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「言葉」はそんなにも大事なものなのに、でも、困った事に人は自分が知っている言葉しか子どもに伝えることが出来ません。
日本語しか知らない人は日本語しか子どもに伝えることが出来ません。 東北弁しか知らない人は東北弁しか子どもに伝えることが出来ません。 また、「感覚を表す言葉」を失ってしまった人は、「感覚を表す言葉がない言葉」しか子どもに伝えることが出来ません。 何でも「ヤバい」という表現で済ましてしまう人は、「多様な感情表現が出来る言葉」を子どもに伝えることが出来ません。 また、多様な感覚や感情の体験がない環境で育っていれば、親はそのようなものを表す言葉を知っていても、それを子どもに伝えるきっかけがありません。 親は「花」という言葉を知っていても、子どもが「花」が存在しない世界に生きているなら、子どもに「花」という言葉を伝えることは困難ですよね。それと同じです。 子どもたちに、戦争や飢餓で飢えている人の状態を伝えようとしたら、子どもが「分かる、僕だってものすごくお腹が空くことがあるから」と言ったそうです。 飢えた人を見たこともなく、飢えた体験のない子には、「飢える」と「お腹が空く」の違いが分からないのです。 また、現代の若者達達は、微妙な感覚や感情を表現する言葉を失ってしまっています。 生活の中から、そういう言葉を必要とする場も、そういう言葉を伝えてくれる人もいなくなってしまったからです。 大人は常識として知っていることでも、それを子どもに伝える場がなければ、子どもはそれを知らないまま育つのです。 「命」と出会ったことがない子に、「命の大切さ」を伝えることは出来ないのです。 そういう子でも「命」という言葉は知っているでしょうが、「命の体験」がない子が使う「命」という言葉には中身(リアリティー)がありません。 そして、簡単便利な機械やインフラに溢れた状態の中で生活している私たちは、ますます「言葉」を必要としなくなって来ています。 それでも、会社に行って仕事をしている人は必然的に言葉を使わざるおえませんが、勉強だけしていれば許される子どもや、無職の人は、一切言葉を使わなくても生活出来ます。 特に子どもは、大人の指示をある程度理解出来れば、家庭でも、学校でも、一切会話をしなくても生活出来ます。 現代の子ども達は「指示を理解する能力」だけがあれば、一日中、誰とも言葉を交わさなくても普通に生活出来るようになっているのです。 学校などで「理解する言葉」は学ぶでしょうが、「自分の感覚や、感情や、意見や、考えを表現する言葉」を必要としていない生活をしている子どもたちは、そのような言葉を学ぶことが出来ません。 また、そのようなことを話しても、その言葉に耳を傾けてくれる人もいません。 昔の子どもたちは大勢で群れ、多様な遊びで遊んでいましたから、遊びの場で必然的に、「感覚や、感情や、考えを伝え、共有する言葉」を学ぶことが出来ましたが、ゲームで遊んでいる子にはそういう言葉は必要がありません。 現代の子は、物理的には大勢の人に囲まれて生活しているのに、他の人との間に「密な関わり合い」が存在していないので、「全てが揃った快適な無人島」で一人で暮らしているのと同じ状態になってしまっているのです。 そういう状態で「言葉」を学ぶことは出来ないのです。 その結果、「自分の世界」を広げることも、自己肯定感や他者と関わる能力を育てることも、「自分育て」も出来なくなってしまっているのです。 「言葉」は人間の人間らしさの根幹を支えるものです。 そんなにも大切なものなのに、現代人はその価値を知りません。 そして知的な能力を育てることばかりに熱心になっています。 でも、人の心を持たない知性は危険なだけです。 子どもの「心」や「からだ」を育てるためには、「言葉育て」とセットにして考える必要があるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.11.13 09:02:59
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