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普通の人は絵を描くとき、まず輪郭線を描いてからその輪郭線の中を塗ったり、輪郭線に沿って描くことで絵を描いていきます。
それは、「塗り絵」の描き方と同じです。 そうすることで失敗を防ぐことが出来ます。また、しっかりと輪郭線を描くことで、「何が描いてあるのか分からない」という状態になることもありません。 子どもが自由に描いた絵を判別するのは困難ですが、塗り絵ならばその心配はありません。 また、画用紙やキャンバスからはみ出てしまうこともありません。 簡単に言うと、この「塗り絵的な描き方」には「安心」があるのです。 でもその「安心」と引き替えに「自由」は失われてしまいます。 そして「自由」が失われてしまうと、「新しい可能性」や「新しい展開」も失われてしまいます。 キティーちゃんの塗り絵は、キティーちゃんの絵以外の絵にはなりようがないのです。 ではなぜ「輪郭線」から描く人が多いのかというと、絵を描くトレーニングを受けていない人は、「見ているもの」を描くのではなく「頭の中の観念」を描こうとしてしまうからです。 「ウサギとはこういうものだ」「リンゴとはこういうものだ」「家とはこういうものだ」という観念が輪郭線となって表れるのです。 目に「輪郭線」が見えているわけではありません。というか、「輪郭線」などというものは現実の世界には存在していないのです。 リンゴの中と外を分ける「三次元的表面」は存在していますが、二次元的な輪郭線は人の頭の中にしか存在していないのです。 そのような人は自分の頭の中にある観念を画用紙の上になぞっているだけなんです。だから、新しい発見も、新しい展開も生まれないのです。そして、いつも同じ絵を描いています。 「ウサギとはこういうものだ」という観念で描かれるウサギの絵はいつも同じになるのです。そこにウサギの個性はありません。 で、ここまでは「絵」の話ですが、この「塗り絵的な生き方」をしている人が非常に多いのです。 そのような人は、人生にまず「輪郭線」を描きます。 「学校とはこういうものだ」「人生とはこういうものだ」「勉強とはこういうものだ」「子どもとはこういうものだ」という輪郭線です。 その輪郭線も「観念の働き」が創り出しています。実際にはそんなものどこにも存在していないのですけど、そういう輪郭線を作っておくと安心するのです。 そして、子どもにその塗り絵を強要します。 「勉強をしないと・・・」「幼稚園、学校に行かないと・・・」「歯磨きをしないと・・・」「いい学校に入らないと」というように行動の輪郭線を与え、その輪郭線からはみ出ないように求めるのです。 そうすることで親が安心を得たいのです。 子どもに任せていたらどんな絵になってしまうか分からないので、大人が輪郭線を創ってあげて、本人には塗り絵だけさせるのです。 でも、いくら塗り絵が好きな子でも、自分の人生を親が決めて、「その通りに生きろ」と言われたら苦しくなりますよね。 自分の人生は自分の力で自由に生きたいですよね。 でも、「輪郭線がない世界」を生きたことがない子は、「苦しいんだけど、どうしていいのか分からない」という状態になります。 外の世界に出たいけど、外の世界で生きていく自信もありません。 いくら塗り絵が上手な子でも、「じゃあ今度は何にも描いてない真っ白い画用紙に描いてごらん」と真白い画用紙を渡されても戸惑ってしまいますよね。 そのように育てられた子は、大人になっても、自分の人生を塗り絵のように生きようとします。 そして子どもに「学校は行くべきだ」「勉強はすべきだ」と輪郭線を押しつけたり、「良いお母さんはこうじゃなければいけない」などと自分も輪郭線を塗るような生き方をしようとします。 絵(人生)はもっと自由に描いていいのに、「自由に描く」(自由に生きる)ということが感覚的に分からなくなってしまうのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.07.27 13:54:47
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