。ビルマ作戦はマレー作戦の背後の安全を図り、かつ中国援助のビルマ・ルートを遮断する必要から生まれたが、同時にインドにおける反英工作を促進することをも大きな狙いとしていた。
ビルマの独立運動を支援しこれを利用しようとする工作は、陸海軍とも一九四〇年の中ごろからとり上げていた。ビルマには自らをタキンとよぶ新しい民主主義政党が一九三五年ごろから成長していた。陸軍側では学生運動の指導者で社会主義的なオン・サン(一九一五―一九四七)を引き入れることに成功し、海軍側ではタキン党の右翼民族主義者とむすんでいた。ビルマの国内情勢は錯雑をきわめていた。インド、中国、タイと境を接したうえ、国内にインド人、中国人をはじめ多くの少数民族をかかえており、その動向はきわめて複雑であった。南方作戦の準備が始まった一九四一年二月、大本営はビルマ工作のために「南機関」を編成し、陸軍側の工作に当たってきた鈴木卓爾大佐がその機関長となり、機関名は南方企業調査会と偽称した。南機関は本部をバンコックに移し、独立を要望するタキン党員らのビルマ脱出を援助した。脱出してきた三十名の青年は東京ついで海南島に移して、きびしい軍事訓練をほどこした。
開戦とともに、南機関は仮面をぬぎ、ビルマ独立軍(BIA)バンコックで編成された。十二月八日、日泰攻守同盟が結ばれ、翌九日には日本の第十五軍がバンコックに進駐すると、ビルマ独立軍もその指揮下に入った。ビルマを脱出してきた青年や、タイ国在住のビルマ人有志がぞくぞくと応兵し、その数は二百余名となった。これに新たに日本人二、三十名を加えて、作戦部隊としての編成替えをおこなった。軍司令官には鈴木大佐(義勇軍大将)、参謀長には野田大尉(義勇軍中将)が就任し、オン・サンは少将であった。
「わずか二百余名の日緬の志士たちは、道なき道を、多くの困難に遭遇しつつ、じつに五十余日という連続行軍をつづけた。彼らが国境の密林地帯を抜けて、中央平原へ進むにつれて、『独立軍きたる!』という声に、村から村へ、町から町へ、民衆はわきたった。いたるところ、農民も僧侶も商人も『ド・バーマ』(ビルマ独立万歳)を絶叫して、食糧の調達、戦争資材の収集に進んで協力した。
ことに、『ボー・モージョきたる!』という声は、民衆の心を雷撃のごとく揺さぶった。ボー・モージョとは『雷帝』という意味。古来ビルマには一つの神話があった。英帝国に滅ぼされた最後の王子が、やがてボー・モージョ(雷帝)と名乗って、白馬にまたがり、太陽を背に、東方から来たって、ビルマを救済する―というのである。この伝説をきいた鈴木は、みずからボー・モージョと名乗り、金モールの王冠に純白のロンジーを着用して、白馬にまたがって陣頭に立った。この芝居気たっぷりの演出効果は、みごとにあたった。沿道の住民は随喜の涙をながして歓迎した。青年らはこぞって雷帝の部下たらんことを欲し、革命軍の声価は、たちまち近隣にとどろいた。
独立軍の往くところ、民衆とゲリラ部隊は混然となって警察を襲い、刑務所をやぶり、英印軍の後方補給路を断つなど、戦果は意外なところからあがった。(略)ともかくバンコックを進発したときわずかに二百余名であった義勇軍は、モールメンに達したときには、その兵力はすでに五千、さらに、それ以後もぞくぞくと義勇軍に参加するものがふえ、ラングーン入城のころには、じつに正規軍一万、便衣隊十万というボウ大な兵力にふくれあがっていた。」
三月十日の朝、ビルマの首都でビルマ・ルートの起点であるラングーンは陥落した。ラングーン市民はビルマ独立軍を歓呼してむかえた。しかしこの前後から第十五軍ならびに軍政監部と、南機関ならびにビルマ独立軍との対立がはじまった。
「はじめ、鈴木大佐とタキン党との約束は、日本はビルマ独立のために、武器援助を与えるだけで、軍隊は一個旅団以内にとどめる。それもビルマ南部地区だけの掃討戦で、ビルマ全土に対しては、南機関と義勇軍の作戦にまるまるまかせるということであった。
だが、鈴木の『約束』は、軍の意志でも約束でもなかった。大本営ははじめから、ビルマに独立をゆるすなどとは考えていなかった。既定の方針にしたがって、既定どおり軍を進め、軍政を布いたのである。ビルマ側にすれば、違約であり、背信である。南機関にむかって、約束が違うといって憤激するのも当然であった。
やがてマンダレー作戦が始まった。日本軍政のまま、BIA(ビルマ独立軍)は、勇躍出陣した。この作戦が終わり、ビルマ北部の戡定が完了すれば、独立がゆるされるにちがいないというので、BIAの士気は大いにあがった。BIAのゆくところ、英国人とインド人のチェティヤー(土地を担保にする高利貸)は逃げ去り、その結果、ビルマ穀倉地帯の小作人たちは期せずして自作農となり、また借金の棒引きが自然におこなわれ、農民運動の多年の宿願が、一挙に達成された。すなわちBIA即解放軍である。だから、民衆にとってBIAの進撃は、この上もない魅力であった。
かくて侵攻ごとに雪だるまのようにふくれあがった独立軍は、作戦終わってバーモに終結したときには、その兵力はじつに四万近くになった。四万の兵力といったところが、軍紀のもとに訓練された軍隊ではない。水ぶくれである。無規律、無統制の集団である。だから不祥事件はヒン発するし、その取り締まりも困難であり、食糧給与などの補給もたいへんだ。いわば日本軍にとっては『厄介な存在』となってきたのである。しかも暴れん坊の鈴木が、この四万をバックに、なにをしでかすかわからないという不安がある。鈴木はいぜんとして、即時独立を主張し、軍の方針とは平行線のままなのである。
かくて軍は、最後の”断”をくだした。まず四万のBIAをわずか二千八百人に限定し、残りの三万余人を武装解除して、即日解散を命じた。一方、鈴木を少将に進級させて北海道に左遷し、同日付をもって『南機関』の解散を命じた。
わずかに二千八百に縮小されてしまったビルマ独立軍は、その名も防衛軍(BOA)と改められ、ミンガラドンほか二カ所の兵舎に収容されて、日本軍将校指揮の下に徹底した日本軍式の教育を受けた。日本の歩兵操典で教育され、軍人勅諭や戦陣訓まで暗唱させられた。独立の希望も、自主性も無残に踏みにじられていった。日本の傭兵的存在と化してゆく姿を、ビルマの民衆は歯ぎしりをして見つめていたにちがいない。」(田中正明『光また還る』一九五八年)
「果てしなき戦線―日本の百年8」橋川文三・今井清一(ちくま学芸文庫)

・・・


この記事に見える「ボー・モージョ」の「神話」を探求すべく、ビルマ、コンバウン朝が、イギリス帝国に滅亡された時代の歴史を瞥見してみる。
1752年、アラウンパヤーにより、コンバウン王朝開始
1818年、イギリスに対してベンガル東半分の割譲を要求、1822年、ベンガルに侵入
第二次英緬戦争(1824)、アラカンArakanとテナセリムTenasserimをイギリスが占領
(アヘン戦争1840-1842、シーク戦争1845-1846、1848-1849)
第二次英緬戦争(1852)、イギリス、ペグーを占領、下ビルマLower Burmaを併合
(アロー戦争1856-1860、セポイの反乱1857、ムガル帝国滅亡、清仏戦争1884-1885、フランス、インドシナ支配権獲得)
この戦争の末期に、先王タラワディTharrawaddyの息子カナウン・ミンタKanaung Mintha、兄のミンドンMindonとともに、パガン王(在位1848-1853)を打倒して、ミンドンが王位につき、カナウン・ミンタが、皇太子となった。この皇太子は、近代化路線を主張、インテリ層を西洋に留学させたり、兵器産業を興隆させたりした。(「マンダレー・ビール」の記事でみたように、当時の首都マンダレーの、このビール醸造所は、イギリス植民者が、このカナウン・ミンタの開設した兵器廠を改造したものであった。)この、近代化への功績によって、カナウン・ミンタ皇太子は、のちに、暗殺されて短命に終わるものの、後代の民族主義運動家たちにとっての、アン・サンとも並び称される、アイドルであり続けたようである。
第三次英緬戦争Third Anglo-Burmese War(1885-1887)、コンバウン朝が断絶し、イギリス領インド帝国British Rajに併合される
コンバウン朝最後の王、ティーボーThibaw Min(1859-1916)、1878年即位、1885年、下ビルマの解放を訴える教書を発したことに対し、イギリス軍が大群をもって王宮を包囲、逮捕され、インド、マハラシュートラ州ラトナギリRatnagiriに幽閉(この際「王子が処刑された」との、記述も見えるが、確認できない)。ティーボー自身は、イラワジ川を下る船で、王宮のあったマンダレーから、インドに向かうラングーンの港に向かったのであろう、連行される際、イギリス軍に対して「命乞い」をしたと伝えられ、そのような伝説の存在からも、のちの人々の尊敬を、それほど受けてはいないように見える。

という訳で、「BIA」司令官、日本人の「鈴木卓爾大佐」が「演出」して見せた、「英帝国の最後の王子」が、誰だったのか?については、人々の信望厚いという意味では、カナウン・ミンタではないのか、と思ったのだが、言葉通りに解釈すれば、ティーボーの王子、がそれにあたりそうだが、裏付ける記述も見つからず、はっきりした答えを得ることはできなった。
(注)「鈴木卓爾大佐」は実在する軍人のようであるが、1943年にサイパンで戦死した、とあるから、これは同書の誤りであろう、wiki英語版経由で、「鈴木敬司大佐」(1897-1967)、のようである。
「便衣隊」、軍服を着用せず、民間人に仮装した戦闘員。
、カン、か(つ)、ころ(す)
「チェティヤー」、はっきりしないが、南インド、タミル・ナドゥやケララにおいて、商業、織物業、農業に従事する土地所有「カースト」の名前に、「Chettiar」があるようである。
田中正明(1911-2006)、は、東京裁判で死刑判決を受けた松井石根の私設秘書として、「アジア解放」運動に従事、戦後は、「歴史修正主義」的立場の論客として活躍したようである。
「防衛軍(BOA)」、は、「BDA/Burma Defence Army」の誤植であろう。
「ミンガラドン」は、現・ヤンゴン市北部の区、Mingaladon、現在は、ヤンゴン国際空港のある地域。
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何年も前に買って、きっと一度は斜め読みしたのではあろう書物、1500円もする高価な新刊書を躊躇なく購入できたのだから、まだ仕事もあり、それなりに「金持ち」(笑)だった頃なんだろう、あんまり覚えていないけど、・・・、押し入れから埃を払ってめくってみると、こんな記述に出会ったわけだ、もちろん、何も覚えていなかった、「ビルマ」にも「独立義勇軍」にも、何も関心がなかったから、記憶に残っていないのだろう、書物を「読む」というのは、あ・ら・か・じ・め・知・っ・て・い・る・こ・と・を・、紙・面・の・上・に・「発・見・」す・る・、作業にすぎないことを、改めて思い知らされるね。こんな風に、だんだん「ビルマ/ミャンマー」、ちなみに国名変更は、1988年の弾圧、クーデター後のようであるから、それを肯んずることができない人々が、たとえ今度は植民地主義者による命名だったにせよ、以前の名称を使い続けることにも、理由があるのだね、・・・、その「ビルマ/ミャンマー」通、になって行くことには、ある種の「気恥ずかしさ」を禁じ得ない、調べ物をして、何かを発見する、というのは、掛け値なしに「心躍る」ことで、一日の半分以上を寝て過ごしている「うつ病患者」でも、多少は手を着けることのできる「知的作業」として、重宝ではあるものの、・・・、自分に「利害関係」のない土・地・に、「関心」をもつ、ということ自体、「オリエンタリズム」と断定してみるまでもなく、ある種「侵襲的」な行為なんだと感じて来た、自分のまわりに数多いた学者の卵たちが、例えば「○○文学」の徒であれば、日常会話にまで、「○○語」の慣用表現をちりばめて見せ、仲・間・内・で、微笑み合っている、などと言う情景には、もちろん、そんな高度な知的環境(笑)の近くにいながら、自分だ・け・は、ちっとも「インテリ」になれずじまいだったことに嫉妬しているだけなのだが、苛立たせられてきたものだったし、何よりも、これはまさしく、自分自身に同じ「醜悪さ」を密かに発見するからこそ、攻撃的に振る舞わざるを得なくなることも、十分自覚しているが、例えば、「辺野古」にしばしば「支援」にやって来てくださる「本土」の「活動家」の皆さん方が、名護や那覇の飲み屋にとても詳しかったり、聞き覚えの「方言」をまじえて、歓談する様などを目撃すると、とても落ち着かない気分になる、何度でも断っておきたいが、「非難」するつもりはかけらもない、ただ、「不幸」な「他者」に、「関心」を寄せていることを、だって、「不幸」な事件とかが、なけりゃ、「こっち」のことなんか、「知る」はずもなかったのでしょ?そんな、臆面もなく、特に「自慢」しているわけではないかもしれないが、表明できる、というのが自分に徴して、想像できなかったから、・・・、「西洋」の学者が、「東洋」には、か・つ・て・すぐれた文明があった、と称賛を惜しまないのは、ほかならぬその文明を、ほかならぬ自・分・た・ち・が、破壊してしまったことを、ちゃんと知っているからこその、その「罪悪感」の「補償」作用からなんでしょう?「オリエンタリズム」をそんな風に解釈するのは、きっと浅はかすぎるんだろうけどね、・・・、お互いが同じくらいに、不幸で、同じくらいに、幸福なのならば、人は人に、そんなに「関心」をもたずとも、暮らしていけた筈じゃない?誰かが、「不平等」に、不幸に陥ったから、そうでなかった人たちが、「同情」と、「ああ、自分でなくてよかった」という、気持ちが入り交じったものを、持ってしまうのでしょう?「かわいそう」、って感じた瞬間に、もう、「見下して」いるんだから、すでにして「パターナリズム」の混入した眼差しになってしまっている、だからって、じゃあ、どうしたらいいの?に答えは見つけられそうにないから、ただ、ああ、いやだいやだ、これ、私の「本心」じゃないんですよ、って、「留保」を示しておきたいみたいに、付箋を貼り付けておくみたいに、「メタ・メッセージ」を、書き込んでおかなければならない衝動に、捉われる・・・。



ビルマでは、名前に、年齢による接頭語がつく。男なら、最初はモン、それからコオになり、社会人になるとという接頭語がつき、女は、未婚の娘には、結婚するとがつく。三十年前のウァンセインは、マ・ウァンセインであったが、いまはド・ウァンセインである。・・・
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チンジャンボエ(水祭り)の日に、私はあなたに水をかけた。憶えていますか」
ウ・サンペさんの通訳で、私はド・ウァンセインと、そんな話をした。ド・ウァンセインは、水祭りのことを憶えていると答えたが、本当かどうかわからない。・・・
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今日は月曜日だが、ビルマ建国の父と言われるウ・オンサンが暗殺された日で、旗日である。・・・
「兵隊蟻が歩いた」古山高麗雄(文春文庫)

上に引用した、「プレオー8の夜明け」の、「エイタン村」の「ウァイッセイ」、少しずつ変えてあるのだね、「ネーパン村」の「ウァンセイン」さんと、30年ぶりに再会を果たす、感動的な場面なのである。「国民統一政府」閣僚一覧のところで参照した、ミャンマーの人名に付す接頭辞の表からは、本文中の「モン」、「コオ」、「ウ」、「マ」、「ド」は、それぞれ、以下のものに当たると思われる。
Maung/မောင်、弟、少年
Ko/ကို、同年代男性
U/ဦး、成人男性
Ma/မ、同年代女性
Daw/ဒေါ်、成人女性
チンジャンボエ」の語尾の「ボエ」はよくわからないが、ともかく、「ティンギャン」とローマ字表記からあてずっぽうで訳していたこの言葉の読み方は、少し怪しいのかもしれない、と不安になり、アン・サン・スー・チーに付される、成人女性の尊称も「ダウ」としていたしね、そのスー・チー氏の父君、アン・サン将軍も、古山高麗雄は、「オンサン」と表記しているしね、ならば、いっそ、この際、「ビルマ文字」も、多少、学んでみようか、「冥途の土産」って訳だね(笑)、ということにした。古山高麗雄が、「戦地再訪」としてフィリピンのカバナツアン、シンガポールからクアラルンプールを訪れたのが、1975年、引き続いて、ビルマ訪問は、その翌年1976年、中国雲南省との国境地帯は、紛争が継続中であるから、訪問は許可されず、ラングーンと、かつての「兵站」地、ネーパン村のみを、再訪したのであった。
Thingyan/သင်္ကြန်、「チンジャン(新年祭・水祭り)」
Aung San/ဗိုလ်ချုပ် အောင်ဆန်、アン・サン(1915-1947)、命日は、7月19日
確かに、カレンダーを参照すると、1976年7月19日は、「月曜日」であった。
今思い出したから、ここに書いておくが、「プレオー8の夜明け」の表題は、彼が戦犯容疑者として収監されていたサイゴン中央刑務所の、「プレオー/中庭」、「8/ユイット」、つまり、中庭に面した8号房、という意味なんだと説明があった、当時ヴェトナムは、フランス植民地当局の支配下にあったからね、ネットのフランス語辞書に、好い加減な綴りを入力してみて、意外にあっさり、発見できた、「préau」、「huit」、と言うわけだ。もう一つ、上の地図には付け加えておいたが、この再訪の記録にも、登場する、「ネーパン村」から、北東に十数キロばかり、イラワジ川に突き当たった河岸の、少し大きな町、「ヘンザダHinthada」。
ビルマ文字

ビルマ文字字母(子音)一覧/母音・声調一覧
では、早速やってみよう、まずは、「新年の水祭り、ティンギャン、あるいは、チンジャン」
သင်္ကြန်/Thingyan
接近音/鼻音s(a) [θ(a)]
軟口蓋音/無気音ကk(a) [k(a)]に介子音r [j]が付されたものだろうか?右上の、イプシロンεみたいな部分はどうなるんだろう?
歯茎音2/鼻音n(a) [n(a)]の上に、母音記号が乗っているのだろうか?いや、違った、語尾が「鼻音」のとき、特別なルールがあるようで、န်低平調[an]、ということらしい。
それでも、だめだ(笑)、発音記号だけ並べたら、「さ・か・なん」になってしまうよ?「ティンギャン」か「チンジャン」、どっちが近いのか?というような微妙な問題には、全然役立ちそうにないね。ま、今日のところは、それでよし、ということで、・・・。もう一つ、成人女性の尊称、「ダウ」あるいは「ド」
ဒေါ်/Daw
、は母音記号[e]の「低平調」
、は子音[d(a)]
ေါ်、は母音記号[ɔ]の「低平調」
wikipedia日本語版での説明によれば、
下降調:「あ!」
低平調:「へぇー」
高平調:「ふーむ」
に近いとのことだから、「へぇー」の気持ちで「でおー」という感じ?、かしら。
ところで、ネット上の「ビルマ語辞書」に、上のを入力してみると、確かに「新年」と出たが、発音は分からなかった、そして、その近くに、「シャワー」という訳で、
သင်္ကြန်မိုး
とあった、
歯茎音2、有声音dh(a) [dˀ(a)]に、高平調[o] ိုး、で、「だお」、ちょっと違うが、これが、古山前掲書の「チンジャンボエ」かも知れない?
もう一つ、「ヒスイ」鉱山に関する上の記事に登場した町の名、ちょうど、古山高麗雄の描く「フーコン谷地」の西方に位置する、「Hpakant」または、「Hpakan」、
ဖားကန့်
唇音有気音[pʰ(a)]+ား[a]高平調
က軟口蓋音無気音[k(a)]
歯茎音鼻音 [n(a)]→န့်[an]下降調
であるから、素人考えでは、「パカン」が近いかと思われる。
もう少し練習、新年祭に演じられる詩と踊りを組み合わせた芸能、Thangyat、「タンギャット」などと訳しておいたが、
သံချပ်
接近音鼻音[θ(a)]+低平調[aN]
軟口蓋音有気音[kʰ(a)]+介子音[j]
声門閉鎖音[aʔ]ပ်

























子音と介子音
無声音有声音鼻音
無気音有気音
軟口蓋音က
k(a) [k(a)]hk(a) [kʰ(a)]g(a) [ɡ(a)]gh(a) [ɡˀ(a)]ng(a) [ŋ(a)]
(硬口蓋音)
c(a) [s(a)]hc(a) [sʰ(a)]j(a) [z(a)]jh(a) [zˀ(a)]ny(a) [ɲ(a)]
歯茎音1
t(a) [t(a)]ht(a) [tʰ(a)]d(a) [d(a)]dh(a) [dˀ(a)]n(a) [n(a)]
歯茎音2
t(a) [t(a)]ht(a) [tʰ(a)]d(a) [d(a)]dh(a) [dˀ(a)]n(a) [n(a)]
唇音
p(a) [p(a)]hp(a) [pʰ(a)]b(a) [b(a)]bh(a) [bˀ(a)]m(a) [m(a)]
接近音
y(a) [j(a)]r(a) [j(a)]l(a) [l(a)]w(a) [w(a)]s(a) [θ(a)]
摩擦音など
h(a) [h(a)]l(a) [l(a)](a) [ʔ(a)]
介子音
(-y [j])(-r [j])(-w [w])(h- [ ̥])
ျွြွျှ
(-yw [(j)w])(-rw [(j)w])(h-y [ ̥ (j)])
ြှွှြွှ
(h-r [ ̥ (j)])(h-w [ ̥w])(h-rw [ ̥(j)w])













母音
下降調低平調高平調
[a]ား
ါး
[i]ီး
[u]ူး
[e]ေ့ေး
[ɛ]ဲ့ယ်
[o]ို့ိုိုး
[ɔ]ော့ော်ော
ေါ့ေါ်ေါ


















[ɴ](鼻音「ン」)の終わり方
下降調低平調高平調
[aɴ]န့်မ့်ံ့န်မ်န်းမ်းံး
an.am.am.anamaman:am:am:
[aɪɴ]ိုင့်ိုင်ိုင်း
uing.uinguing:
[aʊɴ]ောင့်ောင်ောင်း
aung.aungaung:
[ɪɴ]င့်ဉ့်င်ဉ်င်းဉ်း
ang.any.anganyang:any:
[ʊɴ]ွန့်ွမ့်ွန်ွမ်ွန်းွမ်း
wan.wam.wanwamwan:wam:
[eɪɴ]ိန့်ိမ့်ိန်ိမ်ိန်းိမ်း
in.im.inimin:im:
[oʊɴ]ုန့်ုမ့်ုံ့ုန်ုမ်ုံုန်းုမ်းုံး
un.um.um.unumumun:um:um:



















[ʔ](声門閉鎖音)の終わり方
[aʔ]တ်ပ်
atap
[aɪʔ]ိုက်
uik
[aʊʔ]ောက်
auk
[ɪʔ]စ်
ac
[ʊʔ]ွတ်ွပ်
watwap
[eɪʔ]ိတ်ိပ်
itip
[ɛʔ]က်
ak
[oʊʔ]ုတ်ုပ်
utup




台風は逸れてくれたようだけど、昨夜は、雨風か、強かったからね。


日曜はダメよ、Never on Sunday、って映画がございましたな。


メジロ(メジロ科)

デイゴ(マメ科)

シロチドリ(チドリ科)

ヒバリシギ(シギ科)

ダイゼン(チドリ科)、ちゃんと「胸」が「黒」くなって、完全に「夏羽」になっているじゃないか?



人間では退化しているそうだが、鳥は「瞬膜」で瞬きする、あるいは眠るときも、「瞬膜」だけ閉じるのかな?アオアシシギ(シギ科)、ファインダーをのぞきこんでいるときは、右に「隣人」、キアシシギ(シギ科)らしい、がいるのに気がつかなかった、もう、そろそろ、「北」への「渡り」の最終便の季節。

コチドリ(チドリ科)、こちらは、「冬鳥」、まもなく、去るはずだ。

こちらは「留鳥」シロチドリ(チドリ科)、冬の渡り鳥たちが、こうして去ってしまうと、それまでも、ちゃんといた筈なのに(笑)、にわかに、「目立ち」始めるのだな。

旧暦三月九日の月、月の入三時間前

二日連続で、「二人づれ」で、隣家の庭の電線にやってきた、「同一人物」なのだろうか?ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、雨足が写っているだろう?

大型の台風2号は、当地に向かって北北西に直進してきたのが、鋭角的に東向きに方向転換、一番近いときで、500kmばかり隔たっていたのだけれど、三日ほど続けて、なかなか強い雨風だった、一夜明けて晴れ間が見え、浮かれて外に出ると(笑)、・・・、やはり浮かれて(笑)、今日咲いたのかもしれない、テッポウユリ(ユリ科)

台風一過雨上がり、ガジュマル(クワ科)上の、ヒヨドリ(ヒヨドリ科)。

ゲットウ(ショウガ科)、も咲き始めた。



樹上から、「ツツ・ピー・ツツ」が降ってくる、こんな小さな身体とも思えないほど、大きな声、シジュウカラ(シジュウカラ科)。

オキナワキョウチクトウ(キョウチクトウ科)。ジョージ・オーウェルの「ビルマの日々」に、フランジパニfrangipani、という樹木の花がしばしば登場する、別名プルメリアPlumeria、キョウチクトウ科Apocynaceaeインドソケイ属Plumeriinae、・・・、「ソケイ素馨」は、分類は全然異なるが、モクセイ科ソケイ属、ジャスミンであった、この、オキナワキョウチクトウは、当地では、公園などによく植栽されているが、樹皮や果実は有毒、別名「ミフクラギ」は、当地の方言であって、「目(みー)」が「膨れる」ような「木(きー)」、別属ではあるが、どちらも、熱帯、亜熱帯性の植物なので、思い出したまで。
沖縄県・有用植物要覧

インドヨメナ(キク科)、台風一過、久しぶりの散歩で発見したから、なんでもそう思い込んでしまうが(笑)、今日初めて咲いたのかどうかは、わからないね。

トウワタ(ガガイモ科)

アキノノゲシ(キク科)

典型的な「蝶形花」だから、マメ科であることは素人にもわかる、あるいは、八重山での「藍染」に用いる、ナンバンコマツナギ(マメ科)なのでは?と思ってみたものの、似ているところもあるものの(笑)、ちょっと違うような気がする。

テッポウユリ(ユリ科)

旧暦三月十四日の月「待宵」、月の出三時間半





この感想を体に浸みこませてダラットへいってみると、ジンマシンがむらむら発生する。アレルギーが起るのだ。 ここはフランス人の牧師が発見した山間の保養地である。軽井沢によく似た地形であるが、あんな貧乏人の背のびではない。もっともっと金がかかっている。信州や福島あたりの高原にそっくりの松林や、ススキの原や、コスモスの咲乱れる高原を走ってゆくと、松林にかこまれたこの別荘地に着く。霧の這う松林のなかにフランス人たちののこした別荘がある。鎧扉。バルコン。薔薇窓。生垣。城館風であったり別荘風であったりするそれらの木立ちのなかの灯のついた赤い窓にはひめられた快楽や、洗練された情事や、手のよごれていない瞑想、透明な沈思などの匂いがある。山麓と平野にひしめくあらゆる切実なもの、もだえるもの、血を流すもの、つらくてにたにた肌にぬれてくるものなどを遮断するいんぎんな苛酷さに守られた傲慢きわまる衰弱の美が薔薇窓をふちどっている。
空気は澄んで、つめたく、朝と夜には霧が松林のなかをさまよい歩く。湖があり、ゴルフ場があり、修道院の赤い塔が木立ちに見えかくれしている。湖では水上スキーにモーター・ボート、湖畔では貸馬がのんびりと歩く。ゴルフ場の芝生の麓あたりで牝牛が二、三頭モウモウと鳴いていたらそのままチーズかバターの箱の絵になりそうな風景である。ホテルの食堂ではベトナム人の給仕頭がいやらしいくらいたくみなフランス語を話し、サイゴンからきた金持どもがKintamaの皺をのうのうとのばして太鼓腹をそりかえらせて食事していた。着飾った才槌頭やビリケン頭の息子、娘などを脂でにごった魚みたいな眼で満足げに見やりつつ、フランス産のぶどう酒を飲み、蒸した蟹や鱒などをいやいやつついていた。
「ベトナム戦記」開高健(小学館)
林芙美子が、「浮雲」の中で、あれほどまでに称賛したダラトが、このようにこき下ろされている。なるほど、林芙美子は、戦後に書いたこの小説の中で、フランス人の経営する茶園を訪れた感想として、これでは日本はかなわない、との印象を残しているわけだが、それはもとより、関川夏央も言うように、「日本帝国主義」への「批判」、戦争への「反省」なのではなくて、どうして日本は、フランスのように、もっと上・手・に・「植民地経営」ができなかったのか?という、嘆きにしか、聞こえない。結局、この人「フランスかぶれ」だったのね、と言ってみてもしょうがない、それよりも、着目すべきなのは、この、開高健の、ほとんど「病的」でさえある嫌悪感は、実は、林芙美子の、同じく「病的」な憧憬と、同根、裏返し、もっと正確にいえば、同じ「欲望」と、その「検閲・抑圧」かも知れないじゃないか?
「日本人」が、「他の」アジア諸国民に対して「侮蔑的」な態度をしばしば採用するのは、自分の育ってきた時代環境から想像して、「戦後復興」、「高度成長期」に伴う「奢り」なんだと、ずっと、解釈してきたのだが、そうでもないかもしれない、おそらく日露戦争、以来、つまり、この国が「近代国家」としてスタートしてから、ほんのわずかのちからこのかた、すでに人々は、そのような態度をとらねばならない、と、「強迫」されてきたのかもしれない、それは、あるいは、生き延びるためには、必須の手段であったかもしれないが、同時に、その恥ずべき態度に対する「罪悪感」の昇華として、今度は、過度にぎごちなく、「原住民」、「土●民」への「連帯」を語らねばやまぬ、と思い込んでしまう、傾向も登場してくるわけである、「善悪」について論ずるつもりはないのです、最終的には、「善悪」を「決定」しなければならないのかもしれないが、とりあえずは、これらの諸材料を、一つの「病理学的」資料として、読んでみようと思うわけですな、ほかでもない、私自身が、こうして二十年、「異郷」に住み、その地の「原・住・民・」を、憎悪もし、錯覚かも知れないが、愛しもし、その振幅の大きさに、ある種、ボロボロに(笑)疲弊してしまった、というなによりの「病歴」をかかえているからであります、そういう目で見てみると、古山高麗雄も、これは「日本人」ではないものの、ジョージ・オーウェルもまた、「ビルマ人」を「愛そう」とするその身振りに、やはりぎごちなさが読み取れる、どちらの作者も、明確に自覚しているのだが、それは、それぞれ日本軍国主義や、イギリス帝国主義への、「嫌悪」の単なる投影ではないのか?、でも、ならば問わなければならないが、「投影」ではいけないのか?そもそも、何か別の、誰か別のものを対象に「投影」することなしに、「愛する」などと言うのが可能なのか?・・・、結局「愛する」ということがわからないままにまもなく退場することになるのですが、コンラート・ローレンツに「ヒト、イヌに会う」という書物があったと思うが、それになぞらえて、「植民地主義者」が、「原住民」に、「会う」ことについて、その残り時間に、考察してみようかと思います。


「アーロン収容所」会田 雄次 (中公文庫)/「キナバルの民―北ボルネオ紀行 」堺 誠一郎(中公文庫)/「花の町/軍歌『戦友』」井伏鱒二(講談社文芸文庫)/「小津安二郎とシンガポール」貴田庄(Kindle)

「ベトナム戦記」開高健(小学館)/「忘れないよ!ヴェトナム」田口 ランディ(幻冬舎文庫) /「サイゴンのいちばん長い日」近藤紘一(文春文庫)
素通りに近いシンガポールであったが、ここは、井伏鱒二先生が新聞に連載した「花の町」であった。
「花の町」は、昭和十七年の八月から十月まで、東京日日新聞と大阪毎日新聞とに連載された。当時は、今の毎日新聞が、東京日日と大阪毎日という名称で発行されていた。私はこの小説を朝鮮の新義州で読んだ。
・・・
というわけで、私は「花の町」を、終わりの部分を残して、新義州と京城とで読んだのである。朝鮮に入っていたのは、大阪毎日のほうであった。私は「花の町」を読み始めて、飛び上がらんばかりの気持ちを持った、といっても、誇張にはなるまいと思う。十月一日に入隊したために、終わりまで読むことができなかったが、入隊直前に「花の町」を読ませてもらったことを、私は井伏先生に礼を言いたい。無論、その頃は、井伏先生に面識はなく、私は一愛読者に過ぎなかったのであったが、井伏文学は、当時私が特に愛読したもののひとつであった。今になって考えてみると、私はそれまでに愛読した井伏作品にも救われていたわけだが、「花の町」はまた格別であった。報道班員という手枷足枷をはめられた境遇に押し込められながら、こういう心を持ち、こういう手が使えるのだ、と私は、心底驚き、そして救われたような思いになった。
・・・四年ほど前に、毎日新聞社から出版された、「戦争文学全集」の解説で、平野謙氏が「花の町」について次のように言っている。

    最後に、収録作品を久しぶりに読みなおした私としては、さまざまな感想を刺激されたが、全体として井伏鱒二の『花の町』がいちばん気持ちよく読めたことを附言しておきたい。おそらく作者が意識的無意識的に、最初に引用した六か条のタブーを巧みに回避した地点に、作品世界を構築しているからだろう。それは作者の老獪というよりも、天性こういう日常的な世界しか書けないような作家的生理を、井伏鱒二は供えているからだと思う。だから、いつも平静心を見失わぬ『花の町』のような作柄は、それ自体ほかの収録作品のおのずからな批評になっている、といえないこともない。(後略)

同巻の収録作品というのは、石川達三「生きてゐる兵隊」、火野葦平「麦と兵隊」、尾崎士郎「ある従軍部隊」、日比野士郎「呉淞(ウースン)クリーク」、伊藤整「父の記憶」、井伏鱒二「花の町」、丹羽文雄「海賊」、高見順「ノーカナのこと」の八篇である。解説文中、六か条のタブーとあるのは、田中艸太郎が「火野葦平論」で、「麦と兵隊」は次の制約のなかで書かれたと指摘しているというのである。

    日本軍が負けていることを書いてはならない。
    戦争に必然的に伴う罪悪行為に触れてはならない。
    敵は憎々しくいやらしく書かねばならない。
    作戦の全貌を書いてはならない。
    部隊の編成と部隊名を書いてはならない。
    軍人の人間としての表現を許さない。

しかし私には、「花の町」は、井伏先生が、このタブーを巧みに回避し、日常的な世界しか書けないような作家的生理をそなえているために、気持ちのよい作柄の作品を書いたというのではなくて、タブーを巧みに冒した、独特の反戦小説を書いたのだと思われる。日常的な世界をユーモラスに描いて、しかも、そのユーモアの中に、意識的に、批判と怒りと、そして悲しみも諦めもこめられてあって、虚仮(こけ)になっていた私に、ある生き方を教えてくれた作品だと考えている。
「兵隊蟻が歩いた」古山高麗雄(文春文庫)
日比野士郎(1903-1975)、1939年「呉淞クリーク」、戦意高揚文学を多く執筆、戦後は、「半ば筆を折った」とのこと。「呉淞」は、上海市、現・宝山区の一部。

この昭南市で一ばん大きな建物をカセイ・ビルという。
・・・
カセイ・ビルの向って右側には歩道に沿い三十軒続きの長屋がある。弓なりの歩道に沿い、弓なりに続いている二階建の長屋である。
「花の町」井伏鱒二(講談社文芸文庫「花の町/軍歌『戦友』」所収)
これがその、井伏鱒二「花の町」の、冒頭に近い部分、「カセイ・ビル」とは何だろうか?の疑問には、別の書物、貴田庄「小津安二郎とシンガポール」、に答えが見つかった、以前、四方田犬彦「日本映画史百年」で、小津安二郎が、戦時中、シンガポールに滞在しており、そこで、オーソン・ウェルズ「市民ケーン」を見て、日本の敗戦を確信した、なる記述に触れていたから、気にはなっていたのだ、・・・、「カセイ」は、「Cathay」、あるいは「契丹Khitan」に由来するともいわれ、かつてのヨーロッパ人にとって、「China」とは、異なった対象を含意する名称であって、従って、後々まで、東洋に対する「詩的」表現となった、とのこと、・・・、そういえば、香港の航空会社は「キャセイ・パシフィック・エアラインズ」、海外旅行などほとんどせずに終わる一生と、まもなくなるが(笑)、1997年の「返還」の前年、私は、その航空会社の飛行機に乗って、香港に行ったのだった、タラップを降りた瞬間から、もう、肌にまとわりつくような、何とも言えない熱気と湿気、・・・、その数年後、改装前の那覇空港に、初めて降り立った時も同じことを感じた記憶があるけれども、今となっては、もう、その当時は驚嘆すべきであった、「こんなところに人間が住めるのか?」とさえ感じたほどの(笑)、「熱気と湿気」も、日々そのただ中で暮らしているのではないか、と思えば、笑える、・・・、思えば、あれが、私にとっては、「南」との、記念すべき「出会い」だったかも知れないので、・・・、「キャセイ・ビルディングCathay Building国泰大厦」は、1939年に、イギリス人建築家の設計の下、地上階に空調付きの映画館を持ち、上階には、放送局などのほか、住居部分を含む、14階建ての、無論、当時アジア最大の、高層建築としてオープン。

・・・
シンガポールはその前年二月十五日、イギリス軍が降伏し、日本軍に統治されていた。そして、シンガポールは「昭南島」と名前がかえられていた。
・・・
いわゆる有名文化人で、軍報道班員として、己の仕事をすることを目的に南方へ派遣されたのは、なにも小津だけではない。たとえば、美術の世界では藤田嗣治、宮本三郎、向井潤吉などの画家がいる。文学の世界では井伏鱒二、神保光太郎、北川冬彦などの小説家や詩人がいる。
・・・
本題に話を戻すと、映画を撮るために、シンガポールへは小津安二郎、秋山耕作、斎藤良輔、厚田雄春の四人が先発隊として飛び立っている。当時は行動を隠密にする必要があったため、小津が日本を発って、シンガポールに向かった正確な日時がわからないが、・・・小津は六月中旬、福岡の雁ノ巣飛行場から、小さな軍用機に乗ったと推測できる。
・・・
彼は一九四一年十一月に陸軍徴用員として入隊し、十二月、南方への航海中、太平洋戦争開始の報に接している。タイ、マレーを経て、翌年の二月、シンガポールにはいっている。井伏が徴用されていた期間は一年で、一九四二年十一月に徴用解除となって帰国しているので、シンガポールにおける小津との接点はまったくない。なお、シンガポールでは、井伏はキャセイ・ホテルに住んでいない。彼は『花の町』の序文に、「そのころ私は陸軍報道班員として昭南市ロイド・ロード五十五番外に宿舎を持ってゐた」と書いている。そして同宿に、中島健蔵や神保光太郎がいたことも記している。
・・・
小津や松竹のスタッフたちは、英国軍の監視下のもと、島の西部に位置するジュロンの収容所に入る。いつここに入所したのか明確でないが、一九四五年九月初めのようである。
・・・
一九四五年十一月二十三日、第一陣の帰還船「大安丸」が、三千四百人ほどの日本人を乗せてシンガポールを発ったが、それには小津は乗っていない。
・・・
つぎの帰還船「朝嵐丸」がやって来たのは翌年の一月下旬であった。小津もようやく祖国に戻ることになる。
・・・
小津たちを乗せた船は、一九四六年二月十日、広島の大竹に入港する。小津にとって、およそ二年八カ月ぶりの日本の地であった。
「小津安二郎とシンガポール」貴田庄(原宿書房・Kindle)


  • 1941年(昭和16年)11月、井伏鱒二、陸軍徴用員として入隊。
  • 1941年(昭和16年)12月8日、日本軍マレー半島上陸、真珠湾攻撃。
  • 1942年(昭和17年)1月2日、日本軍、マニラ占領。
  • 1942年(昭和17年)2月15日、日本軍、シンガポール占領。
  • 1942年(昭和17年)11月、井伏鱒二、徴用解除、帰国。
  • 1943年(昭和18年)5月、古山高麗雄、宇品港出港。
  • 1943年(昭和18年)6月、小津安二郎、報道班員としてシンガポールへ。
  • 1943年(昭和18年)7月、古山高麗雄、マニラ上陸。
  • 1943年(昭和18年)7月25日、イタリア、ムッソリーニ失脚、バドリオ政権成立。
  • 1943年(昭和18年)8月1日、日本軍占領下にビルマ独立(国家代表バー・モウ)、米英に宣戦。
  • 1943年(昭和18年)10月、古山高麗雄、「コーランポ(クアラルンプール)」に配備。
  • 1943年(昭和18年)10月14日、日本軍占領下にフィリピン共和国独立、大統領ラウレル。
  • 1943年(昭和18年)11月5日、「大東亜会議」開催。
  • 1944年(昭和19年)1月、古山高麗雄、ビルマ、ネーパンに配備。
  • 1944年(昭和19年)6月6日、連合軍北フランス上陸。
  • 1944年(昭和19年)7月4日、インパール作戦失敗、日本軍退却命令。
  • 1945年(昭和20年)4月1日、米軍、沖縄本島上陸。
  • 1945年(昭和20年)5月7日、ドイツ無条件降伏。
  • 1945年(昭和20年)5月、古山高麗雄、捕虜収容所(ラオス)勤務。
  • 1945年(昭和20年)8月6日~9日、米軍、広島、長崎に原子爆弾投下、ソ連、対日参戦。
  • 1945年(昭和20年)8月14日、日本、ポツダム宣言受諾。
  • 1945年(昭和20年)9月、古山高麗雄、戦犯容疑者として、サイゴンの刑務所に収容。
  • 1945年(昭和20年)9月、小津安二郎、ジュロンの収容所に収容。
  • 1946年(昭和21年)1月、小津安二郎、日本への帰還船に乗船。
  • 1947年(昭和22年)10月、古山高麗雄、帰国。

小津安二郎は、「ビルマ作戦・遥かなり父母の国」なる映画の制作のために、シンガポールへ向かったのだが、小津がそのために用意したシナリオは、十分に「国威発揚」的、でなかったのか、軍からクレームをつけられ、企画自体が中断、かわって、当時、日本軍の支援を受け、シンガポールに滞在していた、「自由インド仮政府」代表、スパス・チャンドラ・ボースと、インド独立運動をテーマとする「オン・ツー・デリー」の制作準備に取り掛かり、小津はボース自身とも、会見しているようなのだが、戦況悪化とともに、この企画も中断、フィルムは、収容所に向かう前に焼却処分、・・・、そんなわけで、彼には、比較的時間的余裕があり、このシンガポール滞在を、古典文学研究などに費やしているようである、・・・、のちの「晩春」には、能鑑賞の場面が長々登場するけれども、それもこの時期の研究の一つの成果なのだ、と言われれば、なるほど、納得される、・・・、また、四方田犬彦の記述についていえば、シンガポール占領時に、日本軍が、まさに、最新鋭の映画館でもあった「キャセイ・ビル」を接収したのであるから、そこには、英米の映画の、夥しいフィルムが「没収品」として蓄えられていたらしい、熱して溶かして、軍用品の塗装に用いる、ということだったが、もちろん、映画人たちとしては、そんな「もったいない」、夜間にこっそり、「映写機の点検」と称して、仲間内での上映会を行った、という事情だったようである、ちなみに、この書物によれば、確かに、その時見たフィルムに、オーソン・ウェルズ「市民ケーン」も上がっているものの、小津が「日本の敗戦を確信」するきっかけとなったのは、ディズニーの作品だった、とのこと、・・・、そんな興味も尽きないのだが、今日のところは、井伏鱒二「花の町」に話を戻して、またしても、シンガポールという「花の町」の、地図の上での「散歩」、マレー語で「ジャランジャラン」というそうだ、に出てみようと思う。
・・・
で、その「カセイ・ビル」、だが、小津安二郎は、ほかならぬそのビルの上階に滞在していたそうで、自筆の絵が残されている、真ん中のが、まるで、小津映画そのままに(笑)、地上から仰ぎ見たのがもの、右のが、彼の居室から、眺め降ろしたもの、井伏鱒二の言う、「三十軒続きの長屋」は、まさにこれであろう、と、貴田庄氏は考証している、・・・、左の写真は、おそらく日本占領前の、写真、wikipedia掲載のものだが、小津の手書きのものとは、方角が異なるのだろうとは想像できる。現在の様子をグーグルマップの航空写真モードで見ても、さすがに「長屋」的なものの痕跡を見つけることができず、だが、北側に、「Adis Rd」なる、湾曲した通りがあるのは、その「長屋」街の名残かも知れず、そうだとすると、小津は、ビルから、北東方向を見下ろして、この右側の絵を描いたことになろう、また、左の写真が、比較的広々ととした南側から撮影しているのだとすれば、今度は、小津の真ん中の写生は、北東側、その「Adis Rd」のさらに向こうから、「長屋」街を手前に取り込んで、見上げた、と思えば、屋上にある塔状の構造物、こういうのを「ペントハウス」と呼ぶのだそうである、の向きも、辻褄が合うことにはなる。


(1)「見るからに彼は全く究理の学徒の如くに立ち働く。彼は昨年十二月の上旬までガヴァメント・スクールの生徒であった。多分にラッフルス大学生の気風を存している。」
(2)「それは、いかにも可憐に見える草ではないか。私は当地マライに来てこのかた随処にこの草を見た。我々日本人はこれをオジギ草といっている。」
(3)校門の入口にランブータンの大木が生え、門と同じ高さの大きな看板があった。
(4)そして木山喜代三と相乗りで人力車におさまると、日本語で「おい、あっちだ」と車夫にいってキリネー・ロードの方角を指差した。それでも上機嫌らしい様子であった。 車は大通りのオーチャード・ロードに出て、人通りの少ないキリネー・ロードに入って行った。これが宿舎に帰る道順である。
・・・
オーチャード・ロードからキリネー・ロードに折れ、そのキリネー・ロードのまんなかごろから左に折れる道がロイド・ロードである。すぐ坂の上の道につきあたってしまう短い道で、幾分だらだら坂になっている。その坂道の右側に花壇を前にひかえた二階建のカンポン・ハウスがある。住宅だが長屋の形式で里村小屋という訳語がある。
(5)「ははあ、あの英語の声、築地さんの声ですな。私はまた誰か、現地人の生意気なユーラシアンでも来て、甲声たててるのかと思って駈けつけて来たです。」
(6)門廊の両側には共に見上げるほど大きなシャボテンが生え、通路には芝生の端に沿ってサダンの木やプリンなどの植込がある。その他にもいろんな大木が生えている。木山喜代三はタムリンにきいて木の名前を覚えたが、形といい大きさといい茶枕のような果実をみのらせているナンカの木が茂り、門の出口にはよく茂ったジャンブータンの大木がある。
(7)「・・・私たち一家の者は日本軍の空襲におそれをなして、一月十五日にこの町を出て、ブキテマ本通りから三哩さきの密林に避難した。」
(8)「・・・しかしながら自分は、東京時間の午後二時から昼寝をする習慣がある。・・・」
(9)「この樹木はカスカラの木である。マライ人は、これをシーナの木といっている。」
(10)「・・・戦争が始まってから、野菜と、肉と、魚と、砂糖と、石鹼がなくなりました。日本軍がここに来てから、この町の人は、それらをほしいと、急にいう人がございました。」
ベン・リヨンはポケットから、今度は袖珍辞典をとり出して、彼のつかいたい言葉を器用に見つけ出していった。 「その人たちは、こっそりと嫌味を、いったのでございます。・・・」
(11)彼は散歩のジャランジャランと、有難うのテレマカシと、花のブンガと、この三つの言葉以外には、マライ語はまだなんにも覚えていないといって笑うのである。
(12)日が暮れた。三十軒長屋の筋向いの酒場の屋根の上に、第十六夜の満月が見えた。ここの現地では、十四夜、十五夜、十六夜と、三晩つづけて満月である
(13)「きょうは、涼しかったですなあ。きのう、自分は広島の友人から、六月十二日午後三時に書き終わった長い手紙をもらったですが、その日は、広島の気温は九十度であったと書いてあります。このぶんなら、もし戦地ということを忘れたら、ここは避暑地のようなものですなあ。」
(14)「おお、ブンガ・チャパカ。その匂・・・・・・」
彼女は木山たちの方を振向いて、むしろ楽しそうな声でいった。
「私のうちのトミーは、この花の匂を好みます。私はこの花の枝を折りとって帰ります。おお、何という屈託なさそうな、あどけない感じの匂でございましょう。」
・・・
「この花の匂・・・・・・そして、この地面の穴は、砲弾の跡でございます。日本軍が二月十四日に、ブキテマからカセイ・ビルを撃ちました。しかし今日は、誰がこの穴にこのチャパカの花を投げ込んだのでございましょう。」穴の中には、底の方に溜り水が見え、木の枝をどっさり投げ込んであった。あまい強烈な花の匂がする。栗の葉のような形の葉の附根に、白魚みたいな花弁を持った花が咲いている。それが幾つも幾つもほの白く見えた。
(15)彼女は木山のそばの椅子に腕をかけ、口をきく前に鉛筆でカードに漢字を書いた。「儞飲啤酒嗎?」一字ずつ丁寧に、ゆっくりと書いた。それは「ビールを飲むか」という意味である。
・・・
卓上の水盤にはオーケーという蘭科の草花が活けてあった。金魚のような花である。
・・・
「這種夜来香花呢、有両種、有白的有紅的、白的日間不甚香、但由夜間十点鐘起至到明朝的時候就発起香味来了。」それは「このブンガ・チャパカは白と赤の二種あって、白い花のものは夜十時から匂いはじめ、夜明け頃まで匂う」という意味のようである。
(16)「きのうは、支那人のセブン・シスターズの日でありました。それで私の母が、お寺に行って祈りました。・・・」
「・・・しかし君のいま云った支那人の、セブン・シスターズの日とは何のことかね。」
「それは支那の暦で、第七番目の月の、第七番目の日のことであります。その日の夜は、空の二つの星の川が一つになります。下界の女の子が、果物をブダアに供えて祈ります。」
「そりゃ、日本語でタナバタ様の日というのだ。・・・」
(17)ドアをノックする音がして、ユーラシアンの小男が訪ねて来た。これは現地新聞昭南タイムズの記者で名前はウェルフェアという。シンガポール陥落直後のころ、しばらく木山はタイムズに勤務していた関係から、この者と知合いである。
(18)「木山さん、このビルディングは戦争の前と今はちがいます。犬または支那人、マライ人、インド人は、ここにはいることができませんでした。」
「戦争が始まってからは、どんな工合だったかね。」
「みんなの人々が、ここの地下室に逃げて来ました。しかし支那人のクラークが、英国人でない人たちを追い出しました。また、私の母が私たちをここに連れて来ました。私たちは追い出されました。」
・・・
(1)「ラッフルズ大学Raffles Institution」、スタンフォード・ラッフルズStamford Raffles(1781-1826)によって、1823年に創立された学校。ラッフルズは、イギリス東インド会社職員、1805年、マレー半島ペナン島(プリンス・オブ・ウェールズ島)赴任、1811年、フランスの影響下にあったジャワへの遠征軍に参加、副総督となる、1818年、徐ホール王国の内紛に乗じてシンガポール占領、1820年自由貿易港宣言、という経歴。ジャワのボロブドゥールBorobudur遺跡の再発見者であり、世界最大の花、「ラフレシアRafflesia」は、彼の名前にちなむ、とのこと。
(2)(3)(6)(9)(14)「花の町」というだけあって、南国の植物に関する記述が、たくさんあるのだが、おそらくはマレー語、を、井伏氏自身が、音訳したものであろうから、ほとんど突き止めることができなかったのは残念であるが、またそのうち、偶然に見つかることもあろう、ということで、メモを残しておくことにする。
オジギソウ(マメ科)
ランブータンNephelium lappaceum L.(ムクロジ科Sapindaceae)
これと、「シャボテン」を除き、あとは、不明。
(5)のちに見ることになるが、ジョージ・オーウェル「ビルマの日々」にも、「ヨーロッパ人」と「アジア人」の間の「混血」、という意味での「ユーラシアンEurasian」という用語が、登場していた。
(8)日本の植民地主義者は、植民地に対して、「本国」の時刻使用を要求していたらしい。シンガポールは、
北緯1.352083、東経103.819836
日本標準時である明石、
北緯34.643208、東経134.997586
と約30度の差があるから、
24×(30/360)=2
2時間の隔たりがあって当然だが、下図のように、「タイム・ゾーン」としては、1時間の差にとどまるようである。

(12)(16)井伏鱒二がシンガポールに滞在したのは、1941年11月から、翌1942年11月まで、その間に「七夕」があったとすれば、それは1942年の旧七月七日、となろう、いつもの「旧暦・月例付きカレンダー」サイトに問い合わせれば、それは、グレゴリオ暦では、1942年8月18日となった、ならば、その直前の、「満月」、十四夜、十五夜、十六夜は、7月26日~28日、となる。
(13)むろんこれは、「華氏(ファーレンハイト)90°」のことで、「摂氏(セルシウス)」に変換すれば、
(90-32)×(100/180)=32.2
徳富蘆花「不如帰」だったかにも、「華氏」の温度表記が出てきた記憶があるが、「戦前」、一般にそうだったのか、それとも、「軍隊」特有のものなのか、ちょっと不明。さらに、広島からシンガポールまで、船便で手紙が届く時間を考慮すれば、上の日付の「推定」も、悪くないかもしれない。

(14)(15)おそらく、この「ブンガ・チャパカ」、(11)にあるように、「ブンガ」は「花」、だから、「チャパカ」の強い「匂」こそが、この作品のタイトルを引き出したのだろうと思うのだが、夜に咲く、というから、古山高麗雄のビルマにも登場した「ヤコウボク」かとも思ったりもしたのだが、それらしい呼び名も見つからずじまい。
(15)この中国語なら、わかる!シンガポールは、人口の3分の1くらいが、「マンダリンMandarin」中国語の話者だとあるから、あるいは、発音は「普通話」、だとすれば、「にー・いん・ぴーちゅう・ま?」でよいのかも、と思ったら、少し嬉しくなったので。
儞飲啤酒嗎?
実は、シンガポールで、一晩過ごしたことがあるのだ、アムステルダム発、成田行き、「南回りヨーロッパ便」、そうだ、航空会社も「シンガポール・エアライン」だった、その時パクってきた(笑)、食事用のナイフとフォーク、そういえばまだ使っている、・・・、当然にも、シンガポールが乗り継ぎで、確か、7~8時間ほど、待ち時間が出たのだね、でも、何かと手間取っているうちに、そう、今、地図を見てもよくわかる、「Jewel Changi Airport」と呼ばれる、シンガポール・チャンギー国際空港は、町の東のはずれにあり、シャトルバスを利用しなければ、市街との往復ができない、と言われて、諦め、空港施設内で、時間をつぶすことになったのだった、・・・、それでも結構楽しかった、「フード・コート」みたいなところで、シーフードの焼きそばか何かをつまみに、旅も終わりだから、手元にある現金、全部使い切ってもいい、って気やすさも手伝って、ビールばかり飲んだ。思い出した、「タイガー・ビール」だ。「Beer in Singapore」によれば、1931年に、地元の「Fraser & Neave」社と、ハイネケンの合弁で、創立された会社の製品、そういえば、「マンダレー・ビール」を吸収したのも、この会社だった記憶があるぞ、・・・、日本占領下では、「大日本麦酒」、これは、アサヒ、サッポロの前身にあたる、とのこと、が接収。
・・・
自分が内心、軽蔑してやまない、「軍人文化」のただなかに入って行かなければならないときに、「反戦反軍の言辞を弄し」かねない、若き古山高麗雄氏が、この新聞小説の、「戦略」に触れ、ああ、こんな風にやっていけるんだ、と「飛び上がらんばかりの気持ち」になった、という、そこに近づくことはとうていできそうにないが、「検閲」とか「転向」とか、そんなことについて、さまざまに考えさせてくれる作品ではあった。「転向」と「偽装転向」に区別がつかないように、「『検閲』に唯々諾々と従っている」のと、いや「『検閲』を出し抜いている」のだ、というのも、やはり、外形からは、原理的に、区・別・がつかない。それは、例えば「偽善」という言葉にも似て、その言葉で人を詰ることは、常に可能である、なぜなら、そう言われて、心に思い当たるところ、のぜんぜんない者、「疚しさ」を感じない者は、おそらく一人もあり得ないから、・・・、という意味で、それは、「常に正しい言葉」、でし・か・なく、そして、「常に正しい言葉」は、逆に、発する「意味」がない、「情報価値」が、ゼロ、なのである。
「惜別」の中で、仙台留学中の魯迅に擬えた主人公が、滔々と「国体」を論ずる一節を読んだ時、あれ?太宰治は「転向者」じゃないかもしれない、と感じたのがきっかけだったね、・・・、太宰その人が、「検閲」を意識して、ことさらにそれを「愚弄」しているのだろうか?ならば、検閲官その人は、「愚弄」されたことに気づかなかったのだろうか?そんなわけはないだろう、とか考えを進めてみれば、・・・、「軍国主義」国家、というのは、そんなに「熱い」情熱に突き動かされたりするものなんじゃなくて、むしろ、小心な官僚組織が、うっかり身動きが取れなくなってしまったに過ぎないものなんじゃないか、「過ぎない」からといって、それが難儀なものであることには変わりはないけれども、「陰謀論」みたいに、例えば検閲官が、冷徹極まりない知性を持って職務を遂行しているに違いない、なんて、その方がありそうもないことなんじゃないか?どちらにも、必ず、言わば「ボロ」が出る、それが後・か・ら・見れば、「逆らった」とでも「出し抜いた」とでも、「厳正だ」とでも「意外に寛容だ」とでも、「評価」するなら、どちらにでも転ばすことができる。もちろん、「当事者」は、そんな気楽なことを言ってはいられなかったんだろうけどね。
引用部分で言うなら、(18)ならば、あるいは、イギリス人の人種主義を詰りつつ、「アジア人」同士、という「大東亜共栄」幻想を扇動、と読むこともできるだろうが、(10)ならば、「町の人」が「日本軍」に「嫌味」を言っている、これが「反日的」とはねられなかったのは、なぜなのか?
去年、いや、もう一昨年になるのか、それこそ、小津安二郎がきっかけだ、「麦秋」の中で「麦と兵隊」が言及されていたから、長年避けていたこの小説を初めて読んだ、・・・、もちろん、これは、「土と兵隊」ですでに名望を挙げていたこの作家、火野葦平に、軍部そのものが、アプローチして、「戦意高揚文学」を書・か・せ・る・ために、前線に送り込み、そして、お・約・束・通・り・できあがったはずの作品なのだから、いわゆる「弁護」の余地はないはずなのだが、困ったことに、そんなに不愉快な読後感ではなかったのだな。ここ、「火野葦平『土と兵隊・麦と兵隊』」、に、長々と引用しておいたが、日本軍の侵攻を前に、住民が逃げだしたあとの廃屋で、門口や壁に書かれた、祝い事の文字を手帳に書き留める場面など、「敵」ではないにしても、「敵」が守ろうとしている「人民」が、少しも「憎々しく」も「いやらしく」も描かれていない、そこに、やや驚かされた。ほとんど「取って付けた」ような、「愛国的」言辞がほとばしり出るのは、唯一、書き手自身が「敵」の迫撃砲攻撃にさらされる場面だが、それもまた、身体的な恐怖に対する、一瞬の「パニック」反応にしか見えない気さえする。四方田犬彦がどこかで書いていたが、あるアフリカの町の映画館で、古いアメリカだったかフランスだったかの映画がかかっている、「白人」の探検家が、「野蛮人」を片っ端から「やっつける」ひどい人種差別映画なのだが、観客の「アフリカ人」たちは、主人公が「土人」を殺すたびに、やんややんやの歓声を上げるんだそうである。私自身にも、類似の経験があって、ジョン・フォード監督の「コレヒドール戦記」を、廉価版DVDで観ていたんだが、マニラ上空に現れた日本軍の航空隊の爆撃に対して、対空砲火で応戦する、「ゼロ戦」の、もちろん模型だけれども、が火を噴いて墜落していくたびに、手に汗握って、ほっとしている自分を発見したのだな、別にそれは、私が、元来「反日的」であるかも知れないことなどとは、関係がない、・・・、人は、状況によって与えられた「役割」によって、身振りを選択するものかも知れず、ならば、それは、むしろ「希望」であるかも知れないのだ、・・・、迫撃砲下の火野葦平が「憎んだ」のは、ただその瞬間、迫撃砲をふらせて来る「敵」なのであって、・・・、彼がおそらく無・理・し・て・書いたように、「日本」を「愛する」とかいうこととは、特に関係なくてもよい。「立場」を入れ替えることができる、もちろん、「従軍作家」は全力で抵抗しただろうが、その瞬間、彼は、今度は、日本軍の迫撃砲下にある中国人兵士の、「怒り」と「恐怖」を、「理解」、「共感」してしまっているのだからね。
・・・
ひとまずこの辺にして、以下の、会田雄次「アーロン収容所」、以外の書物についてのお話は、字数オーバーが近いようなので、「植民地主義者、『原住民』に会う」症候群、と名付けようと思う、・・・、ものについて、その「続編」、へ、続けることにする。



しかしM班長にはよき補佐役がいた。ビルマ人兵補モングイという若い青年である。このモングイは終戦の半年ほど前、中部ビルマで配備されたビルマ国民兵の一人であった。他のビルマ人兵補は死んだり、逃げたりしたが、モングイだけはこの幽鬼のような日本敗残部隊に最後まで忠実に仕えたのである。背の低い、がっしりした好青年で、マラリアには強く、M班長とともにこの時期の中隊にとってもっとも大切な一員となっていたのだった。丸木舟など、名船頭のかれがいなかったら、どうにもならなかっただろう。
私たちはこの対峙中に終戦を聞いた。八月十五日、今までドンドコ、ドンドコ絶え間なしにうっていた砲弾が急に止み、死んだような静けさになった。そののち局部的な衝突があって、また銃砲声が聞こえだした。私たちはどうなるのか見当がつかなかったが、二十日すぎになって後方へ終結せよという命令が出たのである。
モングイの処置が問題になった。ここでかれを自由にしてやらねばならない。そこで心ばかりの別れの小宴をひらき、役に立たないかもしれないが、軍票や石鹸やタオルなど、各自おのおのしまっておいたもののなかから餞別をおくり、日本軍が負けたこと、一緒に英軍の捕虜になるわけにはゆかないし、モングイが日本軍と行動をともにしたことは誰も知らないから、ここで別れた方がよいだろうという意味のことを話した。それに対してモングイはつぎのように答えたのである。そのたどたどしい日本語と、ビルマ語との混じりあった話の大意はこうである。
マスターたちは負けた。残念だろうが、これも運命なのだ。気を落とすことはない。昔はビルマは強国だった。そこへイングリが来て、ビルマ人をみんな追いはらい、長い間いばっていた。それを日本人がイラワジ河へたたき落してしまった。しかし、その日本を今度はまたイングリが追いはらったのだ。すべては流転する。このイングリもやがては消えるか、イラワジ河に落ちてしまうだろう。ごらんなさい、このシッタン河を。日本軍が勝っても英軍が勝っても、同じように変わらず、ゆっくりと渦をまいて流れている。人間のやることはどんなことでも、時と運命によって幻のように消えくずれてしまう。自然は変わらない。イラワジ河はもっともっと大きい。この河はすべての人間の栄枯盛衰をのみつくして永遠に流れてゆくでしょう。ビルマも昔のままの姿で残ります。それが仏陀の知恵なのです。私たちはこの仏陀とともに生きているのです。」
私たちは茫然とした。まことに申しわけないが、私たちはこのよく働くビルマ人を可愛がっていたというものの、何もわからぬ上等な家畜のようにしか考えていなかった。しかしこの愚直そのもののような青年の口からいまもれているのは、もっとも適切な瞬間における諸行無常と諦観の教えなのである。
「アーロン収容所」会田雄次(中公文庫)
この後、筆者は、どうして、この国の小乗仏教が民衆の間に息づき続け得たのか、と言った論題については、遠慮がちに軽く触れたままにしている、・・・、私もまた、その70年以上後、「Failed State/失敗に帰した国家」と呼ばれ続けてきた、同じ国から伝わってくるニュースの、催涙ガスと実弾の中で、なお街頭に立ち続ける人々の、姿を見るにつけ、あまりにも「想像を絶している」ものに直面したとき、それを「受け入れる」ためには、「何・か・理・由・を・探・さ・ね・ば・な・ら・な・い・」と急き立てられる、という、いわば「防衛機制」によるものだろう、類似の「解釈」への誘惑を感じてしまうのだが、「解釈」は時として、「他者」を「理解」しようとするよりは、むしろ、「理解」し・な・く・てもすむ場所、「他者」を「他者」性の領野に放置することにもなりかねない、それよりは、「理解」出・来・な・い・、「理解」への欲望が挫折したままにしておく方が、まだ、可能性があるかも知れないのである。会田雄次氏の所属する、京都編成「安」兵団は、「昭和十八年秋」、1943年秋、に動員され、同年暮れ、門司港を出発、米軍潜水艦の魚雷攻撃を避けて「カムラン湾へにげこみ」、サイゴンに到着、「ビルマの戦況が急変」するとともに、「昭和十九年」、1944年、「三月のはじめだったか」、ビルマに「緊急輸送された」、・・・

こうなると私たち初年兵には、師団の行動がどうなっているのかわからない。馬の輸送を命じられて、ビルマ南西のアキャブ近くから、北東端のラシオまで、馬といっしょに、乗ったり歩いたり、何やかや追いまわされているうち、師団主力は、シャン地方に降下した敵空挺部隊を攻撃していた。この攻撃は成功したらしいが、追撃戦に移って、こちらも壊滅的な損害を受け、戦力らしいものはこれですっかり失ってしまった。・・・
・・・だからメークテーラの戦いでは、戦車集団に突破され、大混乱となった。・・・
その直後、全ビルマ方面軍の総退却がはじまる。マンダレー南方イラワジ河会戦、トングーの戦いと、後退戦を続けながら、昭和二十年の初夏、「安」師団はビルマ南岸のシッタン河岸にたどり着いた。・・・
「アーロン収容所」会田雄次(中公文庫)

「アキャブAhkyaib/Akyab」は、現在のラカイン州シトウェSittwe、その名のパゴダがあったようで、イギリス植民地当局がそう命名していた、とのこと。「シャン高原」は、マンダレー東方、現在のシャン州Shan State、「メークテーラMeiktila」は、マンダレーとニャピドウの中間、現在大きな空軍基地があるようで、何者かによるロケット弾攻撃があったとの報が伝わってきた、「トングー」は不明、インドマニプール州に「Tongou」があるが、遠すぎる、いや、発見した、シッタン河沿い、ニャピドウとバゴーの中間あたりに、「Taungoo」。
上でみたように、古山高麗雄一等兵の所属する「勇」兵団は、1945年3月、雲南戦線を離脱して、「仏印」に「転進」する、「全ビルマ方面軍の総退却」はその直後であろう。「シッタン河Sittang River)」は、これも古山高麗雄が書いていたように、ビルマを北から南に流下する大河川は、3本平行に走っていて、東から、サルウィン川Salween River、シッタン河、イラワジ川Irrawaddy)(エーヤワディー川Ayeyarwady)、シッタン河は、バゴー東方で、「マルタバン湾Gulf of Martaban」に注ぐようだから、「ビルマ南岸のシッタン河岸」も、その辺りということになろう。
上の引用部分にある「ビルマ国民兵」が、1941年12月に、日本軍が、アン・サンらを勧誘、海南島Hainanで創立した「ビルマ独立義勇軍Burma Independence Army (BIA)」そのものを指すのかどうかはわからない、「BIA」はその後、「ビルマ国民軍Burma National Army(BNA)」と名を変え、1944年8月、「反ファシスト機構Anti-Fascist Organisation (AFO)」の決議に基づき、1945年3月27日の一斉蜂起により、日本との戦闘を開始した、ことは、前回、述べたが、少し考えてみれば当然であるが、「BIA/BNA」の兵士たちの中には、すでに十分親密な日本軍との関係を打ち立てていたものも多かったであろう、古山高麗雄「フーコン戦記」にも、日本軍の一翼にビルマ人部隊が参加していたことが描かれている、ならば、「民族」の未来を賭けた重大な組織決定であるとはいえ、昨日まで辛苦を共にした「同志」を、「裏切る」ことになるのを、肯んずることができなかった人たちが、少なからず存在したとしても少しも不思議ではないのだね、ここに描かれるモングイ君をはじめ、そのような人々は、日本撤退後には、イギリス占領者からはもとより、「BIA/BNA」そのものからも、「通敵者」として指弾されることになりかねなかったのだろう、さらに、ほどなく、イギリス植民地主義者との闘争を経て、独立を得るのだが、その過程を考えれば、もとより、70年以上にわたって、この国を「Failed State/失敗に帰した国家」たらしめてきたところの、諸民族間の敵対関係は、イギリス植民地主義者の「分割統治」が、種を蒔いたものであることは疑いないにかかわらず、極めて短期間に過ぎない日本による占領は、それを、解きほぐすことがきわめて困難なまでに激化する以外のことを、何もしていない、とも思え、またしても、落ち着かない気持ちにさせられることは否めない。現下のミャンマー「フンタ(軍政当局)」の、明らかに度を過ごした残虐性は、「誰に教わったのだ?」との、あるいは危険かもしれない問いを立ててみようと思う。「ジェニンの朝」で、スーザン・アブルハゥワが描いていた、1947年「ナクバ」の最中、難民支援団体の尼僧が、イスラエル兵に向かって言う、「あなたたちが今やっていることは、ヨーロッパで、あなたたちを助けようとした私たちの前に立ちふさがったナチと同じことなのよ」、・・・、「戦争」を「記憶」することで次の戦争が回避されたことが現にあったのかどうかは、知らない、むしろ、「戦争」は、ちゃんと「記憶」され、新たな「レパートリー」に組み込まれ、次の戦争のために、「伝承」されている、のではないのか?例えば、「特高警察」が「日本共産党」に対して、よくもあそこまで、巧妙な破壊工作をなし得たものだ、・・・、それは、ほかならぬ「スターリン」から学んだのだよ、と、言えるかもしれないではないか、証拠はあまりないし、あまりに時間が接近しすぎているから、あり得ない、ということにもなりかねないが、「情報」というものは、そのくらいの速度を持ちかねないという気もするのである。去る3月27日は、上に見たように、日本に対する一斉蜂起を記念して、今日ミャンマーの「国軍記念日」となっているわけだが、その「BIA/BNA」を最初に創設したのは、ほかならぬ日本軍なのであって、ならばそこには、何か「伝承」されたものが、あり得たのではないかと仮定しても、それほど突飛な発想とも思えなくなってきた。何度も言い訳をする必要を感ずるが、もとより「善悪」を論じてはいないよ。「善悪」を論じ、自分だけは常に「善」の「側」にあると、強迫的に主張し続けたがる「人間」をよそに、「栄枯盛衰をのみつくし」ていくのが、「仏陀の知恵」なのだ、などと言えば、あまりにも牽強付会であるが、「人間」は、自分のしていること、それどころか、自分の考えていることすら、何もわかっていないのだ、「考え」たことに従って行動を「選択」する「自由」など、どこにもないのだ、という、ダーウィン、マルクス、フロイトに始原する、二十世紀の与えてくれた最良の「諦観」を、ちゃんと受け入れよう、と願っているだけなのだが。いや、ちょっと違うかな?所与の状況の中で、ただ一つしか有り得なかったかもしれない「選・択・肢・」を選んだからと言って、「利害関係」のない他人が、「非難」したり「賞賛」したりすべき筋合いはない、あくまでもそんなことに固執するとしたら、むしろ、自分自身の「罪悪感」を「昇華」すべく、「え、わたし?、わたしなら、大丈夫よ!」と、自分ばかりが救われたいばかりの、「自己愛」の表明、「蜘蛛の糸」のカンダタの「無慈悲」、を疑わなければならないではないか、という所かな?英語には、「Survivor's Guilt」という言葉があるようで、生き残った者は、死んでしまった者に対して、何ら、「故意」、「過失」と言った「責任」がない場合でも、「罪悪感」を持ってしまうものらしい、それは、致し方のないことであり、また、美しい「共感」をはぐくむものでもありうるけれど、同時に、その「罪の意識」から、逃れるための、「責任転嫁」を、しばしば伴ってしまう、・・・、「いや、彼らにも落・ち・度・があったのでは?」、それは、まことに「死者に鞭打つ」ことであって、「弔い/喪」の身振りとは、対極のものになってしまう、「喪の作業」は、「躁的防衛」に頼ることなく、従って、「抑鬱」状態を、「治癒」することを、しばし断念することにほかならない、もちろん、私は、自分の「病」を「隠喩」として語っている、もちろん、間違っている可能性は大だけれども、・・・。
しかし、このような、モングイ君の言葉を聞いたなら、会田雄次氏(1916-1997)ならずとも「茫然と」なってしまうだろう。略歴を見ると、1979年、人文研教授を定年退官、後、名誉教授、とあるから、私の在学中も、在職されていたことになるな、「え?単なる『保守・反動』でしょ?」で片づけて、この著名な著書にも一顧だに与えなかった、ま、書物には、出会うべき「時機」というものがありそうだから、特に悔やむことはしないことにするけれど、そもそも、読むことにしたきっかけは、やはり、古山高麗雄で、こんな一節、・・・、
・・・そして会田氏にとっても、「ビルマは郷愁といえるほど懐かしさを以て迫ってくる土地であり、今度もし行ったら帰れなくなるのではないかと思ったくらいである。私はビルマ語を殆ど話せない。それにビルマはやたら暑いだけの『貧乏国』といわれる。なぜそんな気になるのか」と書かれている。
それは、ビルマ人の人柄にひかれてのことだ、と会田氏は言う。その人柄の良さを語るために会田氏は、接した幾人かのビルマ人の暖かい、思いやりのある、親切な行為を紹介する。
民族には民族性というものがあって、ビルマ人の民族性は、確かに、私にも快いものを感じさせてくれた。おそらく私も、”ビルマ患者”の一人であろうと思われる。そうでなければ、旅立つ前、五十代半ばの私が、まるで少年のように上気して胸をわくわくさせるはずがない。そして、私が”ビルマ患者”になった理由も、ビルマ人の民族性への好感が、大きな要因になっているのだろうと思う。
しかし、私は、個人の暖かさや、思いやりや、あるいは、悪意や悪行を、民族性の例として取り上げることができない。そういうことも、できないわけのものではないかも知れないが、私にはできない。
私はそのようにではなくて、漠然ととりとめなく、ビルマ人の民族性に好感をいだかされている。そして、この感じのほうが確かだと思っている。だが、だからといって、私は、二者択一的に、好感のもてる民族ともてない民族とに民族を分けるようなことはしたくない。まして、日本や日本人に好意をもつ国や民族、そうではない国や民族といったような分け方はしたくない。・・・
「兵隊蟻が歩いた」古山高麗雄(文春文庫)
この最後の部分が、「ビルマ患者」を自任する、会田雄次氏に対するやんわりした批判になっているのかどうかは、今のところわからないが、「保守・反動」のレッテルにもかかわらず(笑)、また途中なのだが、読んだ限りでは、「イギリス人」に代表される「ヨーロッパ・ヒューマニズム」の欺瞞性を暴くた・め・に・、「アジア人」を、それこそ「二者択一的」に、持ち上げているわけでもない、「インド人」、「グルカ兵」に対して、ちゃんと礼譲と、敬意を備えた記述をされているのに、遅きに失したが、脱帽しようと思う、・・・、またのちに詳述するつもりだが、特に、重要と思われるのは、一般に、「戦記」と呼ばれる書物には、「敵」、というものが、そもそも「誰」なのか?について、不問に付されていることが多いことに気づかされていた、・・・、ビルマの戦場で、日本軍と戦ったのは、「米英支」、つまり、アメリカ、イギリス、中国(中華民国)、の「連合軍」なのであるが、その「イギリス軍」たるや、司令官はいざ知らず、前線の兵士は、もっぱら、ネパール出身の「グルカ兵」、英領インドから召集された「インド兵」、ビルマ戦線には、その中でも、アッサム、ベンガルなど、東部ビルマ国境地帯出身者、あるいは、南部ドラヴィダ系の兵士が多かった、ようである、そして、古山氏の書物には、時たま触れられてあるが、ここに、イギリス植民地統治下のビルマでは、多数派バマール族とは異なった優遇を受けていたらしいカレン族やカチン族の兵士も、含まれていたようなのである、さらに、ビルマ戦線に従事した英軍は、「第十四軍/Fourteenth Army (United Kingdom)」と呼ばれるらしいのだが、調べてみると、その部隊には、英領東アフリカ、すなわち、ケニア、スーダン、英領西アフリカ、ナイジェリアなど、出身の兵士も、派遣されていたらしい、・・・、そこで思い浮かばされるのは、ロバート・キャパ「ちょっとピンぼけ」の中で、ノルマンディ上陸の場面、「自由フランス」指揮下の部隊なんだろう、「セネガル歩兵部隊」が登場した記憶がある、一方、同じキャパ氏が、それより少し前、チュニジアから、シチリア島へパラシュート降下部隊に参加する際、その、チュニジアの戦線の、彼のまわりの、不確かな記憶だが「土民兵」と訳されていたのではなかったかな、が「誰」であるのか、つまり「何人」であるのか、アラブ人なのかベルベル人なのか、あるいはアフリカ人なのか、一向頓着している風のない書きぶりだった、さらに遡れば、ヘミングウェイはもとより、ジョージ・オーウェルでさえも、「スペイン内戦」を語る物語には、「残虐なムーア人」という、おそらくは「ステレオ・タイプ」が登場しかねないのだが、それこそ、上で古山氏が言うように、生・来・「残虐」な「民族性」なるものを、認定する立場が現に存在するだろう、しかし、それを、採用しないとするならば、これは、不用意な表現なのである、イギリス軍の最前線に常に立たされ、従って、ビルマ人からも、憎悪の対象となっていたらしい「グルカ兵」も、ほぼ例外なく「勇猛な」なる形容詞が付されるのだけれども、生来「勇猛」な、「民族性」を持ち出すよりは、そんな常に危険な任務に就くことを、長きにわたって余儀なくされていたならば、「勇猛」たらざるを得なかっただろう、と、「共感」してみる必要があるだろう、とは思うのね、・・・、「セネガル歩兵部隊」については、フランツ・ファノンが、自ら「自由フランス」部隊に志願した際、その中で、アフリカ出身のアフリカ人と、マルチニック、そこは建前上、「植民地」ではなく「直轄領」なのであろう、出身のアフリカ系兵士、つまりファノン自身も含む、との間にさえ、「より白人に近い」ことをめぐる差別構造があることを描いていた、また、「スペイン内戦」従軍後、療養のためにモロッコに滞在していたジョージ・オーウェルも、そのエッセイ「マラケシュ」の中で、「セネガル歩兵部隊」の行進の情景を描いていた、また、そのうちに触れることもあろうから備忘として、・・・、話がますます錯乱してきて、ま、誰も読んでいないのだから構わないものの(笑)、この辺で一時中座するが、では、私自身の「ビルマ患者」性について、・・・、2月1日のクーデターの新聞記事を読んで、それは、2011年の、エジプトや、シリアや、リビヤの、あるいは福島からの、「知らせ」と同じく、心に鈍い痛みを残しつつも、その「痛み」は、じっとしていれば、ショセン他人事ナンダカラ、やがては忘れ去っていくはずのものだった、単に、記事を「訳す」という作業は、別に誰か他人様の便宜のためだなんてとんでもない、辞書を引いて、一つ一つ言葉を「置き換え」ていく、ということで、はじめてち・ゃ・ん・と・読んだ気になる、という強迫観念から、「乗りかかった舟」に過ぎないけれども、こうして二月あまり、律義にその訳文をアップロードしているなんて、まるで、筋金入りの「国際連帯」・「活動家」ぶっているみたいで、気恥ずかしい。1988年の、学生、労働者の蜂起と、その後の流血の弾圧については、英字新聞の記事を読んだだけだけれども、くっきり憶えている、くっきり憶えているが、もちろん、何・も・し・な・か・っ・た・、のだ、学生時代は「過激派」でした(笑)、でも、卒業してから、歯茎から「血ぃ」吹き出すほど残業まみれのむごい会社で働いて(笑)、今から思えば、その頃はじめて「鬱」になりました、いや、あるいは、また、今から思えば、「過激派」からの脱落の方も、それほど重要でなくもない「トラウマ」を構成していたのかもしれないが、ともかく、爾来、ぼろぼろで(笑)、ほぼ、「呆然」と、人生やり過ごしてきたわけだった、遅まきながら「何もしなかった」ことへの「罪悪感」がない訳でもないだろうが、それでもそれこそ会田雄次氏ではないが、「なぜそんな気になるのか」、訝しい。一つには、記事の中から伝わってくる、それこそモングイ君にも似た、強・い・「諦・観・」の・力・、に魅かれたのかもしれない、古山氏とともに、それを「民族性」などとは呼ばないものの、・・・、もう一つは、記事にちりばめられた写真たちに移しこまれている、風景、だとか、「彼ら」の、服装、だとかへの「親しみ」なんだろうね、まだ「雨期」、六月から九月といわれている、には入らないから、あんな「抜けるような」青空、街路樹にはどこにも、ヤシ科の植物が用いられているだろ、古山高麗雄は、ビルマではデイゴを見ない、と書いていたが、ジョージ・オーウェルの「ビルマの日々」には、ホウオウボクが登場していたから、きっと、それら「南国」らしい、マメ科の高木がどこでも、派手な、原色の花を咲かせているのだろう、何より、催涙ガスと実弾の飛び交う「現場」を駆け回っている「彼ら」の服装、Tシャツに短パン、「島ぞうり」なんだぜ、・・・、そんなものに「親しみ」を感ずるほどには、私自身も、ようやく二十年以上を経て、この、「島」と、それなりの「和解」を果たしたのだ、と思い当たる、錯覚かも知れないが、きっと錯覚だが(笑)、気がつけば、私は、意固地になって「南」に身を寄せた振りをしている、わざとらしい振舞でありうることは承知しているが、でもそれば、古山高麗雄や会田雄次が、「ビルマ人」に対して、堺誠一郎や井伏鱒二が「マライ人」に対して、少し別のものにも見えかねないが、開高健、林芙美子が「ベトナム人」や「ベトナム」に対して、示した、関心や共感も、実はことごとく、ぎごちなく、疑わしく、胡散臭い、「私たち」は、そのような「出会い」しか可能でないような、「出発点」に立たされていたのだから、仕方がないでしょう、「仕方がない」存在であることを受け入れ、「仕方ない」ことの理由を考え続ける以外には、・・・。
会田雄次氏は、「終戦」とともに「投降」した日本兵として、イギリス軍の捕虜収容所に収容される、最初が、この書物の表題にもなっている「アーロン収容所」、続いて、「コカイン収容所」に移される、「Ahlone」は、現・ヤンゴン市の区(Township)」の一つの名称になっている、ヤンゴン市は、二つの河で囲まれていて、西から流れてくるヤンゴン川に、東からバゴー川が合流して、あわせてまたヤンゴン川となる、その合流地点の北側に位置しているのだが、その、合流する前のヤンゴン川の湾曲部の川岸に「Ahlone Township」、同じくヤンゴン市の町中に、「インヤー湖Inya Lake」があるが、これは、19世紀中頃、イギリス植民地主義者が、ラングーン市の水源として、川を堰き止めて造った人造湖であるらしいが、その南側に、「Kokkine Ave St」という名の道路を見つけることができた。

そしてもう一つ、モングイ君が、日本軍の兵士たちに向かって「マスター」と呼びかけているでしょう、これは、おそらく、ビルマ語としては、「タキン/thakin/သခင်」だったのだ、と想像している、ジョージ・オーウェル「ビルマの日々Burmese Days」には、「現地人」が、イギリス人たちに対して、呼びかけるときにしばしば用いている、この言葉には、ちょっと重要な含意があって、もちろん、このどちらの場合も、「占領者」に対する「卑屈」な身振りなのであるが、敢えてそれを用いたわけだろう、のちに建国英雄アン・サンも加盟することになる1930年創立の民族主義政党は、「タキン党Thakins」と呼ばれ、それは、おそらく、「私たちこそが、私たち自身の『主人』なのである」という意味が込められていたのであろう。では、今回のビルマ文字の練習問題は、これにする。
သခင်
接近音鼻音[θ(a)]
軟口蓋音有気音[kʰ(a)]
င်[ɴ](鼻音「ン」)の終わり方[ang]




口に物を頬張ったまま、他人様に喧嘩売るの、やめて貰えますかね(笑)?


サングラスをかけた「悪者」と言ったいでたちだが、物語の中の「悪者」がしばしばそうであるように(笑)、「優しい」(笑)、目をしている、・・・。


旧暦三月十五日の月、月の出直後

旧暦三月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出直後、これらの満月、「スーパー・ムーン」だったらしいことを、翌日の記事(↓)で、後から知った。
写真特集:2021年最初の「スーパー・ムーン」が空に浮かぶ/2021年4月27日アル・ジャジーラ
月の地球に対する公転もまた楕円軌道で、その「近地点」、「月」が「地球」に、最も近くなる点、つまり、楕円の「短軸」の両端、にいる、という状態と、たまたまそれが「満月」である、これは、太陽の位置によるわな、とが、「偶然」一致したときに生ずる、・・・、「『スーパームーン』談義、月もまた『楕円軌道』であることを思い出す」、のとき、ほぼ一年前のやはり「スーパー・ムーン」が話題になった時だ、も、「中心力場における運動方程式」に「万有引力」の「逆二乗法則」を組み合わせて、「極座標形式」で表す、とか、元・数学の先生、のご老体、錆びついた頭を無理やり動かしてやってみたのだった、・・・、ならば、平均朔望月29.53055556、これは、地球の太陽に対する公転による移動分を含んでいるから、月の地球に対する公転周期27.32166181、より少し長くなる、この二つの周期運動が、「干渉」しているのではないか?と、計算してみたが、某ペディアの、あまり親切とは言いかねる(笑)記事が、「スーパー・ムーン」の「周期」として提示している、411.8日を導くことはできなかった、・・・、議論が循環しているような気もするのだが、何が「間違って」いるのかは、わからず仕舞い、このまま「仕舞い」なっても文句は別にないのだが(笑)、こうしてまたその話題が出てくると、気になってしまう。ところでなんで「仕舞い」が「終い(しまい)」なんだ?、「仕舞い」は、「能」の略式の演じ方に与えられた名称らしいが、あるいは、それが公演の「最後」に行われるから、「終い(しまい)」という「宛て字」が生じたんだろうか?そのあたりの説明が、「広辞苑」にも見つからないのだが。上のアル・ジャジーラ紙の記事では、次回の、グレゴリオ暦2021年5月26日こそが、月が地球に最も近くなる、本物の(笑)「スーパー・ムーン」だ、みたいなことが書いてある、ある満月が、「近地点」近傍で生じたとすれば、その前後の満月もまた、平均朔望月が、公転周期に近いことに鑑みれば、やはり「スーパー・ムーン」になる傾向は、ありうるだろうね、・・・、はじめて「スーパー・ムーン」などという言葉を聞いたのは、というより、そもそもそんな言葉を聞いて反応できたのは、すでに「月」を「愛でる」習慣がついてからだから、海に囲まれた島に住んで、潮の満ち干などと言うものを「目の当たり」にするようになった、ごく近年のことなのだが、はっきりと覚えている、「高江」の「ヘリパッド」工事の最中、帰路に、読谷村の58号の歩道から、確かに異様に「でかく」見える満月が昇るのを目撃した、それが、なんでも、近来稀に見る(笑)、凄い、「スーパー・ムーン」だと言われていたと記憶する、で、これも去年もやってみたことだが、その日、2016年11月14日、を「基準日」にしてみると、確かに、411.8日を周期として現れる、という事実は、納得できそうなのである。

疑問(笑)、上のアル・ジャジーラ記事中の写真のうち、ベルギー、ドイツ、イギリス、はっきりしないけどフランスのも、地表近くの月の写真だから、そう書いてなくても、昇ったばかりのものと思われるのだが、あれ?、「うさぎさん」が前のめりに、寝ている、ではないか?どれも、ヨーロッパの北部だから、あるいは、これは緯度の問題なのか?もしそうならば、これでは、この地域に、「うさぎが餅をつく」という「神話」など、発生するはずがないことがわかることになるね、いや、それ以前に、小麦地帯に「餅をつく」文化、はないのだろうけれども(笑)、・・・、ちなみに、柳田国男によれば、「餅をつく」ことになったのは、後世の偽造で、月のうさぎさんが持っている杵は、「立杵」だから、これは、「脱穀作業」なのである、より大きなモーメントを利用して、糯種のイネ科植物の種子を、粉砕して粘りを出すまでにできるのは、「横杵」の発明を待たねばならなかった筈だからである。

来月、5月26日に来るべき、「スーパー・ムーン」は、上のアル・ジャジーラ記事によれば、地球から、357,463km、の位置にあるとのこと、この表の「近地点距離」より小さい数字であるのが気になるが(笑)、何か、計算手法によるものなのだろう、ということにしておいて、いずれにしても、相当に、「本物」の「スーパー・ムーン」らしく思える、雨が降らないように願って、心待ちにしよう、まだ、「生きている」としたらね(笑)。


イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス、そうだよ(笑)、見まがいようもない、「米軍基地」のフェンスだよ、空飛ぶ鳥は自・由・に・国境を越える、などとありふれた「喩え話」はあらかじめ解除しておかねばね、空を飛ぶには、多大なエネルギーを要するはずで、それは、地上に暮らすのが危険で困難だったからこそ「選択」された生き方だったのだ、他人の気も知らないで(笑)、勝・手・に・「自由」だなどと決めつけては、いけない。

コメツキガニ(スナガニ科)、「スーパー・ムーン」とは、そのときは知らなかった、ともかく、いつもの大潮干潮よりも、ずっと広く感じられた干潟の砂地、足音が近づくと同時に、何かが、たくさん、同時に、隠・れ・た・、という印象だけが残るのは、いつもおなじみ、気配を殺して、しゃがみこんで、数分間微動だにせずにいると、ようやく、こうやって、穴から出て来て、「仕事」を再開してくれるのだ。

キアシシギ(シギ科)

アオアシシギ(シギ科)











コアジサシ(カモメ科)
越冬地たる「暖地」から、遥かに離れた土地を、「繁殖地」に選び、エネルギーの浪費、とも思える「渡り」を採用した、というのなら、「寒地」には、その負荷を補って余りあるほどの、繁殖に必要な多大なエネルギーを、提供してくれる食物が、豊富にあるからなのだ、と解釈されている。「南」、えっと、差し当たり北半球での話にしておくと、の旺盛な植生を目の当たりにした者としては、それはちょっと意外に思える、植物の繁殖も旺盛なかわりに、微生物による分解も進むから、残存する勇気栄養分の量は、「寒地」の方が多い、ということであるらしい、・・・、まだ、「冬鳥」の最終便が、残っているというのに、「夏鳥」の「一番乗り」と言うわけだ、コアジサシLittle tern/Sterna albifrons(カモメ科Laridaeコアジサシ属Sternula)、なるほど、北半球の「冬」に、オーストラリアや南アフリカは、「夏」だものな、そこで越冬して、はるばるやって来てくれたここは、「北」ということになるのだが、そうなってくると、なんだか、上の「栄養」にのみ基づいた「解釈」は、ちょっと無理があるような気もしてくるが、・・・。

breeding(繁殖地)
resident(留鳥)
passage(旅鳥)
non-breeding(越冬地)
いや、そもそも「越冬」という言葉使いがおかしいね(笑)、北半球が「冬」である時期を、南半球で「夏」として過ごし、今度は、北半球が「夏」となれば、そこにやって来て、暮らす、というのなら、それは、ほとんど「冬」というものを、「避けている」と言えまいか?前に、カモメ科Laridaeアジサシ属SternaキョクアジサシArctic tern/Sterna paradisaeaの話をした、・・・、「在原業平一行が、『これなむ都鳥』と望郷に涙を流したユリカモメ、『京には見えぬ』その鳥が、あのとき、鴨川上空を舞っていたのを、少しも覚えていないことの『悔恨』など(笑)、いくつかの『オチ』の無い話。」、が、その鳥は、北半球が「夏」の間、北極圏で繁殖、北半球が冬を迎える頃には、南半球に移り、南極圏で過ごす、・・・、
北緯66.6度以北は、太陽が南回帰線上にあるとき(「北半球」の「冬」)は、一日中「夜」であり、南緯66.6度以南は、太陽が北回帰線上にあるとき(「北半球」の「夏」)、やはり、一日中「夜」、
反対に、・・・、
北緯66.6度以北は、太陽が北回帰線上にあるとき(「北半球」の「夏」)は、一日中「昼」であり、南緯66.6度以南は、太陽が南回帰線上にあるとき(「北半球」の「冬」)、やはり、一日中「昼」、
つまり、この鳥は、「夜」を、「避けている」のである。
低緯度地帯より高緯度地帯の方が、「栄養」が「豊か」という議論に沿って考えるならば、確かにそうなのだろうが、上の図を見て気付かれるように、同じく高緯度地帯、「極地」といっても、やはり「北」と「南」には、著しい非対称があるわけで、北半球の、シベリア、アラスカは、「陸地」であるのに対して、南半球は、ほとんどが海洋であって、オーストラリア、という「島」、南アメリカ、アフリカ、という「半島」が、わずかに突き出しているに過ぎないのである。
・・・
「スーパー・ムーン」の大潮干潮、「スーパー」潮干狩り(笑)、ぺちゃくちゃ騒がしい声が、頭上から降ってくる、太陽がまぶしくて、飛んでいる姿はなかなかとらえられない、ようやく、潮が満ちて来て、陸地が狭くなってきて、向こうは「不本意」かも知れないが(笑)、割合近くに舞い降りて、しばし休憩してくれる、・・・、サングラスをかけた「悪者」と言ったいでたちだが、物語の中の「悪者」がしばしばそうであるように(笑)、「優しい」(笑)、目をしている、真正面から見ると、なるほど、ペンギン(笑)、で、そうしてやっと、ああ、ペンギンも鳥類だったのだな、と納得できたりする。


キョウジョシギ(シギ科)、手前がメス、背後に隠れているのがオス

キョウジョシギ(シギ科)・オス、約二週間前、「浜降り」の頃、目撃したのが、もう最後だろう、みんな「北」へ渡ってしまったのだろう、と諦めていた、7月の末あたり、一番乗りで、ここ「南」、に到着するのもまた、この種だと思われるのだが、もちろん、同じ種だからといって、「渡り」の時期が同じとは限らないからね、・・・、シギ科では珍しい方かな、「性淘汰」による雌雄差が大きく、名前の由来は、オスの顔、「おしろい」のようなのが、「舞妓」さんとかを彷彿とさせる、と言うわけなんだろう、二十年その「都」に住んだが、「キョウジョ」と言われると、京都女子大学、とか思い浮かべてしまうから(笑)、あまりピンとこない。

コサギ(サギ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス、これも同じく、有刺鉄線は、上の方に隠れているけど、「米軍基地」のフェンス。





ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

シロチドリ(チドリ科)

スベスベマンジュウガニ(オオギガニ科)

マツバゼリ(セリ科)

トウバナ(シソ科)

デイゴ(マメ科)

ダイゼン(チドリ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

ダイゼン(チドリ科)

キョウジョシギ(シギ科)・オス

コアジサシ(カモメ科)

インドヨメナ(キク科)





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Last updated  2021.06.02 05:18:33



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