|
カテゴリ:カテゴリ未分類
本来、子ども達は工夫したり、考えたり、発見したり、作ったり、創造したり、みんなと遊ぶことが大好きです。
そして、それこそが、「ヒト」を「人間」へと進化させてきた原動力でもあります。「ヒト」という状態で生まれてくる子ども達は、その進化を繰り返すために、そのような活動を求めるのです。 それが具体的な形になったのが「子どもの遊び」です。 この「子どもの遊び」を支えているのは「能動的な意思」です。それは「進化への意思」でもあります。 ですから、自分から能動的に遊ぼうとしない限り「子どもの遊び」は楽しくなりません。 そして、夢中になって遊ぶことでさらに能動的意思が高められるのです。 大人になった時、嫌々ではなく、「自分の責任」として自ら進んで役割を引き受けることが出来るようになるのは、子どもの時代に「遊び」を通して「能動的意思」が育っているからです。 逆に言うと、自分がやるべき役割から逃げ回ったり、「責任感」からではなく単なる「義務感」からしか役割を引き受けないような人は、子どもの時に「遊び」を通して「能動的な意思」を育てる事が出来なかった人だと思います。 でも、現代社会では、「子どもによる、子ども達のための、子どもの遊び」は否定されています。 そして、大人達がおもちゃを買って与え、「ここで、これで、静かに遊んでいなさい」と指示を出しています。 「子どもの遊び」が、「大人に与えてもらうもの」になってしまっているのです。 でも、そのような遊びでは「能動的意思」を育てる事が出来ません。 なぜなら「自由」がないからです。 「能動的意思」は「自由」がないような状態では育ちようがないのです。 「自由」が与えられた状態の中で、「自分がやるべきこと」を自分の意思で決める過程で、「能動的意思」が必要になるのです。 ですから、「能動的な意思」が育っていない人に「自由」を与えると、非常に困るようです。何をしたらいいのか分からず、ただ退屈なだけだからです。 そのような人は、「あれをやりなさい」「これをやりなさい」と指示を与えてもらっていた方が楽なのです。 「自分で決めなさい」と言われたら苦痛なんです。 私は若い頃大学に勤めていたのですが、大学には非常に長い夏休みがあります。もちろん、学生ほどではありませんがそれでも民間企業とは比べものにならないくらい長い夏休みがあります。 私は、その夏休みを使って毎年、絵を描くキャンバスや絵の具などと、キャンプ道具一式を担いで、一週間近く、山をうろうろ歩いていました。 それはまるで苦行のような旅でしたが、「自由」がありました。 夜、山の中で一人でキャンプしていると、心細く、怖くもありましたが、その「自由」が喜びでもありました。 それは、1年近くヨーロッパとインドをバックパッカーで歩いた時も同じでした。 でも、中にはそんな「自由」が苦痛の人もいるらしく、学長に「夏休みが長すぎるから短くしてくれ」と言った人もいたそうです。 長期の海外旅行に行った人でも、最初のうちは買い物をしたり、観光地巡りをして忙しく、そしてまた楽しく過ごすことが出来るのに、そういうものが一通り終わってしまうと、何をしたらいいのか分からなくなってしまい、退屈してしまう人がいるという話も聞いたことがあります。 色々なことを子どものように楽しむことが出来る人にとっては、「自由」は「喜び」なんですが、そうでない人にとっては「自由」は「苦痛」でしかないのです。 それは、自由を喜ぶことが出来ない人は、「自由であること」を「何もすることがない状態」と感じるのに対して、自由を喜ぶことが出来る人は、同じ状態を「何でも出来る状態」と感じるからなのでしょう。 だから「自由であること」を楽しむことが出来るのです。 その違いを生み出しているのが「能動的意思の有無」です。 子育てが苦しい人の中にも、その「自由」が苦痛の人も多いと思います。 子育てでは、指示命令が与えられません。何をしたらいいのか、何をしてはいけないのか、そして、何をすべきなのかということはみんな自分で考えなければならないのです。 そのため、「自由を楽しむことが出来ない人」は、どうしていいのか分からず途方に暮れ、苦しみ、「子どもの取り扱い説明書が欲しい」などと言うのです。 そのような人は、子どもにも「自由」を与えません。「自由であることの喜び」を知らないからです。 そして、子どもを自由にしたら、自分勝手になってしまうと思い込んでいます。 そのような人は、「競争」こそが子どもにやる気を起こさせるために必要なものだと思い込んでいます。 そして、子どもに自由を与えたら、競争が成り立たなくなることを知っているため、出来るだけ自由を与えず、束縛しようとします。 そのような状態では、子どもは苦しくなるため、出口を求めて競争を始めるのです。 子どもでも大人でも、「自由である喜び」を知っている人は競争などしないのです。 ライバルを見つけて競い合うことはしますが、それはただ単に「勝つことだけ」を目的にした競争とは異なるものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|