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昨日は学校の先生を擁護するようなことを書きましたが、でも、先生としてふさわしくない人はやめてもらいたいとも思っています。
でも、それは授業の上手下手とは関係ありません。 下手でも一生懸命努力すれば上手になるし、先生が努力し、成長していく姿を子どもたちが見ることで、それが子どもの成長意欲も育ててくれるでしょう。 でも、成長することをあきらめ、子どもをバカにする先生はただ害になるばかりです。 勉強が出来ない子をバカにする。動作がのろい子をバカにする。忘れ物が多い子をバカにする。太った子をバカにする。言うことを聞かない子をバカにする。 実際、こんなとんでもない先生が時々いるのです。 こんな先生は即刻、辞めて頂きたい。 これはベテランであろうと、校長であろうと、勉強の教え方がうまかろうと同じです。 (こういう親も時々いますが、“親をやめてください”とは言えないのが難しいです・・・・) 学校はあくまでも人間が成長する場です。 人間が成長する場だからこそ子どもも成長するのです。 ですから、成長したいという意欲を失った人は早めに教壇を降りて欲しいと思っています。子どもたちが可哀想ですから。 それと、新任の先生が未熟なのは当たり前なのです。 それはお母さん達がお母さんとして未熟なのと同じなのです。 どんなに知識が豊富でも、子育ても教育も現場で求められるのは実技ですから最初は誰でも未熟なんです。 ですから、本人が必死になって頑張っているのなら是非支えてあげて欲しいのです。 それがまたお子さんの、そしてお母さん自身の成長につながるのではないでしょうか。 ということで今日のテーマです。 「“まじめ”という病気」 日本人は真面目な民族として有名です。礼儀正しく、勤勉で、丁寧です。 外国のホテルなどでも日本人のお客は大歓迎されるようです。奇麗に丁寧に使ってくれるからです。 (ただ、最近海外にホームステイに行く子どもたちの評判は最悪ですけどね・・・・) でも、日本人として、身内として、内側からその“真面目”を観察していると、実際はどうもそんなに褒められたことでもないのではないかと思うのです。 私の考えでは、“まじめ”には二種類あると思います。それは、自律的なものと他律的なものです。 つまり、自分の意志と精神性から自然に出た“まじめ”と、他の人の目や規律に縛られた“まじめ”です。 前者の“まじめ”はその人の自然な表現としての“まじめ”なので、心にゆとりがあります。他の人の意見を聞くことも出来るし、時には相手に合わせて“ふまじめ”を遊ぶこともできます。 でも、後者の“まじめ”には自由も余裕もありません。ただ、ひたすら“まじめ”という役を演じ続けるだけです。 そして、このタイプのまじめな人は、前者の自律的なまじめな人たちを“ふまじめ”だと非難します。 例えば、このブログからリンクしている科学寅さんなどは、魔法使いの服を着て、子どもを迷わすような怪しげな事を言って授業をしているようです。 まじめに縛られている人から見たら、これは“ふまじめ”そのものです。 でも、本人はいたってまじめなんです。 なぜなら、彼は自分の主義、考え、想いに対してまじめなのであって他人にどのように思われるのかなどということを気にしているまじめではないからです。 でも、どうも日本には寅さんのようなタイプの“まじめな人”は少ないように感じるのです。人目を気にして“まじめ”を演じているだけの人の方が圧倒的に多いように思えるのです。 その証拠に、日本人には本音と建て前という裏と表があります。 また、他人の目がある場ではまじめですが、他人の目がないところでは平気で羽目を外します。つまり、はずせることができる“まじめ”なんです。 また、ちょっとしたきっかけで切れてしまう人が多いのもその証拠でしょう。 電車の中でちょっと足を踏まれた、窓口の対応がちょっと悪いと言うだけのことで、立派な身なりの中年の人が突然切れて罵声を浴びせかけるなどと言うような混乱した状態に陥ってしまうのも、まじめに子育てしているように見えるお母さんが子どものことなど考えていないこともよくあります。 私の大学の時の恩師が、以前東南アジアでの売春の実態を調査したことがあるそうです。 もちろん、色々な国の人が売春に参加するのですが、特に日本人の売春はひどかったそうです。 “ツアーをくんで大挙してやってくる”と言っていました。 また、政治家の裏と表、先生と呼ばれる人たちの裏と表も色々と問題になっています。 どうも、“ばれなきゃいいんだ”という表面的なまじめが日本人の間に広がっているような気がしてならないのです。 でも、(江戸時代生まれの)明治の頃の日本人のまじめはもっと自律的だったのではないでしょうか。だから、相手の顔色をうかがうことなく、しっかりとした外交もできたのでしょう。 でも、その自律的なまじめは、明治に入って近代的な学校教育が始まってから急激に消えていってしまいました。 それは、もともと生活の中にあって、本来は個人や地域社会に属する芸術や宗教や学問など、また、人から人へと手渡しで伝えてきたことを国が一括して統制管理するようになってしまったことなどが大きな原因だと思います。 つまり、そのことで生活実感と離れたところで国家にとっての“正解”が決められてしまったということです。 例えて言えば、それは標準語のようなものです。標準語としての“まじめ”の基準を国が決めるようになってしまったのです。だから演じなければならなくなってしまったのです。 でも、その表面的なまじめにも今変化が起きています。 それは、大人たちは“まじめ”を裏表で使い分けて適当にガス抜きをやっていますが、小さい時からまじめという基準しか与えられてこなかった若者が出始めてきたのです。 (長い間、方言と標準語を使い分けてきたのに標準語しか話すことが出来ない若者が増えてきたというようなことです。) つまり、そういう若者は裏も表もなく“まじめ”なんです。 他の価値観を知らないのです。 そして、そのまじめをはずれることに強い不安を感じるのです。 それが自律的なまじめなら大いに結構なんですが、そうではなく他律的な、他人を基準にした“まじめ”なんです。 それが今流行の“K.Y.”(空気が読めない)という言葉で象徴されているように感じるのです。 先日も、テレビで若者達が“KYは最悪”と言っていました。 私が接している子どもたちも、最近まじめな子が増えてきました。でも、まじめなんですけど、自分で考えようとはしないし、あきらめは早いし、とにかく相手をしていて面白くないのです。 人間としての面白みが育っていないのです。 そういう子どもたちが増えてきたのは、子どもたちが子どもたちだけの群れ遊び体験をしていないからだと思います。子どもたちの群れ遊びの場では、学校や家庭の中で言われているのと別の価値観が大切にされています。それは、勉強なんてどうでもいい世界です。本音を言い合う世界です。成績より、実際に“出来るか出来ないか”という事が大切にされる社会です。 そして、異年齢集団なのでコミニケーション能力、自己アピール能力も必要になります。昔々から、子どもの社会には大人の社会とは違う方言が存在していたのです。 そういう場の体験が良くも悪くも“まじめ”を使い分ける技術を育ててくれていたのです。 でも、今の若者はそれを使い分けることが出来ないのです。方言を知らないからです。この状態を、多様な価値観の喪失という言葉で言い表すことも出来るかも知れません。 このような“まじめ”はもう正常な状態ではないと思うのです。 “まじめ病”という病気です。 そういう若者が教壇に立ったり、子育てを始めた時、子どもという典型的なK.Y.を相手に、人格が崩壊しないことを祈るばかりです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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