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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2013.09.27
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カテゴリ:カテゴリ未分類
私がちょくちょく取り上げるジョン万次郎は、14才の時に漁に出て嵐に遭い、流され、そしてアメリカの船に拾われ、アメリカに渡り16才になってようやく教育を受けるのですが、それまでは文字も書けない下っ端漁師でした。

ですから、当然のことながら学力は最低レベルです。年齢的には16才という高校生レベルでも、今の日本の小学校の3年生よりも学力は低いです。とにかく文字すら書けないのですから。

でも、彼は非常に高い学習能力を持っていました。ですから、そんなに低い学力だったのにもかかわらず、16才になって学校に行き始めたらめきめきと学力を伸ばし、最終的には首席にまでなってしまうのです。

昨日も書いたことですが、このように「学力」と「学習能力」とは別のものなんです。

学習能力は様々な場面で必要な能力です。漁師の生活でも、料理人でも、農業をやる場合でも、もちろんサラリーマンの生活でも、主婦の仕事や子育ての場においても「学習能力」は必要です。

その能力があるから「一人前の漁師」「一人前の料理人」など、ちゃんと自立して生活できる「一人前の大人」になることが出来るのです。

その能力が育っていないと「一人前の大人」になることが出来ないのです。

ジョン万次郎の時代の子ども達は小さいときから仕事をしていました。寺子屋などで学問をする子もいたでしょうが、それでも今の子ども達のように「勉強だけしていればいい」などということはなく、家の手伝いなどをしながら学んでいました。

そのような、実際に人と関わり、実際にからだを使い、実際に仕事をしなければならない生活においては、学習能力は必要不可欠です。

さらに、昔はどんな仕事でも、今のアルバイト店員が仕事を覚えるときに与えられるような丁寧なマニュアルなどなく、「見て覚えろ」という教育システムだったので、学習能力が低い人は決して一人前になることが出来なかったのです。

でも、今の学校教育では「見て覚えろ」などというような不親切なことはしません。しかも、現場の体験はさせずに知識だけを覚えさせます。

そのため子どもは、自分が学んでいる知識の意味も使い方も分からず、ただ先生が教えることを覚えるばかりです。そこには「理解」すらありません。

「方法の理解」はあっても、「意味の理解」がないのです。

「こういう時にはこうやって答えを出す」ということは理解していても、「何のためにそういうことをするのか」という理解がないということです。

だから応用が出来ないのです。

試験で100点を取っても、その知識が試験でしか役に立たないのです。

それでも、学校から帰ってから暗くなるまで群れて遊んでいた時代の子ども達は、学校の外に学ぶ場があり、そこで学校では学ぶことが出来ない多くのことを学んでいましたが、今の子ども達には学校と家庭しか与えられていません。

そして、その両方において同じように受け身的な生活だけをしています。

ということは、今の日本の子ども達は、学校の中だけでしか使えないものを学ぶために、20年前後の時間を費やし、実際の生活や社会に出てから必要になる能力を育てる事が出来ないまま「社会」に出て行かなくてはいけないということです。

それは、人間のために調教されたサーカスの動物たちが、大人になったからといっていきなり自然の中に放り出されるようなものです。

これが日本の子ども達の現状です。

大人達が子ども達に求めている「学力」とは、ペーパーテストによって調べることが出来るものだけです。

ですから「何が出来る」ということは一切問われません。ただ覚えていればOKなのです。

そして、「ペーパーテストによって調べることが出来るようなこと」だけを覚えるのなら、タブレット端末のようなものは非常に効果的です。

子どもの興味や関心に合わせて、自分のペースとやり方で学習することが出来るからです。

もしかしたら、学力を上げるためには理想的な学習方法なのかも知れません。

でも、タブレットだけを相手にしていたら、当然のことながら「人の話を聞く力」は育たなくなります。相手に合わせることも出来なくなります。

目を見て話したり、仕草や表情から相手の言いたいことや想いを読み取る能力も育たなくなります。

自己表現をする必要もないので、自己表現能力も育ちません。

それなのに、「自分は何でも知っている」的な錯覚だけは強くなります。そして、「何でも知っているから何でも出来る」とさえ思い込んでいます。

「知識」と「現実」は違うのだ、ということが分からないのです。

そして今、このような子がいっぱいいます。

そのような子に「ノコギリの使い方」を教えようとすると、「僕知っているから大丈夫」と言います。それで、「じゃあやってごらん」とノコギリを渡すのですが、それでちゃんと切れた子はいません。

またこのような子に限って学習能力が低いのです。


理屈上は、こういうことを補うために議論の時間や話し合いの時間を増やすようなことを言っていますが、でも、日本の先生にはその指導は出来ないと思います。

先生も体験したことがないことだからです。

それに、日常的に自分中心に学び、生活している子が、お互いに譲り合いながら対話できるわけがないのです。

自由な対話には自由が必要です。でも、今の日本の子ども達は自由を与えたら大騒ぎをするばかりで収拾が付かなくなります。

ですから、議論や対話も形式的に管理されたものになるでしょう。

でも、それでは何も学ぶことが出来ません。

だからといって、私は「子どもを学校になんか行かせる必要がない」と言いたいわけではありません。

私が言いたいことは、「今の日本の学校や子どもの状況がそうなってしまっている」ということを理解した上で、日々の家庭生活や、親子の関わりや、大人同士の仲間作りを工夫して下さいということです。

「学校とか学力という価値観に支配されない生き方をして下さい」ということです。


そうでないと、社会に出てからどうしていいのか分からない子どもばかりが増えてしまいます。





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Last updated  2013.09.27 07:59:20
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