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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2013.10.05
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カテゴリ:カテゴリ未分類
明日は、朝早くから筑波の方で農業をやっている友人の家に「いもほり」に行くので、ブログの更新はお休みさせて頂きます。

****************************

「生命」とは「音楽」のようなものです。確かに存在しているものなのに、直接見ることも、触れることも、科学的に研究することもできません。

科学的に音楽を分析してみても、そこにあるのは音や音符のみで、「音楽」を発見することは出来ません。

生命も同じで、私たちの肉体をいくら分析しても「生命」を発見することは出来ません。

実は、「神様」も同じような存在なのです。
宇宙のどこを探しても「神様」を発見することは出来ません。それは音楽を分析しても物理現象としての「音」しか発見出来ないのと同じです。

でも、「発見出来ない=存在していない」ということではないのです。

その論理が正しいのなら「生命」は存在していないことになってしまうからです。

そして、あらゆる生き物のからだは「楽器」のようなものです。「生命」とはその楽器が奏でる音楽です。

その音楽は親から子へと伝えられ、全ての生き物はそれぞれ固有の音楽を奏でています。

楽器だけがあっても、親から子へと音楽を伝えられないことには、その楽器は音楽を奏でることが出来ません。

「死ぬ」ということはその肉体(楽器)が演奏をやめることです。

湿度や温度や手入れの状態によって楽器が奏でる音は変化します。人間の場合にはそれが「健康状態」になります。

もともと物理的な存在ではないので不安定なのです。

特に人間の奏でている音楽は非常に不安定なので、ちょっとした刺激がすぐに音楽に影響します。

「ねえねえ お母さん聞いて」と子どもが言ってきたとき、お母さんは何気なく「今は忙しいから後にして」と言います。そうするとそれだけで、子どもの生命の音楽は長調から短調へと変化します。

するとその変化が子どものからだの状態にも現れ、お腹が痛くなったり、ぐずったり、不活発になったりすることもあります。

一般的にはこのような変化は「感情の変化」として扱われますが、実は「生命の状態の変化」が「感情の変化」として現れているのです。

だから、「感情の変化」と「からだの状態の変化」が密接にリンクしているのです。そして、強い悲しみや苦しみが心の中に固まってしまうと、心だけでなくからだの成長にも影響が出来るのです。


その「生命」は物理的な存在ではないので、その存在を確認するためには音楽と同じように「感じる」という方法しか有効ではありません。

ただその場合、自分で「自分の生命」を感じることは困難です。なぜなら、人間の意識は他者に向かうように出来ていて、自分自身へと意識を向けることが困難だからです。

人は何かを感じようとしているとき、その「感じようとしている自分自身」を感じることは出来ないのです。

瞑想のような方法を使えば出来ない事はないのですが、普通の人が普通の状態で自分の生命を感じることは非常に困難だと思います。

走ることに意識が向かっているときには、その走っているからだには意識が向かいません。

見ることに意識が向かっているときには、自分の「目」のことは意識しないものです。

人は自分の「目」でものを見てているのに、その「目」を見ることは出来ないのです。

じゃあ、人はどんな時に「自分の生命」を感じる事が出来るのかということです。

実はそれは、「自分の生命」と「他者の生命」が共鳴したときなのです。人は「他者の生命」を感じたときに「自分の生命」にも気付くのです。

道ばたに咲いている一輪の花に目をとめ、足を止め、心を止め、その生命の輝きに気付くとき、同時に「自分の内側の生命の働き」にも気付くのです。だから時として涙が出てくるのです。

赤ちゃんの姿に「生命の輝き」を見るとき、人は自分の「生命の働き」も感じることが出来ます。

これは音楽を聴いたときや絵画を見たときでも同じです。

アウシュビッツの収容所では、生命を支えるために必要な食事よりも、夕日を見ることを選ぶ人がいたそうです。

それは、夕日の輝きと美しさの中に「生きている」という「生命の実感」を感じることが出来たからなのでしょう。

だからこそ、孤独な人は「自分の生命」を感じる事が出来ないのです。

孤独であろうとなかろうと、生きている以上は「生命の働き」がその人の生命を支えているのですが、孤独な人はその自分の内側で働いている「生命の働き」を感じることが出来ないのです。

共鳴する対象がないからです。だから孤独であり、苦しいのです。

そして、孤独な人ほど「他者の生命」を感じる能力が弱くなってしまっています。だから、悪循環になってしまうのです。

「生命(命)を大切にしよう」と言っても、その「生命」を感じることが出来ない人にはそのような言葉は無意味なんです。


ですから、「命の大切さ」を伝えるためには、まず孤独から抜け出させることが必要なのです。

そして他者の生命とふれ合う場を与えることです。そのことで「自分の生命」にも気付き、「生命(命)を大切にする」という言葉の意味が分かるようになるのです。

でも、今の子ども達は「他者の生命」や「生命を感じるようなもの」と触れあうことが出来ないまま成長しています。日々子ども達が触れあっているのは機械や物ばかりです。

その結果、子ども達の魂はどんどん孤独になっています。そして、「自分の生命」も「他者の生命」も感じることが出来なくなっています。

だから、命の大切さが分からないのです。


そんな子ども達に「命を大切にしよう」と道徳で教えても全く無意味です。

もっとも、そんな発想しかできない大人達だから、子ども達を孤独にしてしまうのでしょうけど。





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Last updated  2013.10.05 11:12:05
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