12036950 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

森へ行こう(心とからだと子育てと)

森へ行こう(心とからだと子育てと)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

自分のマスターになる New! かめおか ゆみこさん

Comments

森の声@ Re[1]:「今が良ければいいという考え方は苦しみの先送りです」(05/31) New! めげぞうさんへ >小さな時からため込ん…

Freepage List

Profile

森の声

森の声

2011.10.08
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
日本では「革命」というような、天と地がひっくり返るような社会変動は起きません。明治維新は単なる政権交代であって、革命ではありません。革命は価値観の転換によって起きます。でも、日本の場合は価値観は変わらずに政治体制だけが変わるのです。

自民党が民主党になっても、そこにあるのは単なる方法論の違いだけであって、基本的な価値観は同じなので、結局何も変わりません。何か起きたとしても、単純に良くなるか悪くなるかという違いだけです。

欧米などでは党が違えば価値観も違うような気がするのですが、日本では共産党以外みんな価値観は同じです。ただ、党によって方法論が違うだけです。(共産党がいいということを言っているわけではありません。念のため。)

方法論の違いがその党の独自性を生みだしているのですから、その方法論においては譲ることが出来ません。ということはつまり、話し合いが成り立たないということです。

合理性を大切にする人達と、自然を大切にする人達は価値観が異なります。でも、この両者は話し合うことが可能です。人は合理性だけでも、また自然だけでも生きることが出来ないからです。問題になるのは「どこで折り合いを付けるか」という点だけなのでその点について話し合うことが出来るのです。

でも、基本的な価値観は同じで方法論だけが違う場合、つまり、「電車を使う」という方法論の人達と、「飛行機を使う」という方法論の人達とは話し合いが成り立ちません。折り合いのつけようがないからです。そのため、多数決で決めることになります。

政治家達もみんな基本的な価値観は同じです。その価値観は経済第一主義です。だから誰が首相になっても基本的には同じです。そこにあるのは、個人的な能力や具体的な方法論の違いだけです。

昔から、日本人はあまり「価値観」というものを大切にしない民族でした。というか個人的に価値観を持つなどという発想自体がなかったのだろうと思います。価値観を大切にしていないのですから、その違いによる対立も生まれません。当然、革命など起きません。

日本人が大切にしてきたのは、個人的な価値観ではなく自然や仲間とつながるための感覚や感性の方なのです。

でも、現代的な社会では、「自分の価値観を持つ」ということは、自分自身のアイデンティティーを確立するためには絶対的に必要なことです。

異民族に囲まれて暮らしている人達は自分たちのアイデンティティーを確立するために、自分たちの価値観をしっかりと確立してきました。自分たちの価値観が自分たちのアイデンティティーの根幹だからです。そして、その「価値観」こそが哲学でもありました。

でも、日本人は自分自身のアイデンティティーを確立すると言うことを大切にしません。というかその意味すらも分からない人が多いと思います。

日本では、周囲に日本人しかいなかったので「アイデンティティー」という概念自体が希薄なのでしょう。

それで、明治維新と共に世界に出ていくようになると、無理矢理「天皇」を中心とした日本人の価値観とアイデンティティーを作り上げたのです。でも、それらは政府が無理矢理作って国民に押しつけた価値観と、アイデンティティーだったので、結局根付きませんでした。

自分のアイデンティティーを確立しようとしない日本人は、自分の哲学や価値観を持とうとしません。ほとんどの人が無宗教なのもそのせいでしょう。

それ以前はみんな仏教徒でしたが、それも「仏教徒」を選んだのではなく、周囲のみんなが仏教徒だったらか仏教徒になっただけです。ですから、周囲のみんなが無宗教になればなんのためらいもなく、自分も無宗教になるのです。

そのため、日本人は他人やマスメディアが提示する価値観にすぐ染まります。また、国家や宗教が提示する価値観に依存する人もいっぱいいます。

人の言うことを非難批評する人はいっぱいいますが、「じゃあ、あなたの言葉であなたの価値観を語ってください」と言われて、語ることができる人は滅多にいません。

「私は田舎が好き」、「私は都会が好き」というのは単なる好みの違いです。その時、「田舎が好きな理由」、「都会が好きな理由」を自分の生き方とつながった哲学として語ることが出来る時、それは一つの価値観になります。

「価値観」を確立するためには、自分の生き方とつながった「哲学」の裏付けが必要なのです。

単なる趣味、興味、好みといったものと「価値観」は異なるのですが、でも、多くの日本人が自分の趣味や興味を、自分の価値観だと思い込んでいます。

ただし、私が言っている「哲学」とは、学校で習う「言葉によって作り上げられた哲学」のことではありません。それは「ヨーロッパ」という世界の一地方で生まれた一つの学問体系に過ぎません。

私が言っているのは「生き方としての哲学」です。

アメリカインディアンにはアメリカインディアンの、アイヌにはアイヌの哲学があるのです。
そして昔は、農民には農民の哲学と価値観が、職人には職人の哲学と価値観がありました。
男性には男性の哲学と価値観が、女性には女性の哲学と価値観がありました。

でも、現代人はそういう哲学も価値観も失ってしまいました。

そのため、安易に流行に合わせることや、顔やスタイルを整形してしまうことにも抵抗感がなくなりました。

アイデンティティーを持っていない人は他者に合わせることで、自分のアイデンティティーを作り出そうとするのです。

流行のファッションで着飾ることで、その流行に込められた哲学に依存し、アイデンティティーごっこをするのです。

そういう社会では「個人としての価値観や哲学を持った人」は異分子として排除されます。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2011.10.08 18:52:52
コメント(2) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.