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幼い子どもたちの「論理」は「体験」によって作られます。
というか「体験」における因果関係がそのまま「論理」になるのです。 ですから、自然の中でよく遊んでいる子は、「自然の論理」を「自分の論理」として受け入れます。 川や海で、砂や石や水で遊んでいる子は、砂や石や水の論理を「自分の論理」として吸収します。 例えば、石を積むときには、まず大きくて平らな石を下に置きます。 最初に「小さくて丸い石」を置いてしまったら、その上に積み上げることが出来なくなります。 それは、大人には当たり前のことですが、幼い子どもには「当たり前のこと」ではないのです。そういうことも体験を通して学んでいることなんです。 その論理が分かった子は、石を積むとき以外でも、「何かを積み上げる」という行為をするときには、この「論理」を使うことが出来ます。 でも、そのような体験がない子は、こんな「当たり前のこと」も分らないのです。 子どもに椅子を作らせると、平気で四本とも違う長さの足を切ってくる子もいます。 そして、組み立ててから、「先生、この椅子グラグラするんですけど」と言い出すのです。 そのような子は大抵「からだ遊び」や「自然遊び」が不足している子です。 セミなどを捕まえて遊んだ子は、「静かに近寄らないと逃げられる」という体験をします。これは「かくれんぼ」などでも使える論理です。また、様々な人間関係の場面でも使える論理です。 子どもたちは、自分が直接体験したことから「論理」を抽出して、全く違う場面でも応用して使っているのです。 子どもは自分のお母さんとの関わり合いを通して「人間関係の論理」の基礎を学んでいます。 そして、その論理を使って他の子と関わろうとします。 指示命令で動かされてばかりいる子は、他の子に対しても指示命令で動かそうとします。 自分自身が意見を聞かれたことがないので、「相手の意見を聞く」という発想がないのです。 そういう場合、その子はそういう方法(論理)しか分からないのですから叱っても仕方がありません。 そして、これは人間関係においてだけでなく、その子の様々な考え方の「論理」にもなっていきます。 例えば、工作などをするような場合でも、このような子は力づくで何とかしようとします。 「心の論理」は一度作られてしまうと、それがどんな場面、どんな状況の中で作られたものなのかに関わらず、その子の「心の論理」となり、色々な場面で応用されるのです。 だから、人生の初期における体験は非常に重要な意味を持っているのです。 人生の初期に「肯定的な体験」から入った子は、後から「否定的な体験」をしても、肯定的な論理を持つようになります。 「肯定的な論理」で「否定的な体験」を理解しようとするからです。 でも、「否定的な体験」から入った子は、あとから「肯定的な体験」をしても、それを「肯定的な体験」として受け入れなくなります。 「否定的な論理」で「肯定的な体験」を理解してしまうからです。 シンデレラは優しいお母さんに育てられました。 だから意地悪な継母が来て悲惨な生活を強いられても、肯定的に生きることが出来たのです。 でも、最初のお母さんが後から来た意地悪な継母のような人だったら、後から来た継母が優しいお母さんだったとしても否定的にしか生きることが出来なくなっていたでしょう。 そして、魔法使いもやってこなかったでしょう。 幼児期に悲惨な環境の中で育った子どもたちのケアをする難しさがここにあります。 ただし、このような人間関係における体験は不安定です。当然のことながら、お母さんが違えば、子どもたちは違う体験をしています。ですから、違う「人間関係の論理」を学んでいきます。 でも、「自然界の論理」は、基本的に地球上どこに行っても共通しています。 「物質の世界の論理」に至っては、宇宙のどこに行っても共通しています。 ですから、「自然界の論理」や「物質の世界の論理」を身に着けた子は、世界中どこに行っても、その土地の人と対話することが可能です。 「人間の論理」しか分からない人は、「自分の常識」と「相手の常識」が異なっているだけで、それが障害になってしまうと思います。 また、幼児期に偏った体験の中で育っている子でも、自然の中で遊んだり、造形的な活動を通して「自然界の論理」や「物質の世界の論理」に触れることで、「個人的な体験を超えた論理」を持つことが出来るようになります。 家族の中で否定的な体験しか体験していない子でも、その体験を俯瞰的に見る論理を得ることが出来るのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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